第十一章 33

「な、な、なななな、な何してるのーっ!?」


 混乱と驚愕が入り混じった叫びをあげるなど、純子は滅多に無いが、流石に今回ばかりは叫ばずにはいられなかった。


 一体今日は何度目の驚愕か。しかし間違いなく本日最大級だ。純子は一瞬頭の中が真っ白になったが、すぐに気を取り直し、目の前の惨状に対処しにかかる。


(んー……こんな怪我の治療なんかしたこと一度も無いしー。いや、Hしたのだって初めてだったけれど)


 困惑しながら血だまりの中のそれをひろいあげ、治療にあたる純子。


(とりあえず縫合だねー。普通に繋げるだけで大丈夫だよね……)


 切断面を合わせて、その間に指を指し入れて能力を発動し、瞬く間に縫合する。


「痛い? 痛くない? 大丈夫?」


 血管も精管も海綿体も綺麗に繋がって傷跡も無いが、純子は心配げに真の顔を覗き込む。真は相変わらず虚脱した表情で、虚ろな眼差しを虚空に向けている。


(うわー、これがレイプ目ってのだ。レイプしたつもりでいる真君の方がレイプ目……って、ふざけたこと考えている場合じゃないね。でも私も結構混乱しているから、ふざけたこと考えて平静になろうとしている感じかなあ)


 真の顔を間近で見て、くだらないことを考えていた純子であったが、急激に愛しさがこみあげてきて、その頭を抱え込むようにして自分の胸に押し寄せて、強く抱きしめる。


「真君」

 耳元でそっと声をかける。


「放っておけよ……僕は……お前を……」


 掠れ声で言った直後、真の目から涙が一筋零れ落ちる。


「深く考えないで。私は真君のこと拒んでないし、何も問題は無いからさ……」


 気の利いた言葉が思いつかなかったが、真を少しでも安心させたい、傷ついた心を癒したいと精一杯の気持ちを込める純子だった。


***


 その後、真は雪岡研究所の客室へと移され、二日が経った。


 純子が声をかけても何も答えなかったが、食事には口をつけるので、純子は安堵して己のするべきことを行う。人間、食事が喉を通るうちは平気というのが、純子の持論の一つであった。


 その間に純子は情報組織『凍結の太陽』に依頼して、真の身に何があったか徹底的に調べ上げ、懇意にしている証拠隠滅等の後始末専門始末屋組織『恐怖の大王後援会』にも依頼し、真の戸籍を消し、警察が真の捜索をしないようにし、マスコミにも真の存在だけは報道させないようにしてもらった。

 さらに裏通りの住人として、中枢に真の名を登録しておいた。基本的には裏通りの住人は全て、中枢の管理化に置かれている。そこからはみ出す者はただの犯罪者として、あっという間に警察に捕まってしまうし、中枢から受けられる恩恵は多い。


 凍結の太陽の調査結果はすぐに出た。自分がいなかった数日の間に真の身に何が起こったか調査を依頼し、大体は把握できた。


「中々ヘビーな経験したよね。私達に負けず劣らず。こっちの世界に足を踏み入れるには、十分すぎる洗礼だったんじゃないかなあ」


 凍結の太陽から送られてきた調査報告ファイルを読み終えた累に、タイミングよく純子が声をかける。

 累が研究所に帰還したのは、つい先ほどのことだった。それまでずっと、幽閉用の結界から抜け出そうと悪戦苦闘していた。


「僕が……あんな見え透いた罠にかからなければ、純子がそんな目に……合う事もなかったかもしれないのに……すみません」

「私はいいんだよ。それより、真君が深い傷を負った方が問題だよ」


 目にいっぱい涙をためて謝罪する累に、純子はアンニュイな表情で告げる。


「わからないなあ……こんな時どんな対処したらいいのか。こんだけ長生きしててもわからない。恋愛関係はさっぱりなんだよねー。まあ全然経験が無いから、当然だけど。真君と巡りあうまで、一切恋愛感情が生じない呪いを自分でかけたんだし」

「恋愛云々以前の……問題でしょ。この状況……は。今の真に……僕達ができることは、あまり無いと思います。本人の力で、乗り越えるしか……」


 嗚咽まじりの声で喋る累。純子は小さく微笑むと、累の元へと歩み、その小さな体を抱きしめた。


「嬉しいよ。そうやって、私や真君の事を心から想って、泣いてくれるだけでも」


 その言葉に嘘は無い。だが一方でそれが申し訳ないという感情が、純子にはあった。

 何故なら純子は心の底で、この悲劇を愉しみ、酔ってもいたからだ。自分に身に起こった事も、真に降りかかった災難も、それを嘆く累も、全てが純子の中で愉悦となっていた。


***


 純子と累が声をかけても一切無反応で、ずっとただ虚空を見上げていたので、真はずっと放心していたかのように思われたが、実際にはそうではなかった。


 打たれ強い心の持ち主で、切り替えの早い真からすれば、心に負った傷などに、屈し続けていることができなかった。一眠りしただけで、ある程度は自然回復してしまっていた。

 しかし心の傷が癒えたわけではない。痛みはそのまま残っている。もっと弱い心の持ち主であれば、痛みから逃避していられたであろうが、真はその痛みに向き合い、耐えることが出来たからこそ、余計に辛く、しんどい。


(礼子みたいにあっさり逃げていれば、さもなきゃ放心し続けていられれば、楽なのにな)


 そんなことを思いながらも、真は自分が今何をすることが必要なのか、何を成せば最善なのか、自分の身に起こった事が何であるか、自分の何が間違っていたのか、必死に頭を巡らせていた。


 冷静になって考えを整理して、幾つかわかったことがある。

 純子のあの様子を見た限り、純子は何も知らなかったようであるし、自分を貶めようとしたなどとは考えられない。先程部屋を訪ねた累もそうだ。自分のことを心底案じて接していた。

 誰かが自分をハメようとしたのは確かだ。純子の名を騙って、自分と純子をハメようとした者がいる。それは一体何者だ? 何の目的でそんなことをしたのか。


 そもそもおかしいのは、何故自分の周囲の人間が殺されているのに、恋人である純子へは連絡を入れようとしなかったのか? どこかで誰かに不可思議な力で、純子の存在を忘れさせる催眠術でもかけられたのではないかと勘繰る。だがどこでどのような形で行われたか、わからない。

 純子へ連絡をしなかった事だけでは無いような気もする。自分の行動や思考の不自然さは全て、操作されていたかのではないかと。裏通りの物と思しきチンピラが家に上がってきた時もそうだ。今から思えばあの時、有り得ないほど強烈な殺意にとらわれていた。


 何か忘れている気がする。一つではなく、多くの何か。夢で見た記憶、現実で起こった記憶。様々な何か。それらを思い出すことが出来ないが、何かがあった事は確かだという感覚だけが残っている。


 ここ数日の自分の行動を、思い出せる分だけ思い出し、そこから連想する形で何か手がかりは無いかと記憶を探っていく。同じ記憶でも何度でも思い起こす。何時間もかけて繰り返す。


 その結果思い出せた事は二つ。まず一つは純子から来た電話。あれは宗徳が殺された時にかかってきたものだ。その直後に麻子から仁が死んだとの連絡があった。あの時は単純にタイミングが悪かったが、純子に連絡するという発想が無いわけではなかった。

 つまり、あの時は何者かのマインドコントロールは解けていた。

 その後、純子に危機が降りかかることを避け、自分の携帯電話から純子の名も番号も履歴も消しておいた。あの時も、純子と連絡を取るという発想が無かったわけではない。盗聴等で純子の存在を知られる可能性を考えたわけだが、あの時電話をしていれば、今とは違った結果になったのではないかと考える。


 もう一つは、由美との会話の前後で、記憶が抜け落ちている箇所があるという事だ。それが何であるか、全くわからない。思い出せない。


 ノックがする。訪問者が純子であるなら、丁度いい所に来たと真は思う。同時に胸が痛み、指先が激しく震え、動悸も激しくなる。


「御飯だよー」


 純子がもってきたのはボルシチだった。そう言えば約束していたと真は複雑な気分になる。


「僕の担任の鹿山由美はどうなった?」


 ようやく自分に声をかけてきた真に、純子は安堵の微笑をこぼすが、その質問がいきなり飛んできた事を意外にも思った。


「真君、自分で何か調べたの?」

「いや、何もしてない。やっぱり何かあったのか?」

「真君の友達やお母さんは警察に引き取られていたけど、君の担任教師は行方不明っていう扱いなんだよね。君を襲った梅宮計一君の死体の側に、君でも梅宮君でもない人物の血痕があったから、私はそれが痕跡なんじゃないかと思うけど」


 純子の言葉に、真は衝撃を受けると同時に確信を得る。


「そこで鹿山は殺されたはずだ。何で鹿山の死体が無いんだ」


 真のその一言で、純子はからくりの一部が見えた。

 純子はすでに黒幕を知っていたが、真にどういう形で干渉していたかはわからなかった。だが、『死体が無くなっていた』という話だけで、真にどう干渉したか少し理解できた。


「鹿山との会話の前後で抜け落ちている記憶もある。お前に連絡を入れようとしなかった事も変だ。変なこと言うけど、僕に催眠術か何かをかけていたのは鹿山なのか? あいつが黒幕なのか?」

「私はその人のこと知らないけど、話を聞いた限りではその人が怪しいね。黒幕の手下っていうポジションじゃないかな」

「このメール、見てくれ」


 真が携帯電話を純子に手渡す。計一が持っていたものだ。純子の名で、純子が力を与えたという話で、計一に指示を送っている。


「なるほどー。私の振りをした誰かから力を授かって、指示を受けていたんだね。まあこれ見たら、私が疑われても無理ないけど、それにしても私ならこんなこと言わないなーって台詞が、結構目につくねえ。私ならもっと相手のことおだてていい気にさせるしさあ。妙に抑圧かける系な台詞とかあるし」


 粗悪な演技に嘆息する純子。真似するならもっとうまくやってほしいと思う。


「誰なんだよ。お前を騙り、梅宮をそそのかした奴は」

「それは私の口からは教えないことにする。知りたければ……力をつけて自分で見つけてみるといいよ」


 純子はある決意の元に、そう告げた。これまで純子が何人ものマウスにやってきたように、目の前の愛しい少年にも、同じことをする決意を。真もその道を選ぶに違いないと確信している。


「まあ、後の事は私に任せていいよー。これは全部、私の責任だからね。本当すまんこ。私のせいで、真君を――」

「お前も僕に嘘をついていた……。いや、話さなかったことがあるだろう?」


 純子の謝罪を遮る形で、静かな口調で問う真。責めるニュアンスは全く含めていない。


「裏通りの有名人とか、表通りですら名前が知れているマッドサイエンティストだとか」

「んー、それねー……。正直知られたくなかったって気持ちがあったから、黙ってたんだよ。嫌われちゃうかなーっていう怖さもあったしねー。君にあわせて、普通に付き合う方がいいんじゃないかとも思っていたし」

「そうか」


 真は納得した。純子が嘘を言っているようには思えない。そして純子の気持ちを汲んで、また胸が痛んだ。


 それから真は、純子の前で、今まであったことを全て語りだした。計一が口にしていた台詞も全て。由美との性交すらも包み隠さず語った。

 長時間に及ぶ真の話を、純子は一切口を挟むことなくただ聞いていた。いろいろ思う所はあったが、何も言わなかった。

 一つ驚いたのは、真本人が言うように、どこかでマインドコントロールが解けていた事だ。どういう術であるか純子は知っていたし、あまり強力な術でもないので、ふとしたきっかけで解けてしまうこともありうるが、それにしても話を聞いている限り、術が解けるきっかけとなりうる要因が見受けられない。


「何でお前を信じられず、お前を……傷つけてしまったんだ……」


 全てを話し終えた後で、真はうつむき、ポツリと呟いた。それが何よりも許せなかった。他の誰より自分が許せない。

 真は絶望していた。あの時ドン底だと思ったのに、さらにその下に奈落があったと知った。


「そんな僕に優しくしてくれるのはやめてくれ。もっと責めてくれればいいのに……」

「巻き込んだのは私なのに、責めるわけがないよ。私のことを恨んでる子の仕業だからねー」


 純子が優しく微笑み、テーブルの上に置かれていた食事を指す。


「冷めちゃったよ。食べてから話せばよかったのに」


 真は黙って皿を取り、室内にある電子レンジの中へと入れる。


「このまま私と別れて、何もかも忘れて、表通りで生きるのもいい。でも、君はそんな風には出来ていない。私にはわかるんだ。いや、君が普通に生きようとしていたのを尊重していたから言わなかったけど、本当はあの時からわかっていた。君はそういう性(サガ)じゃないってこと。君は私達と同じ。こっち側の人間だってね」


 今言うべきではないかことかとも思ったが、真の気持ちをより落ち着かせるためにもなるかと計算し、純子は最も伝えたかったことを口にした。


「ゆっくり考えてみて」


 微笑みを崩さずに告げると、純子は部屋を出ていく。


(まあ考えるまでもなく、真君がどういう結論に行き着くのか、わかってるんだけどね)


 純子の読みは三分の一だけ当たっていたが、残り三分の二は全く予想外な代物だった。

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