第六章 22
目の前に現れたおかしな格好の少女が、真のことをじっと見つめ、ほのかに闘気を漂わせている。明らかに只者ではないことを真は一目で看破した。
『相沢真――お前が純子の待ちわびた王子様か』
妙な響きの声。男とも女とも判別つかない、ボイスチェンジャーか音声ソフトでも使っているかのような声が、周囲に響く。電話で一度聴いた声だ。
声がした方角は、真の目の前にいる少女からではない。そもそも少女は口を開いていない。だがどこからしたのか特定がうまくできない。
「遅かったな。誰が王子様だ」
少女を見据えて真が言った。
『そこにいるのは私じゃねーし。そいつの名は繭。私のマウスだ』
また別の場所から声が響く。
「くぅぅぅ……」
目の前にいる少女が唸り声をあげつつ、真に近づいてくる。殺気は感じられないが、強い闘争心を宿した眼差しで真を見ているがため、すぐに反応できるように警戒しておく。
「くぁぁあぁぁ」
真の間近まで接近すると、繭がおもむろに真の方に向かって手を差し出し、口を大きく開けて唸った。吸血鬼のように発達して尖った犬歯が見える。
まだ攻撃してくる気配はない。悪意も感じられない。だが明らかに戦う気なのはわかる。握手でも求めているかのような繭の行動に、真はどうしたものかと思案する。
『……繭、そういうことは別にしなくていいから』
「何のつもりなんだ、これ?」
『多分、この前のプロレス見て、ベビーフェイス同士が試合前に握手していたのに影響されているんじゃねーかと……』
真の問いに、戸惑い気味な響きで声が答える。
「なるほど。察しが悪かったな。僕もプロレスは好きなのに」
真は納得したかのように、繭の握手に応じる。
「くうぅ」
嬉しそうに繭がにやりと笑う。歯並びのいい真っ白な歯の中に混じった牙が、妙に印象的に真の目に映った。
繭が真に背を向け、歩き出す。
『ついていけ』
「どういうつもりだ? 取引には応じてくれないのか?」
命令する声に向かって、真はいつも通り抑揚に乏しい声で訊ねるが、内心では微かな苛立ちと戸惑いを覚えていた。
『焦んなカス。まずは雪岡純子の殺人人形がどんなものか、観察してやんよ。話はそれからだ』
からかうような響きの声。正直真はこの時点で、この人物との取引をやめたい気分になっていたが、目的のために暫定的に過ぎないものとして、我慢する。
繭の後につき従い、真は建物の中へと入る。
所々剥げ落ちた装飾が壁一面に施された廊下。壁にもヒビが多く、あちこち崩れている。床のタイルも割れ、床からはがれて散乱していた。
「くぅぅぅぅぅぅぅ」
繭が足を止めて振り返り、気迫に満ちた形相で真を睨む。真も懐に手を入れ、繭と視線を交差させる。
視殺戦だけで空気が張り詰める。真からおなじみの膨大な殺気がほとばしるも、繭は全くひるむことなく、抑えきれないといった感じの闘気を漲らせている。
『手加減はしなくてもいいぞ。できる相手じゃーねですがね。じゃ、始めろ』
声に応じ、繭が徒手空拳のまま猛ダッシュをかけて真に飛びかかる。
銃を抜いた真がわずかに早く、銃口を繭へと向けた。
至近距離で引き金が引かれる。相手が人間ならともかく、マウスだとわかりきっているのだし、自分を試すために差し向けているのであるから、相当に力のあるマウスなのであろう。恐らく銃撃程度では死なないと、真もわかっている。
胸部を三発の銃弾が撃ち抜く。衝撃でもって繭が体勢を若干崩す。
「くぅぅあああぁぁぁあっ!」
だがその場に崩れ落ちることもなく、顔を上げて真を睨みつけて咆哮をあげると、繭は再び真に向かっていく。銃弾によって血を噴出させながら。
(溶肉液が効いてくれるのを期待するのは、虫がいいか)
不死身のマウス対策に、再生機能を働かせず細胞破壊効果をももたらす溶肉液入りの弾を使用したが、マウスによっては効かないこともある。
鉤爪状にした繭の手が真の頭部めがけて振るわれる。速いが避けられないこともない。真はスウェーバックして反撃するつもりでいたが、上体を反らした瞬間、全く予期せぬ出来事が起こった。
振るわれた繭の腕から、液体のような赤いものがほとばしり、真の首から上に降り注いだのだ。
『おいおい、早くも終わったか』
つまらなそうに声が呟く。
赤くどろどろしたスライムのようなものが、真の首と頭と顔のそれぞれ右半分にへばりつき、さらには意思をもっているかのように蠢く。その気持ち悪さと突然の事態に、混乱しそうになった真だが、必死に理性を維持し、ぬぐい払おうとする。
ところが顔にしっかりへばりついたそれは、手でぬぐおうとしても一部をかきだしたにすぎず、残りは口、耳、鼻に侵入しようと動いている。
さらに驚くことに、繭の右手が消失していた。それを見て真は、今自分の頭部にへばりついているのが、変質した繭の右腕であるということを理解した。
(なるほど、そういうマウスか)
なりふり構っていられず、銃を落とし、両手でもって必死で顔についた赤い粘液をかきむしる真。
全てを落とせるとは思っていなかったが、手や顔にこびりついて残っていた残滓が、自然に真から離れ、床に落ちた。散り散りになった半ば液状化した赤い肉片が、次々にくっついていき、最後には繭の手へと戻り、また元の手を形作り、色も元通りの肌色へと変わる。
「銃も溶肉液も効かないわけだ。再生能力と言うには微妙に違う代物か」
『流石は純子の下僕、察しがいいな。うちの阿呆共にも見習わせたいわ。お察しの通り、こいつは再生というより肉体の分散と結合だ』
感心したような声。
『純子の作品によくあるような異常再生能力ってのは、その分、力を使いすぎちまう。この辺は地球上の生物の限界なのかもしれないな。でも肉体を液状ゾル化することができたら、どうですかね。液体化して分散された肉体を固体として癒合するのであれば、無理のある急速な再生能力に比べれば大してエネルギーを必要としない』
(睦月の再生能力もかなり凄いが、これはある意味さらにその上をいってるのか。質の違いでもあるが)
声の解説を聞いて、真は思った。そして解説している間に空気を読んで、繭は攻撃してこようとはしない。
『ま、こいつの真骨頂はこれからだ。繭、見せてやれ』
「くぅっ」
声に応じた繭の全身に異変が生じる。肌が一瞬にして鮮やかな赤に染まったかと思うと、Tシャツを残して液状化して床に零れ落ち、赤い水溜りのようなものを作った。さらにその直後、赤い水溜りから物凄い勢いで泡がたちはじめる。
目の前で泡の量が急激に増し、泡自体も大きくなっていく。まるでその体積を増やしたかのように、瞬く間に赤い泡が通路前方を埋め尽くす。
泡に触れられたら、もしくは覆われたらどうなるのか。いくつか想像はできるが、不味いことに違いは無い。たとえ毒や酸の類が無くても、体内に侵入されただけでもアウトだろう。現に先ほど真の顔に張り付いたものは、真の体内に入ろうとしていた。
銃弾が効くとは思えない。フリーズグレネードは有効に思えるが、それではこの戦いの趣旨にあわない。相手は力試しを求めてきているのだ。それに対して純子の発明品に頼って勝ったのでは、見くびられるだけだ。
(いや、それなら溶肉液にも同じこと言えるか)
頭の中で苦笑する自分を思い浮かべ、真は銃を懐にしまった。
『む? どういうつもりだ?』
「液状化して、物理攻撃を受けにくくて、ちぎれても簡単にくっつく体、か……。陳腐な発想だ。そりゃ雪岡だってそんなものは作らないだろう。恥ずかしくて」
訝る声に向かって、真は沸き立ちながら迫り来る泡を見据えたまま後退し、揶揄する。
『あ? じゃあ逃げてねーで、その陳腐なのをどーにか倒してみろよ』
「まずスピードでは僕の方が上だし、これだけでこいつが僕に勝てる要素は無いだろ。それがわからないのか?」
『何言ってんのこいつ? 繭には単純な物理の衝撃はほぼ通用しない。もちろん斬撃もな。そんでこの狭い空間でスピードも糞もねーですし』
本気で相手の正気を疑うかのような口調。
「つまりわからないわけだ。そうだろ? もしお前が僕の身体スペックでこいつと戦ったら、きっと負けただろうな」
声の主に向かって煽る真。
(この辺のがいいな)
床に目を落とし、ちらかった瓦礫を一瞥すると、真は足を止めてかがんだ。
『何を……』
声が何かを言おうとしたと同時に、真は床に落ちている瓦礫を手当たり次第に泡に向かって投げ出した。
直撃した泡は破裂するが、それだけだ。すぐにまた泡がたつ。だが破裂した分、新たに泡立つために、泡の移動だけは止まった。
今が機と見て、真は床のタイルを一枚手に取り、泡に向かって飛び込んだ。
比較的薄い部分の泡の上に着地すると、両手に持ったタイルを泡の上へと押し付け、そのまま床まで押しつぶす。そしてそのまま雑巾がけをするかのように、タイルに両手をついた格好で駆け出し、タイルと床の摩擦で泡を次々すり潰していく。
『おっ、おい馬鹿やめろっ。降参。こらっ、やめろって』
狼狽気味の声を聞いて、真はタイルがけをやめて、泡の中で立ち上がる。泡が全て弾けて消え、赤い液体にと戻る。
『確かにお前の方が速いから、たとえ繭の中に飛び込まれても捕まえられんな。しかしなんつー発想だよ』
「くあぁぁあぁっあぁっ」
赤い液体が集まって人型に戻った繭が泣き声をあげる。顔も痛そうな泣き顔になっている。外傷は見当たらないが、声が即座に停止をかけたことも考えて、今の摩擦による攻撃は相当有効だったのだろうと真は判断した。
「そろそろ姿を見せろ、草露ミルク。隠れてなければいけない理由があるのか?」
真が声の主に向かって呼びかけた。
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