第九章 11

 真に見て欲しいものがあると言われ、累は雪岡研究所内の真の部屋へと導かれた。


「うぐ……」


 部屋の扉を開けた瞬間、累は顔色を変えて呻き、口と鼻を手で覆う。室内から強烈な異臭が漂ったからである。


「入れよ。ていうか、ちゃんと嗅いでくれ。それじゃ意味が無い」


 全く顔色を変えずに累の入室を促す真。一体どういう事なのかと訝りながら、真の部屋の中に入る累。


 いつもは簡素な部屋であるのに、様々な物が散乱している。一見ガラクタのように見えるが、備品室から持ち出した物だとわかる。

 何かを作っているようではあるが、そのほとんどが作りかけのようで、何を作ろうとしているのかさえわからない。かろうじてわかるのが、すでに改造済みと思われるガス缶だ。おそらく爆発させて何かを撒き散らす仕組みであろうと累は推測する。

 その中で最も目についたのは、部屋の真ん中に置かれているドラム缶だ。強烈な悪臭の元も、ここから発せられている。


「だから、ちゃんと嗅げって」


 真が再度促す。

 累は嫌々口から手を離し、息を吸う。


「げほっ、げほほっ」


 直後、累は激しく咳き込む。強烈な吐き気を催し、実際に嘔吐する。あまりの気分の悪さに眩暈すら起こし、意識が一瞬遠のいた。


「成功かな」


 累の様子を見て真が呟き、うずくまる累の背中をさすってやる。


「お前に効くってことは、あいつにも効くってことだな」


 真っ青な顔で、嘔吐を続ける累の背をさすってやりながら真は言った。


「どういう……こと……ですか?」


 口の端から胃液と唾液を垂らして鼻水と涙でぐちゃぐちゃの顔を上げ、累が訊ねる。


「雪岡がバイパーの神経ガスを食らって麻痺った話を聞いてさ。オーバーライフは幻術やらハメ系の能力には抵抗力が強いが、単純な物理作用の攻撃は有効らしいじゃないか。再生能力はあるものの、物理的な神経作用――五感の機能へのダメージは特に効果が高いと」

「放射線の類は効きませんけど……ね。メジャーな毒物も概ね無効化できますが……オリジナルな調合を成された――体内に予め免疫作用を作ってない薬物や毒物は……確かに有効です」


 これがみどりとの戦いへの備えという事はわかったが、何故よりによって自室で、こんな悪臭の元を調合して置いておくのか、累にはわからなかった。

 真が先日累に告げた、超常の力を持たない者が超常の能力者に対抗する手段――それは五感への攻撃だ。視覚、聴覚、嗅覚への強烈な刺激でもって、能力を発動する間際にひるませたり精神集中を乱したりする事であった。それは以前より真が独自に古い文献を調べて、使えるのではないかと考えていた方法である。


 これまでは術師との戦いにおいても、術を完成させるより前にあっさり殺して済ましていたが、今度の相手は殺すわけにはいかないという事と、たとえ殺す気でかかっていっても返り討ちにあう可能性の方が大きい、桁違いの強者が相手という事がある。

 故に、超常の力を持たぬ者が異能力者に対抗する手段の一つとして、かねてより考えていた方法をこの機に実践してみようと、真は思い至ったのである。


「あれは……霧崎教授の……」

 部屋の隅に置かれた、厚みにかけるランドセルに累の目がいく。


「ロケットランドセルだ。霧崎からのもらいものだけど、今まで使い所が無かったというか、持ち歩くにはいささか重かったし、何よりみっともないしな。でも今回は使えそうだ」


 通常のランドセルより平たい感のあるそれを一瞥し、真は言う。


「妖術師であるお前の意見を聞きたいんだが、どうだ? この悪臭の中でも術を使えるか?」

「術の合間にこんなものを嗅がされたら、術は遮られるでしょう……ね。そのうえしばらくの間は術そのものを使えなくなるでしょう……。これじゃほとんど……毒ガスですし……でも、しばらくして慣れてくれば、術を編み上げられるかと。短時間のみ有効といった……所です。それに……術とは異なる、天性の超常の能力の妨げにもなるでしょう」


 頭痛すら覚えながら、累は意見と感想を述べる。実際この臭気の元であるドラム缶の中には、毒物の類も混じっているのではないかと、疑ってしまう。


「それがわかれば十分だ。用意するのは、嗅覚への攻撃だけじゃないしな。視覚と聴覚への攻撃も合わせて、力を封じる時間を稼ぐ。その間にやっつけるのが理想だ」

「そういう作戦ですか……」

「雪岡の拷問訓練があったから、僕は音に対してはある程度耐性があるが、臭いは早いところ慣れないと駄目だな。僕だけでなくお前もな」

「本当にこの手段でいくんですか? って……僕も!?」


 驚いて叫ぶ累。


「お前の敵討ちなんだから、お前も協力するに決まってるだろ。だからお前も臭いに慣れるんだ。これ、ちゃんとお前の部屋にもっていって、部屋の中に置いて寝ろよ」


 その言葉を聞いて、もう自分のための敵討ちなんてやめて欲しいと心底思い、泣きたくなる累だった。


「本気で戦うつもりですか?」


 それとは別に、真が真剣にみどりと戦うつもりでいる事にそのものも、累はストップをかけたかった。とても勝てるとは思えない。無為な戦いにしかならない。


「たとえば……純子と戦って勝てると思います?」

「今の僕ではとても無理だろうな」


 あっさりと認める真。


「あれは純子と同格か、あるいはそれ以上の化け物です……よ? 前にも言いましたが、行き着く所まで行った超越者……なんです」

「お前もその一人なんだろ? でも、たとえば今のお前とやりあったとしても、全然負ける気はしない。つまりそういうことだよ」


 何だかよくわからない理屈だが、弱りきって闘争心の欠片も無くしている今の自分では、確かに真にも勝てないだろうと、累も思う。そもそも喧嘩を売られても買う気は無いが。


「それに、だ。いずれ僕はオーバーライフと幾度となくやりあう時が来る。絶対にその時は来ると確信している」


 一人だけは累にも心当たりがある。真が敵視する、真が顔も名も知らない相手。それを想定している事だけはわかるが、それ以外の敵として真が誰を想定しているのか、見当がつかない。


「雪岡の側にいれば、いずれは必ず来る。あいつが引き寄せる。その時僕が何もできなかったら、あいつの側にいる意味は無い。もちろん雪岡もそのうちとっちめて改心させる予定だしな」


 真の話を聞き、累は納得すると同時に、真がそこまでのヴィジョンを持っていた事に、驚きと感心を覚える。


「今回はその模擬戦として手頃な相手なんだ。だから是非とも試したい」

「やはり僕のためというより、そっちですか……」

「お前のためでもある。このまま放っておけば、またお前は欝で落ち込み続けるだろうから、僕が仇討ちしている所を見せて、元気づけてやるのがメインだ。同時に他にも狙いが幾つかあるっていうだけで」


 この強引さとアバウトさは前世から全く変わりない。そして気になる台詞がまたあった。他にもある狙いとは何なのか? 幾つかと言うからには、まだ何かあるはずだ。


「他の狙い……とは?」

「現時点では秘密ってことで」


 真が何を企んでいるのか、累には全く計り知れなかったが、未来を見据えて力をつけようとしている真を見守りたいと強く思った。


***


 薄幸のメガロドンの敷地はかなり広く、敷地内には様々な種類の穀物類、野菜類の畑がある。初代教祖が教団で自給自足生活を目指そうとしたためだ。

 完全な自給自足には至らなかったものの、かなりの食糧を信者達だけで賄う事が出来る。現在は冬であるがため、畑の栽培は限られているが、それも信者達の仕事の一つだ。


 解放の日というものが掲げられ、薄幸のメガロドンに過激な信者が集まるようになり、戦闘訓練等が行われるようになったものの、それ以外の時間は、畑をいじっている事が多い花山千恵であった。


 PTA過激派による東京ディックランドへのテロで命を落とした息子の仇を討つため、PTA過激派への復讐を誓った千恵であるが、正直な所、一人でどれだけの事ができるか疑っているし、不安であった。

 武器は要望通りのものを調達してもらえたし、戦闘訓練も毎日頑張っているので、ある程度の自信はあるが、それでもテロを行うのは自分一人でしかない。

 他の信者達もそうだ。各々何らかの恨みを晴らそうとしているが、大体が個別で行う。先走り組も皆そんな感じで、中には失敗する者も数多くいた。


 一方で幹部達は、特にこれといった復讐相手のいない――社会そのものを恨む者達を集め、何やら大がかりなことをしようとしている。正直不公平だと思わない事も無いが、知恵は直接エリカやグエンと面識があって仲も良いため、あまり考えないようにしている。


「最近プリンセスは幹部達とべったりで、私達には声かけてくれないね」


 エントランスにある椅子で休んでいると、隣に顔見知りの年配の男性信者がやってきて、冗談めかして言った。

 みどりは教祖の立場でありながら、信者全員のことを覚えていて、気さくに声をかけて、世間話などにも興じる子だった。しかし解放の日に向けて慌ただしくなり、常に信者かボディーガードと共に行動し、顔を合わせても挨拶程度で済ましている。


「そうねえ。私も頑張って幹部に出世しとけばよかったわあ」


 千恵も微笑みながら、そんな冗談を口にする。どんな基準で幹部に取り立ててもらえるのかさっぱりわからないので、出世しようにもできないのだが。


「千恵さんは個別復讐組だったっけか」

「ええ。私の息子の命を奪った連中に恨みを晴らしたくね」

「そうか。私はエリカさんと一緒に行くので、千恵さんも一緒にどうかと思ったが、そういう理由では難しいか」


 残念そうに言う年配信者。


「私も最初は一人で暴れようと思っていた所だが、どうも心細くてね。幹部組の方に加わる事にしたんだよ。皆と一緒の方が楽しいしね」


 笑顔で語る年配信者が、千恵は少し羨ましかった。自分に息子の仇を討つという目標が無ければ、自分も集団行動に混じる事が出来たからだ。


「ここの人全てが参加するわけじゃないけど、解放の日になったら、私も貴女も含め、多くの人が死んじゃうのは寂しいですね」


「ええ。でも決めたことですし。あの世でまた会えるでしょう。あるいは来世で」


 千恵は年配信者に会話を合わせていたが、彼には信仰心も忠誠心も足りないように思えた。俗世の感覚も捨てきっていない。

 そうした人間を教祖が責める事も無く、それどころか教祖からしてフランクな凡夫のノリなので、様々な新興宗教を梯子してきた千恵からすると、薄幸のメガロドン自体が他の新興宗教に比べて随分とマイルドな空気に思える。何より笑顔が多い。

 それも全て、教祖の力なのであろうと千恵は思う。絶望してここに流れ着いてきた人達に、終焉の希望を与えし者。見た目は少女でも、中身は女神の化身と呼んでも過言ではない。あんな素晴らしい人物と出会えた事そのものが奇跡であると、千恵はかつて息子を奪った運命に、今は感謝していた。


***


 粗大ゴミ置き場にて、轟音と共にその男がゴミの中から飛び出てきた。


「蛆虫リターン!」


 男が大声で喚く。幸いなことに、周囲には誰もいなかった。男にとって幸いなのではなく、ゴミを捨てにきた人間にとって。


「そろそろほとぼりも冷めた頃と見た!」


 天を仰ぎ、男――葉山は断言する。根拠はゴミ箱の中でうずくまっていた時間の長さしかないが、そう信じて疑っていなかった。


「使命を果たす時、来たれり! このゴミ捨て場で僕は新たな力を手にいれた! これさえあれば勝てる! そして僕は醜悪な蛆虫から美しい蠅へと脱皮する!」


 険しい顔で両手の拳を握りしめて叫び、闘志をみなぎらせる葉山。実際の所、彼はずっと作戦を練っていたし、ゴミ捨て場で見つけたあるものを使う事を思いついた。

 燃え滾る闘志は、すぐに彼の頭の中から消え失せる。


「僕は蛆虫……うねうね……。隅っこでうねうねしても誰も気づかない。仮に気づかれてもキモがられるだけの惨めな蛆虫だよ」


 普段の陰気な顔つきに戻り、独り言を呟きながら、誰にも悟られる事なく移動を開始した。

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