第六章 25

「来たよー」


 純子の言葉に、惣介の動悸が激しくなる。

 誰が来たのか? 母親か。それとも顔も知らぬ父親か。あるいはその両方か。


 二人がいるのは蒸気式の公衆浴場であった。ここも豪華な装飾がなされており、中央には噴水がある。もちろん機能はしていない。他の建物に比べて装飾の損傷は少ない。装飾は大理石を用いたものや、床のタイルに青や緑で鮮やかな幾何学模様を描いたものなどが多い。二人は入り口と向かい合う位置の椅子に並んで座っていた。

 惣介が恐る恐る顔を上げる。入り口には誰もいない。


「すぐそこまで来てるよ」


 何も言わない惣介の疑問に答えるかのように純子。その直後、母親の藍と、薄着で褐色の肌をさらした長身オールバックの男が姿を現した。


「じゃあ私は席を外してるねー。せっかくの親子対面に水差すほど無粋じゃないからさあ。ま、話が終わったらまた来るけどね」


 立ち上がり、入り口の方に向かおうとする純子。


「別にいてもいいぜ。てか、俺が用あるのはむしろてめーなんだよ。てめーからそいつを取り戻すよう、こいつに言われてきたんだ」


 純子に視線をぶつけ、バイパーが言い放つ。


「あ、丁度いいねえ。私にとっての本命も君なんだから」

「待って」


 両者の間に入る藍。


「お願い。せっかくだから、あの子と話してあげて」

「お、俺がか?」


 自分を見上げて真摯な眼差しで頼んでくる藍に、狼狽するバイパー。

 惣介の方も、藍のこの申し出に戸惑いを覚えていた。一体何を話せばいいというのか。

 だが自分の父親がどういう人物であるか、ずっと興味があったのは事実だ。父親の話を出すと母親が不機嫌になったせいで、余計に興味がそそられていた。


「何で俺が……どうしてそうなるんだよ。そんな……今更……」

「私は惣介に父親のことをいくら聞かれても、答えなかった。そして今、こうして助けに来たわけでしょ」


 言葉に詰まり、バイパーは惣介の方を見た。一見強面なバイパーが鼻白み、決まりが悪そうな顔で自分を見ているせいで、惣介は妙に安心感を抱いてしまう。


「幸い、その子も時間をくれると言っているし、甘えさせてもらいましょ」

「何を話せばいいってんだよ……」


 ぼそりと小声で呟くバイパー。拒否するのも格好が悪いようで拒否できず、しかしどう対応したらいいかもわからない。恐ろしい敵と戦いに臨みにきたというのに、急におかしな展開になってしまったと、途方に暮れた。


「後でもいいだろ。大体もたもたしていると、さっきの奴等が来るんだぜ」

「駄目、終わった後であなたが逃げそうだし」


 藍からすると無理矢理バイパーと惣介に話させることには、ちゃんと目論見があった。

 バイパーほど、子供というものをわかっている男を、藍は見たことが無い。かつて自分が子供の頃に癒されたように、惣介の心も、自分と惣介の間に生じたぎくしゃくも解きほぐしてくれると、藍は信じていた。


「他にも君を狙っている人がいるなら、私が説得してくるよー」

 再び歩き出す純子。


「説得って、そんなもん通じると思ってるのか?」

「言葉で通じなければ、力で説得するだけの話じゃなーい?」

「いいタマしてやがんな、この便器は」


 すぐ真横を通り過ぎ、にこにこと屈託の無い笑顔でそう告げる純子に、バイパーもつられて笑ってしまう。


「私も出とく……」


 うしろめたい視線を息子に送りながら藍。自分が殺されるほど怒らせたという記憶が、未だ藍の中では生々しかった。惣介も惣介で、母親に顔を向けられると反射的に目を背けている。


(そのために俺に何とかしろってのかよ……)


 両者の絡み合わぬ視線のやり取りを見て、バイパーは諦めたように嘆息し、惣介の方へと歩いていく。


***


 純子と藍が公衆浴場の中から出てこようとするのを見て、健は慌てて柱の陰に隠れた。

 健にしてみれば、藍と惣介がやっと出会ってくれて、お待ちかねの藍の目の前で惣介を殺してやる機会が到来したのだが、バイパーの存在が今度は逆に邪魔になった。さらには雪岡純子もいる。

 彼にまともな理性が残っていれば、この件が片付いて邪魔が入らなくなれば、いくらでもその機会は巡ってくると判断できたであろうが、そんなことも思いつかないほどに健の頭の中は、描いた復讐の構図を実行させる執念だけに囚われていた。


(んー? 誰か隠れているみたいだねえ)


 懸命に気配を消したつもりの健であったが、純子はその存在を察知していた。


(ま、せっかく隠れているのに暴いても可哀想かな。どこの誰で、何が目的なのか、後々知る楽しみにもなるし。そのまま隠れたままかもしれないけれど)


 気まぐれで放置しておくことにする。


 複数の足音が聞こえる。その正体を藍と柱の陰の健だけは知っている。先程バイパーと交戦した者達。さらには善意のアビスの戦闘員を全滅させた者達。中国工作員部隊煉瓦の面々だ。


「うわっ、あれが雪岡純子か。画像よりもさらに可愛いじゃんよ」


 純子を一目見るなり、張が思った感想をそのまま口に出す。


「失礼。雪岡純子さん、我々が何者かはどうでもよいとして、目的は言わずともわかりますね?」


 秀蘭が純子の前に進み出て口を開く。


「こちらに長身の色黒の男が来ませんでしたか? その奥にいるのでしたら――」

「えっとねー。今この中で、せっかくの生き別れ親子の初対面感動シーンしている所だから、ちょっと待っててもらえないかなー? 私も今、こうして空気読んで外で待ってあげているわけだけど」


 言葉途中に純子が笑顔で口を挟む。見る者の心を和ます、あの屈託の無い笑顔だ。


「心情的にはそうしたいのも山々ですが、こちらも任務です。隙を見て逃げられる可能性もありますし、アルラウネを狙っている別勢力がまた来ないとも限らないのです」


 秀蘭が丁寧かつ柔らかな口調で応じる。


「ふーん、だったら取引しない? 私があのバイパー君をゲットしたら、そっちにもお裾分けしてあげるって条件で、見逃してもらえないかなー?」


 笑顔を絶やす事無く、純子はまるで秀蘭の答えも予想していたかのように、ほとんど間を置かずに取引を持ちかける。


(悪くない条件だね。こいつを信じられるとしたらだけどね)


 純子が提案して取引に対し、即座にそう判断する李。だがそれに秀蘭が簡単に応じるとも思えなかった。


「その取引は、貴女を信じることができる前提でないと成り立ちませんね。信ずるに値すると証明できる物はありますか?」


 純子の真紅の瞳を真っ直ぐ見据えたまま、秀蘭がきっぱりと告げる。


「そんなのは無いよー。でもねえ、せっかく私の方から提示したこの取引、素直に応じた方が、君達にとってはよいと思うんだけどなあ」

(そうだろうねえ)


 純子の言葉の裏に隠れた真意を読み取り、李が口の中で呟く。


「取引に応じなければ実力行使――というわけですか」

 秀蘭もそれに気がついた。


「んー、私の理想は、君達がこの取引を断ってくれることなんだよ? そうすれば何の気兼ねもなく、君達を実験材料として扱えるからさあ」


 敵対した者は――あるいは敵視した者は、研究の名の元に己の好奇心を満たすがための供物として、人体実験を行うマッドサイエンティスト。煉瓦の者もそれは知っている。だがこの人数――それも鍛えに鍛え抜かれた精鋭達――を前にしての豪語に、流石に何人かは呆れている。

 だが李と秀蘭は、純子の言葉が挑発の類ではなく、確信したうえでの恫喝のであると受け取っていた。


(あの真が仕える主だけのことはあるね。見た目は娘っ子でも中身は完全に別物だ)


 真が雪岡純子の殺人人形などと呼ばれ、悪名高いマッドサイエンティストの専属殺し屋などをしていると聞いた時、李は不思議でならなかった。真は誰かに容易く追従するような男ではない。

 だが実際にその主の方に会ってみて、ほんのわずかなやりとりだけで、真を仕えさせるだけはあると、李は納得してしまった。


「応じましょうよ」

 李が煙草を取り出しながら口を出した。


「あれれ? 応じちゃうんですか? せっかく雪岡純子と戦ったーっていうネタ作れるのにさ」


 張が意外そうな顔をする。冗談ではなく本気で言っている。


「どちらが勝つかはともかくとして、こちらに相当な犠牲が出るんじゃないかとは思うね。ならば回避する。無理はしない。無茶もしない。博打もできるだけしない」


 この言葉が李の口から出た瞬間で、秀蘭の指示を待たずして煉瓦の方針は決まったといってよい。李のこうした、徹底的に危ない綱渡りを避ける守りの姿勢が、任務における煉瓦の生還率を常に高い位置でキープさせている。


「わかりました。その条件で応じましょう」

 秀蘭が承諾した。


「貴女が約束に応じる保障の無いままなので、こちらとしては非常に不安な取引ではありますが」

「この世界の取引なんてほとんどそんなものだよ? 表通り以上に信用第一な世界だからさあ。それにさあ、私は嘘と裏切りは大嫌いだからねえ」


 悪戯っぽく笑いながら純子が言うが、秀蘭は実の所最初から、この人物が取引を反故にするとは思っていなかった。形式上、そして部下達の手前があったからこそ追及しただけだ。

 そもそもそこまで悪辣な人物であれば、親子対面の邪魔をしてほしくないという理由でもって、自分達を足止めしたりはしないであろうと、秀蘭は見抜いていた。

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