第十四章 16

 安楽市絶好町の繁華街には、褥通りと呼ばれる怪しげな場所が存在する。


 建物の背面によって挟まれた、人気がほとんど無くて汚らしい、文字通りの裏通り。道の幅は狭く、少なくとも車は入れそうに無い。道や壁のあちこちには血の痕が残っている。たまに死体が転がったままになっている事も珍しくない。

 電灯すらろくに通ってないので、夜はかなり暗い。建物や店から漏れる灯りが頼りだ。

 繁華街の一角から入ることが出来るが、その入り口は見落としてしまうほど狭い。ビルとビルの合間の細いスペースを抜けると、道が開ける。


 裏通りの住人以外は立ち入らないとされている危険な場所ということで、善良な市民は立ち入ろうとしない。たまに子供や酔っ払いが肝試し気分で入り、死体を見て逃げ出すか、抗争に巻き込まれて死体になる。


 褥通りの道沿いに面しているのは、多くが建物の背面であり、たまに空き地や資材置き場もあり、店も多少は存在する。いずれも裏通りの住人向けの店だ。


 木戸康清は定期的に褥通りにある、『バロン』という名の酒場に足を運んでいた。

 バロンはタスマニアデビルのような中立指定地域ではないので、店の中で乱闘や撃ちあいが起こることもよくある危険な店である。足を運ぶ者はそれも覚悟のうえであるため、裏通りの中でも特に荒々しい気質の者が多い。また、タスマニアデビルでは行いがたい、交渉が決裂して戦闘になる可能性もある危険な取引も、ここでは行われる。


 木戸は売れない絵描きであり、始末屋だった。よれよれの地味なトレンチコートを着た、中肉中背で猫背の中年男で、目にも表情にも覇気が無い。見た目はくたびれたおっさん以外の何者でもない。


 定期的な欝に陥りがちの彼は、欝と同時に定期的に凄まじいスランプに襲われる。そうなると全てが灰色に見える。色はついているのに灰色のヴェールがかかったかのように、この世のほとんどの色に美を感じられなくなる。それが木戸を苦しめている。

 その欝状態を解く方法が一つだけある。人が死んだ時に流れる血の赤だけが、彼の欝をまるで魔法のように消し去り、さらには創作意欲をかきたててくれる。

 木戸が裏通りの住人となる道を選んだ理由はそれだ。始末屋ではあるが、殺しの仕事を多く引き受けるので、殺し屋と言っても遜色がないほどだ。

 人の死を目の当たりにする機会にありつける。それによって自分は救われる。絵もまた描ける。そのための殺し屋稼業。


 人の死と血を見ると精神が落ち着くという難儀な性質ではあるが、無差別殺人のような真似をしたいとも思わない。良心もそれなりに残っている。

 仕事で殺しを引き受けたとあれば、その良心も疼かずに済む。どうせ人に殺されたいと思う者など、大抵ろくでもないという理屈で。故に、殺す相手も脛に傷を持つ者に限定し、表通りの住人を殺す依頼は受け付けていない。


 その日の晩、バロンにて木戸は、自分と組んで仕事をすることになる相方の到着を待っていた。


 誰かと組んで仕事をするケースは、今までにも何度もあった。対象が複数かつ強者となった場合は、依頼者がそういう形で依頼をしてくることもあるし、木戸はそれに抵抗を感じない。組むことになった相手とも、歩調を合わせる努力はする。

 しかし相手が自分に合わせてくれるかどうか、その保障は無い。たまに協調性の無い厄介な奴もいるからだ。

 仕事をきっちりとこなすため、何より自分が生き残るために、相方がどんな人物であるかは事前にちゃんと確認しておきたい。それによって木戸も振る舞い方を考えなくてはならなくなる。


 今回組むことになった相方の噂は、木戸も知っていた。木戸もそれなりに名が知られている方だが、名声では相手の方が上だろうと認めている。そして噂に聞く限りは、わりと厄介な性格の持ち主らしい。

 そもそも自分の呼び名に『エンジェル』などと名づけている時点で、痛々しさを感じてしまう。


「嗚呼……天使の消えた店だ」


 その男は入店するなり、そんなことを口走っていた。

 その台詞だけで相方となる人物の到着と、ボックス席に一人座ってチビチビとウイスキーを飲んでいた木戸は察して、店の入り口の方へと顔を向ける。


 丸いサングラスをかけ、縦縞の背広とスラックスにだらしなくゆるんだネクタイという服装。何故か女物のバックを下げ、リーゼントで固められて高く大きく突き出た髪の毛。背は180あるか無いかといった感じでやや高めで、服の上からでも痩身とわかる、歳はおそらく三十前後くらいと思われる男。何もかもが印象的な見た目だと、木戸の目には映った。


「お初に御目にかかる。俺がエンジェルだ」


 木戸のいる席まで来ると、ひどく気取った口調で男は挨拶した。片手を払ってみせ、軽くポーズまで決めている。


「木戸康晴だ。何と言うかその……目立つな。噂通りだし」


 噴出しそうになるのを堪えながら、木戸も挨拶する。


「天使は目立つ。天使は噂される。何も不自然なことではないな」


 芝居がかった口調で言うと、エンジェルは木戸の向かいへと座った。


「そうだねえ。天使は絵にもよく描かれているしね。俺は風景画の専門だけど」


 愛想笑いを浮かべながら、相手に多少は合わせて会話に臨もうすとる木戸であったが、それが余計なことにならないだろうかという懸念もある。


「木戸さんの絵はネット上で拝見したよ」


 口元に微かに笑みを浮かべて言ったエンジェルの言葉に、木戸は少し驚いた。


「木戸さんの絵に、俺は天使を見た。確かに俺には見える。例え木戸さんが描いたつもりが無かろうと、あの絵には天使が宿っている」

「そ、そうか……。一応、褒められているんだよ……な?」

「当然だ。これがけなしているとあれば、どうかしている」

「けなしているまでもいかないが、からかっているとか感じる人もいるかもな」

「それは心外だ。俺の言い方がどこか悪いのか? お父ちゃんはそんなこと言わないはずだ。真面目な話、不愉快に感じられたのなら教えてくれ。謝罪する。そして後々気をつけたい」


 いきなりお父ちゃんという、この男の見た目や喋り方に全く合わない単語に面食らう一方で、意外と真面目そうな言動をとるエンジェルに、木戸は好感を覚えた。


「そのさ……天使とかそういう表現されてもさ、普通はそういうこと言わないからね。人によってはからかわれてるのかも、と思っちゃうかもよってこと」

「なるほど。お父ちゃんにもよく言われていたよ。自分の感覚が必ずしも人と通じていると思うなと。だが天使という言葉を口にするなと言われてしまうのは、キツいものがあるな。ふむ……」

「いや、そこまで真面目に考えなくていいよ。まあ強いて言うなら、前後の言葉でフォローしてみる感じかなあ」

「なるほど、御教授ありがたい。木戸さんは天使のようにいい人だな」

「そうそう、そんな感じ。って、恥ずかしいわ」


 破顔する木戸。


「じゃあそろそろ仕事の打ち合わせといこう。雇い主のホルマリン漬け大統領が指定した建物に、相沢真と月那美香が来たら、これを進入させずに迎え討ってほしいとのことだ。できれば高田義久という記者も始末してほしいとのことだが、最優先事項は、建物への侵入阻止だと。ここまで聞いてるよね?」

「まさにこれは天使の導きだな。ああ……父ちゃん、またあの子と戦うよ」

「また?」


 エンジェルの言葉を訝る木戸。


「相沢真ならかつて一度戦ったことがある。天使は俺に微笑んだ」

「へえ、それは心強いね」


 エンジェルの今の天使云々の使いまわしが、勝ったという解釈でいいのだろうと受け取り、木戸は社交辞令だけではなく、多少は本心も交えて言う。


「まだ彼がヒヨッ子の時だがね。その時俺は、彼に死の天使を導きはせず、見逃したがね」

「じゃああんたに相沢を任せていいかね?」

「今は必ずしも俺が勝るとも限らん。彼の天使もかつての下位天使に非ず。そのヒエラルキーは上がり、ドミニオン程度にはなっていると見たよ、お父ちゃん」

「天使どうこうもあれだが、お父ちゃんは何なんだ……」


 気になってとうとう木戸はその単語について触れた。


「死んだ父親に報告しているだけだ」


 心なしか寂しげな笑みを浮かべて言うと、エンジェルはグラスに注がれたウイスキーを一気に仰ぐ。


「父親が天使なのか?」

「そうとも言える。それもまた真理。しかし俺には天使が見えるが、父親が見えたことはないな」

「天使が見える?」


 エンジェルの今の台詞は、ただの比喩や妄想の類ではないと、木戸は直感した。


「かつて俺は、雪岡研究所でそう改造されるように望んだんだ。彼の麗しき大天使長雪岡純子にね。天使の導きが見えるようにと。そして俺は天使の御使い――ラットとなった」


(マウスではなくラットか……)


 昔、雪岡純子に改造されたマウスを殺したこともある木戸は、ラットなるものの存在も一応は知っていた。雪岡純子に改造された者の中でも特に強い力を持ち、何よりも雪岡純子を崇拝し、忠誠を誓っている連中であると。


「話がそれちゃっているね。まあ、相沢は君にお任せするから、俺は月那美香を担当しよう」

「承知した。彼女の天使の歌声が聴けるのも、これまでになってしまうのかな?」


 不敵に笑うエンジェル。


(すごい変わり者だが、ある程度は常識と協調性が有りそうで助かった。ま、各々担当する形で単純にケリがついたからってのもあるけど)


 そう思い、内心ほっとしている木戸であった。

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