第十二章 36
ジェフリーとエリックの敗北を知ったアンジェリーナ・ハリスは、身の危険を感じて機関室に身を潜めていた。
救援の船には、この船の二倍以上にも及ぶ数の、海チワワの精鋭達が乗っているはずだ。その船が来るまでの辛抱だ。
『乗客の皆様、これから伝えることを落ち着いて聞いてください』
突然船内アナウンスが日本語と英語の両方で響き渡る。
『ツアー航行中のドリーム・ポーパス号の船内におきまして、組織的な犯罪行為が行われていたことが発覚致しました。現在、海上保安庁の船が、ドリーム・ポーパス号へと向かっております。大変申し訳ありませんが、お客様の身の安全を考え、グリムペニス主催のホエールウォッチングツアーは中止とさせていただき、海上保安庁の船へと乗り換え――』
アナウンスの内容を聞いて愕然とするアンジェリーナ。
「何で私のいない間に、勝手にそんな話になっているのよ!」
怒りに顔を歪め、ヒステリックな叫びをあげる。むしろ責任者であるアンジェリーナが勝手に雲隠れしたからこそ、話がスムーズに進んでしまったことに、彼女は気がついていない。
(この事態が明るみになれば……いや、ならないわけがないわね。世界中に報道されるのは間違いないわ。そしてグリムペニスを敵視する勢力に、付け入る隙を与えてしまう。私は大きな失態を犯したということで、組織内での評価もガタ落ち……。何てことなの……)
今からでも何か打てる手は無いかと模索する。全ての責任を海チワワに押しつけるという手もあるが、そうすれば海チワワがグリムペニスに対して心証を悪くしかねないし、海チワワとグリムペニスがギクシャクすれば、結局それはアンジェリーナの責任ということになる。
(どうしてこんなことになったのよ。どこに落ち度があったというのよ。私が何を悪いことをしたというのよ。何で? どうして? 何で?)
頭を抱えてうずくまり、答えの出ぬ問いを投げ続けるアンジェリーナ。
そのせいで、彼女はすぐ目の前で接近されても気がつかなかった。足音はエンジン音で聞こえなかった。
「まずグリムペニスのボスをげっと、と」
「あとはジェフリー・アレンか」
すぐ近くで声がして見上げると、微笑みを浮かべた白衣姿の赤い瞳の少女と、片腕を三角巾で吊った白い肌の黄色い目に黒い瞳の人外が、揃って間近でアンジェリーナのことを見ていた。
***
晃達四人が部屋に帰還した時には、凜はすっかり回復していた。
「随分とぼろぼろになって帰ってきてまあ。でもお疲れ様」
微笑みながらねぎらいの言葉をかけて、凜は十夜のスーツを脱がせて、傷口に味噌を塗りたくっていく。
『現在、海上保安庁の船が、ドリーム・ポーパス号へと向かっております。大変申し訳ありませんが、お客様の身の安全を考え、グリムペニス主催のホエールウォッチングツアーは中止とさせていただき――』
十夜の治療の最中、船内アナウンスが流れた。
「楽しいクルージングツアーも、こんな形でお開きかあ」
晃がズボンを脱ぎながら皮肉っぽく言う。十夜の次に足の怪我を治療してもらうためだ。
「十夜は危なかったわね。もう少し遅れていたら死んでいたかもしれない」
大きく開いた傷口に味噌を塗るだけでなく、傷口の合間を塞ぐようにして詰めこみながら、凜は言った。それに加え、自分のみそ妖術による治癒が無ければ、助からなかったかもしれないほどの重体だ。
「普通にやったら絶対勝てない相手だと思ったんだ……」
丁度目を覚ました十夜が、自分がまだ生きていたことに安堵しながら口を開く。
「昔やったマイク・レナード、あれよりもずっと強いなって、対峙しただけで直感した。だから戦いを長引かせても負けるだろうし、いちかばちかの賭けに出るしかないなって思って、無茶するしかなかった。それでも際どかったけどね」
エリックとの戦いを思い起こし、身震いする十夜。間違いなくこれまでで最大の強敵だった。スーツの精神高揚作用が無かったら、エリックを前にして、より明確に恐怖を覚えていたであろうし、相打ち覚悟の戦法をあっさり決断できたかどうかも怪しい。
「まず必要なのは状況の整理ね。貴方達の体力の回復もはかりたい所だけど」
様々な人間が一度に動いているため、自分達のあずかり知らぬ所で、船内の状況が大きく変化している。
「私達の任務は九割方達成した。あとは助けた人を無事に陸まで送るだけなんだけど、彼等の保護は海上保安庁が引き受けてくれるみたい。さっきここに芦屋が来てね。そういうことで話がついたの。それでいいよね?」
晃の治療へと移りながら、ツツジとアリスイの方を見て確認する凜。
「はい、それで問題ありません」
「問題あるわけないですよっ。何故なら、海上保安庁は海で強い凄い人達だと聞きましたからっ」
それぞれ答えるイーコ二人。
「相沢先輩も大丈夫かなあ。あの糞強い鳥山正美とタイマンとかさー」
今の今まで忘れていた晃だが、気分が落ち着いて、正美を引き受けて残った真のことをようやく思い出した。
「いくらあの子でも、鳥山相手には一人で臨むのはヤバいでしょ……」
凛が呻く。かつて自分を完膚なきまでにうちのめした真ではあるが、鳥山正美の力はさらに次元が上の代物のように感じられた。
「ま、これで無事陸に戻れば依頼達成になるけど、戻れるのかなあ……? 何かいろいろ起こっているみたいだし、すんなり戻れるかどうか怪しい空気だよ?」
晃が不穏な言葉を口にするが、その懸念は全員持ち合わせていた。
「家に帰るまでがドンパチって奴か。純子に連絡してみた方がいいんじゃないかな。こっちは情報が欲しい所だし」
十夜が凜の方を向いて言ったが、凜はかぶりを振る。
「実はさっきメール入れたけど、返事が来ないのよね」
純子は純子の方で忙しいのかもしれないが、それが返って気になる。ろくでもないことをしているのではないかと。
「偵察だけなら私達にもできますし、外の様子を見てきましょうか?」
「今はじっとしているのがいい。さらわれた人も全部救出できたわけだし。様子を見るとしたら、彼等を保護してある部屋くらいでしょ」
ツツジの申し出を凜がやんわりと断ったその時、暗く沈んだ殺気が近づいてくるのを感じ取り、凜の表情が引き締まる。
「血の臭いだ」
晃が小さく呟く。一同、部屋のドアの方を向いて警戒する。
(私がやるしかない)
凜が立ち上がって部屋の真ん中まで歩き、ドアと向かい合い、ベッドで寝ている十夜と晃を背にする格好で構える。スーツは着ていない。脇に下げたホルスターの銃がむき出しの状態だ。
(超常の力が働く気配がする。用心しろ)
町田が告げた直後、ドアが部屋の内側に向かって吹き飛ばされた。横に跳び、ドアの直撃を避ける凜。
「皮肉だな。エリックを殺してくれたおかげで、お前達の居場所がわかった。そういう条件でなら、俺の占いは輝くんだ。人の生き死に……殺しが関わるような代物ならな」
ドアが無くなった部屋の入り口に佇み、全身から殺気を放ちつつ、暗く沈んだ声を発するジェフリー・アレン。その股間からは大量の血が流れだし、占い師じみた衣装の下側を血で汚している。
「え……? 無い……。あれが」
晃が呻いた。服の切れ間から見えてしまった。股間に有るべきものが、根元から切断されて血まみれになっていることが。
「お前等かあ……。俺のエリックを殺しやがったのは」
自分でも驚くほど静かな声を発するジェフリー。怒りも恨みもこめられていない声。先程散々泣き喚いたおかげで、ひどくクールダウンしている。
「どうやってここの居場所がわかったんだろ」
「あん? 占いって言っただろぉ。俺の日本語は完璧なはずだぞぉ?」
疑問を口にする十夜に、ジェフリーが告げる。
「あなた達は下がってなさい」
ボロボロの晃や十夜には荷が重い相手と判断し、凜が告げる。特に十夜は二度にわたって重傷を負い、体力がかなり低下しているし、傷を塞いだからといって、とても戦える状態ではない。
ジェフリーの実力がどれほどのものかわからないが、全身から非常に静かな殺気が放たれているのを見て、彼がコンセント服用以上の研ぎ澄まされた集中力を発揮するであろうことを、凜は予期していた。
ドン底を味わった直後か、あるいは何か悪いものから解放された直後は、こういう精神状態になることを凜は知っている。そしてその時、人は途轍もない力を発揮することも。
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