第十章 11

 純子からその人物に会いに行くなど滅多にない事であった。その人物だけに限らず、彼等に用事で会いに行く事そのものがあまり無い。意識してか、それとも無意識か、純子は彼等と必要最低限しか関わりを持とうとしなかった。


 純子の所に自ら望んで実験台に志願して力を得た、マウスと呼ばれる者達は、純子にしてみれば、放し飼いの状態になっているペットのようなものであり、ストックしてある駒であり、何か遊びを思いついた時に用いる玩具であった。いずれにせよ、純子なりに思い入れのある大事な存在である。

 だが彼等は違う。同じ実験台でありながら、純子は彼等と最低限しか関わらず、概ね放置していた。当人達はその理由を知らない。それどころか、純子が関わらないようにしている事に、気が付いている者すら少ない。


 安楽市絶好町繁華街にある喫茶店『キーウィ』。純子が訪れた時、待ち合わせの人物はすでにいた。約束した時刻の十分前である。


 歳は二十代前半。グレーのスーツ、赤いシャツ、黒にエメラルドのストライプが入ったネクタイという装いに、靴はスニーカーという組み合わせ。眼鏡と切れ長の細い目が知的なイメージを与える。顔の掘りは浅いが顔の個々のパーツと組み合わせは非常に整っており、顎が細く、クールで繊細そうな美男子といった印象の男だ。


 彼の名は早坂零。雪岡純子の『ラット』の一人である。


「随分と久しぶりに会うな」


 純子を見上げ、零の方から口を開く。見た目の印象通りの、涼やかで高めの声。無表情であるが、視線そのものは熱を帯びている事に、純子も気が付いている。


「んー、そうだったかなー」


 小さく微笑み、向かいの席に座る純子。その微笑みは一瞬で消える。誰に対してもいつもにこにこと愛想がよい純子のことを知る者が見れば、違和感を覚えるであろう。


「もっと我々を使ってくれていいんだぞ。我々ラットは、それを待ち望んでいるのだから」

 心なしか不満を込めた口調で零が言う。


「ふーん、じゃあ、私のために今すぐ死んでと言ったら死んでくれる?」


 また一瞬だけ微笑みをこぼして純子が問うた丁度その時、ウェイトレスがやってきた。


「あ、エスプレッソで」

「死なないな。生きている方があんたの役に立てる。死んで役に立てる局面があればそうする」


 憮然とした様子で零は答えた。奇妙な会話が交わされている事にも何も反応を示さず、ウェイトレスは淡々と注文の確認をして下がる。


「んー、その答え、いいねえ。喜んで死ぬとか言ったら、何の意味も無くすぐ殺してあげるつもりでいたけどさー。自我を無くして、忠誠心に殉ずるような子って好みじゃないからねえ」

「他のラットの中には、そう答える奴が多いかもしれないな」

「実際何人かいたよー? うん。皆その場で死んでもらったよー。それで本人らは幸せだったんだろうし、私もすっきりしたし、互いによい結果だったんじゃないのー?」


 純子のその言葉に、零は口ごもった。そして抗議とも不満ともつかぬものを込めた視線を純子にぶつける。


 早坂零はマウスならぬ、ラットと呼ばれる者の一人である。純子の実験台となった者である事に代わりは無いが、その中でも特に能力が高く、何より純子を狂おしく信奉して忠誠を誓い、一部は組織集団としてつるんでいた。

 だが肝心の純子は、自分の組織を持つことそのものを好まず、他者へ隷属するような者はさらに好まない。彼等の存在そのものが純子のポリシーの真逆に位置しているため、純子は極力ラットと関わらなかった。


「相沢真はどうなんだ? あいつもあんたに殉ずる存在だろう」


 眉間に皺を寄せ、唸るような声で問う零。一見してクールそうに見えて、その実、感情を表に出さず抑えるという事が出来ない男であった。


「私にはね、この世に三人だけ、敬意と愛情を抱く存在がいるんだ。あの子はその一人だよー。残りの二人は累君とシスターね」


 純子の答えは、零の不満と嫉妬をさらにかきたてる代物だった。純子はそれをわかっていながら、わざと煽っているわけではない。単に己の中の事実を伝えているだけだ。


「真君は君達と違って、我の塊のような子だもん。ま、私と同じかなあ。自分の我侭押し通して、私のこともカタにハメようとする。うん、それがいいんだよねー。私も黙ってカタにハメられないから、当然互いに反発する。だから面白いんだ」


 楽しげな表情で純子が話している最中に、コーヒーがテーブルの上に置かれる。


「あんたが俺達をいくら嫌おうと、力になれる時は必ず来ると信じて、日々牙を研いでいる。で、その日が来たから、こうして呼んだんだろう?」

「それも自惚れかなあ? 他の何も知らないマウスで遊んでもよかったけれど、私の気まぐれとお情けで、たまには声かけてあげようと思っただけだからねえ。まあ、今回君を選んだ理由は、君がラットの中でも一味違うからこそだけどさ」


 忠誠を訴える零に対し、純子はそれを容赦無く足蹴にするかのような物言いを返す。零は険悪なオーラを出して純子を睨んだが、大きく息を吐き、二秒ほど瞑目して気持ちを切り替える。

 純子の言う一味違うという部分は、まさにこれを指しているのだろうなと零は考える。零は純子に憧れて崇拝しつつも、同時に強い反発心がある。そして真同様に、必ずしも純子の思い通りには動かない。


「それで何をする?」

「真君に悟られないように、ある人物を探ってほしいんだ」


 純子が何故今回自分を起用したのか、零はその一言でわかった気がした。


「それなら盲目のマウス共よりも、やはり俺達ラットの方が適任だろう。あんたの意志の全てを汲んだうえで行動できる」


 マウスの多くは何も知らないままで、純子にいいように操られているだけである一方、ラットは己の意志でもって行動できるとほのめかした零だった。


「マウスをどう動かすか、それは私の匙加減だよー。第一マウスの全てが私のことを何も知らないわけじゃないし、私の思い通りに動いてくれない子だっているんだよー。そういう子の方が私は好きだしー」

「で、誰を探るんだ?」

「郁恵ちゃんと密かに接していた子、誰だかわかる?」


 その名を聞いて零は微かに眉を寄せた。


「郁恵はラットの中では異端だったし、ほとんど接触もなかった。何をしていたのか、全くわからん。純子から何かしら役割を授かっているとは聞いていたが」

「私の頼みだと勘違いして、全く別なことをしていたんだよねえ。私の望まないことをね。そんなわけで、私も見限ったし、累君が独断で殺しちゃったの。で、どうしてそんなことをしていたかっていうと、私に敵意を抱くある人物が、彼女に嘘八百吹き込んでたからなんだよー。で、その子は他のラットとも接触している可能性が高いんだ」

「そいつを探れということか」

「そういうことだねー」


 零はしばらく押し黙り、頭の中で様々な思いを巡らす。


(バレているわけはない。ただの偶然だろう。そもそもバレているのなら、いくら純子とて、そんな大事な役割のため、私に声をかけるはずがない)


 零は純子に悟られぬよう、ある計画に手を染めていた。だが今の純子から告げられた指令内容で、それを純子に見抜かれているのではないかという疑問が沸いてきた。


「喜んで引き受けよう。待ちに待った使命だしな」

「喜んで引き受けるわりには、即答じゃなかったよね?」


 悪戯っぽく笑いながら意地悪なことを言う純子に、零は無言で席を立ち、勘定を済ませに言った。


「私のこういう冗談にもあっさりムキになる所は、君の大嫌いな真君とよく似ているよ」


 店を出ていく零を見送りながら純子は呟き、コーヒーをすすった。

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