第十一章 30

 純子がフランスに行っている間、累は一人で研究所の留守番をしていた。脳だけの科学者達やら、実験台として生かさず殺さずの状態で保管されている者達もいるので、正確には一人で残っているわけではないが、研究所内で自由に動けるのは累だけである。


「えっと、出前……と」


 自分で料理を作れない事もないが、面倒なので全て出前で済ませている累。一人で外食する事も出来ないし、そもそも出前の電話すら嫌なので、音声のやりとりをせず、ネットで注文できる店を選んで出前を取る。

 呼び鈴が鳴り、モニターを見ると、そば屋の姿が見受けられる。


「そこに置いといて……ください」


 支払いもすでに入金して済ませてあるので、代金の支払いでそば屋と顔を突き合わせる必要も無い。そばを置いてもらってそば屋が去った後で取りに行けばよいとして、そう注文する。

 そば屋はすぐにいなくなったので、累はそのまま研究所入口へと向かう。


(あれ……? 血の臭い? それに……死の臭い)


 本人曰く犬並と語る純子の嗅覚には及ばないものの、嗅ぎなれた血臭と死臭は、かなり遠くからでも累にはわかる。入口の方から漂っている。

 純子と敵対した組織が研究所まで攻めてくることはほとんど無かった。何しろ裏通り中枢によって、中立指定地域とされたカンドービル地下にあるので、抗争をするには不向きな場所だ。しかし今までに全く無かったわけでもない。


 一応警戒しつつ入口まで歩いていくと、そこには誰の姿もなく、ただ側のお椀が置いてあるだけだった。しかし臭いは強烈に漂っている。


(まさか……)


 強化ガラスのドアを開き、さらに臭いが増した所で、臭いがお椀の中から漂っている事を察知し、お椀の中を見てみる。


 切り取られた顔が、お椀の中のそばの上にかぶさっている。おそらくは今来たそば屋の顔。

 全く無関係の人間の命を平然と手にかけ、そのうえでこのような悪趣味な真似をする者に、累は心当たりがあった。


「おや? もっと驚いてくださると思いましたのに、リアクションが薄いですわね」


 前方の空間に切れ目が入り、ドアが開くかのように、亜空間から一人の女性が姿を現した。


「百合……」

 現れた白ずくめの貴婦人の名を、蔑みをこめて呼ぶ累。


 かつて共に行動していた事もあるが、累はこの女が大嫌いだった。やることなすこと悪意に満ちあふれ、人の命を戯れに消すような女であった。かつての自分もそうであったし、近親憎悪も混じって余計に嫌悪感が催す。

 そのうえ自分や純子と袂を分かつ際、はっきりと牙を剥いて敵対行為を成してから去っていった。


「今更何をしに……きたのです」


 同じ過ぎたる命を持つ者ではあるが、実力的には純子や自分より大きく劣る存在であるこの女が、堂々と姿を晒して単身でここまで乗り込んでくる事が、累には解せなかった。手勢を率いている気配もなく、大きな力を手に入れたという風にも感じない。


「貴方に用がありましてよ。累」

 優雅に微笑みながら百合は言うと、累に背を向ける。


「破滅を見たいのでしたら、ついていらっしゃいな。何も知りたくないなら、そこにそうして引きこもっているとよいですわ」


 あからさまな挑発による誘き出しであったが、黙って見過ごすわけにもいかないと判断し、累は百合の後をついていく。相手を格下と見なし、絶対に負けない自信があっての事であったが、その余裕と自信が大きな過ちとなる。


「どこへ行こうと……言うのです」


 研究所を出て、カンドービルからも出た百合は、そのまま街を歩いていく。


「貴方に来ていただきたい場所にですよ。言ったでしょう? 貴方に用があると」


 累の問いに対し、警戒心と好奇心の双方をかきたてる言葉を返す百合。

 やがて二人は、繁華街南にある神社の裏口までやってきた。距離にすると、カンドービルからはさほど離れていない。


 神社の裏口をくぐろうとして、突然累の動きが止まった。何かしらの術に自分がかかった事を意識する。それも途轍もなく強力な術に。


(今……結界の中へと入った。一方通行の……)


 術の正体を瞬時に見抜く累。おそらくは神社の裏口と結界の入り口がリンクしていたのであろう。入るまで、その気配を全く悟らせないほど巧妙にしかけられていた。


「あらあら、随分と簡単にひっかかってくれましたこと」

 百合の声だけが響く。


「罠という事はわかっていました……。でも、お前は見過ごせなかった……」


 負け惜しみにしかならないとわかりつつも、累は言わずにおれなかった。


「ええ、そうでしょうね。罠だとわかっていても、貴方は性格上必ず来ると、私もわかっていましたもの。自分の力に絶対の自信を持っていて、どんな相手が敵であろうと、退く事が無いですものね。たとえ罠があっても、自分は絶対に負けない、死なないと信じていらっしゃるのでしょう?」

「もちろんです……」

「確かに私では貴方を仕留めることはかないませんわ。けど、こうして封じるくらいならできましてよ。貴方の力はともかくね、その単純な性格が命取りですわ。これは十人以上もの妖術師魔術師を雇って、二十日以上もかけて作っていただいた、特別製の結界ですのよ。いくら貴方でも、そう簡単には出られませんわ」

「僕を……ただ封じるためだけにおびき寄せたと……?」


 累は考えを巡らせる。おそらく百合は今、純子が研究所にいないことを知っていた。そのうえで研究所に何か罠を仕掛けて、純子に害をなそうしているのではないかと。そのうえで、邪魔になりかねない自分を連れ出し、長時間の足止めを行ったと考えれば、合点がいく。


「邪魔になりそうでしたのでね。私が何をしたのかは、後で純子に聞くとよろしいですわ。いえ……本当のことを言えば……」


 そこで口を閉ざし、百合はその場を立ち去る。


「私にもこれからどうなるのかわかりませんの」


 累には声の届かぬ場所に来た所で、楽しそうな笑みを広げ、百合は呟く。


「さあて、どんな展開になるのかしらね。私にも予測不可能ですわ。純子は誤解を解けるの? それともあの子を殺してしまうの? まさかあの子に殺されてしまうの? 楽しい悲劇か、哀しい喜劇か、どんな結末になるのかしら。ああ、とても楽しみですこと」


***


 真はカンドービルの地下にあるという、雪岡研究所を訪れた。


 地下に行くには、ビル一階のどこかの壁にある蓋を開き、パスワードを入力する必要があるとネットの情報で知っていたが、そのパスワードまでは流石にわからなかった。

 だが、ネットで情報を漁っている最中に、計一のケータイにメールが届いた。差出人は雪岡純子。そこには数字がただ並んでいただけだった。


(これがパスワードとやらで、来いと言っているのか?)


 自分が会いに行こうとしている事すら見透かして、弄ばれている気がして、真は冷たい怒りがこみ上げる。


 そして真はあっさりと研究所へとたどり着いた。雪岡と書かれたガラスのドアの前に立つ。ガラスの半分は盛大に破壊されており、床に落ちたガラスには研究所と書かれていたのがわかった。

 入口が壊れた状態という事を不審に思いつつも、おかげで容易く侵入できた。


 白い床と壁。真っ直ぐ伸びた通路。等間隔で両サイドについた扉。扉には全て看板がかけられていて、そこが研究室か、生活に用いる部屋かが分かる。研究室は複数あるようで、第一研究室などと、番号がふられている。


 この中のどこかに純子がいるのかと意識する。フランスに行ったなどと嘘をつき、自分を騙して、計一をけしかけて、大事な人達を殺させて、実験台として弄んでいた。

 一体何のためにそんなことを? 一体何の実験だと?


(本当にそうか? 何かの間違いなんじゃないのか? いや、間違いであってほしい)


 そんな疑問と願望が、真の中に浮かぶ。とにかく会って確かめたい。

 最悪の結果だった場合には、やる事は一つだ。

 ネットの噂など全部嘘であってほしい。計一が口にしたことも、計一の携帯電話に書かれていたメールも、自分の知る雪岡純子とは別人であってほしい。

 しかしネットで裏通りのサイトまで調べてみたら、雪岡純子の写真もばっちり載っていて、それはどう見ても自分の知る純子であったので、冷静に考えるまでもなく、確定としか思えない。


 それでも真は、藁にもすがる思いで、違ってほしいと願っていた。純子はそんなことをしない。計一を裏で操って自分を貶めたりなどしていないと。


 幾つかの扉を順番に開いてみたが、特に変わったものは無い。普通の部屋もあれば、怪しげな実験室もあったが、人の気配は無い。


「ぅぅ……」


 ふと、まだ開いていない扉から呻き声が聞こえた。真は気を引き締め、懐の中の銃を掴んで、ドアを開く。


 そこにあったものを見て、真は愕然とした。


 部屋の中央に何本も立つ、綺麗な青い液体が湛えられた巨大なシリンダー。中には見たことも無い生物が入れられている。

 黒いタイルを敷き詰めたような肌を持ち、頭部は巨大な目だけの怪人。腕だけが異様に長くて肘が二か所も存在し、足は膝から下が無く、全身を黄色か茶色の毛に覆われ、首の上に頭部が無い代わりに股間から憤怒の形相の頭部が生えた、猿のような生き物。体中を針金で貫かれ、口も針金で縫われ、手足もおかしな角度に折り曲げられて体と針金で結びつけられた、肥満気味の女性(これは人間にしか見えなかった)。手足が無く、ナメクジのような皮膚を持ち、ウナギのような尻尾が生え、しかし禿げ上がった頭部は異様に巨大化しているとはいえ、完全に人間のそれという不気味な生物。

 それらの奇怪な生物は全て生きていた。液体の中で呼吸をしているようであぶくを出し、真が部屋に入ると、一斉に目を動かして、真のことを見た。


「ごろぢでぐれっ」


 巨大な頭を持った禿ナメクジ男が、液体の中からも伝わる声で、そう言った。


「だのむ、もうごろぢでぐれっ。づらい」


 真はすでに理解している。これらの生き物は全て元々人間であり、ここの主によって、このような姿に作り変えられたという事を。


「誰にこんなことされた?」

「ゆぎおがぢゅんっごっ」


 真の質問に対し、即座に予想通りの答えが返ってきた。

 真は手近にある椅子を手に取ると、シリンダーめがけて思い切り叩きつけたが、ガラスとは思えない硬度で、ビクともしない。


「何か方法は無いのか? どっかのスイッチ押すとか」

「わがらない。いろいろだめぢで」


 シリンダーの周囲を探ってみたが、スイッチは無い。シリンダーに繋がるパイプを外そうと試みたが、それも無理だった。銃で撃つことも考えたが、これ以上弾を減らしたくも無かった。


「僕では力になれないみたいだ……。でも、仇くらいはとってやるよ」


 ナメクジ男に向かって言うと、真は椅子に腰を下ろす。

 その後、真はその部屋でずっと座って待ち続けた。研究所の主が帰ってくるのを。

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