第六章 1

 安楽市内にある、裏通りの住人用ホテル――『ホテルワラビー』。

 中枢より中立地域指定されたホテルであるがため、裏通りの住人が安心して一夜を過ごすことが出来る場所だが、二日以上の滞在は許されていない。もし金さえ払えば延々と滞在できるのなら、命を狙われている者が永住することもできるし、そうした人間ばかりであふれかえりかねないからだ。

 用途としては、裏通りの住人が、チームを組んで仕事を遂行する際に用いるのが主流である。宿泊しながら安全地帯で打ち合わせ等が出来た方が、便利だからだ。そのために敵対する勢力同士が同時に宿泊して、ホテル内で鉢合わせという事態も稀にある。


 そんなホテルワラビーに、始末屋組織『善意のアビス』のボス小松豪こまつごうが赴く理由は一つ、贔屓にしている高級売春婦を呼ぶ時であった。小松は七年前より、一人の高級娼婦に熱をあげていた。

 売春組織『アストラルワイフ』。安楽市内の売春婦の中でもナンバーワンの売れっ子で、闇の女神と称されて、何人もの裏通りの大物達が入れ込んでいる伝説の高級娼婦――神谷藍かみやあい

 彼女の指名は常に激戦で、落札制による一晩の指名料は百万を越えることすらある。小松は己の稼ぎの大半を、彼女につぎ込んでいた。


「藍ちゃん、今年で何歳になるっけ?」


 ベッドに大の字に寝転び、前身毛むくじゃらの裸身を晒した小松が問いかける。顔の下半分も髭で覆われており、四十過ぎで体格も横太り気味なので、熊のような男という表現がしっくりくる。


「二十三です。もう付き合い長いんだし、覚えてくれてもいいんじゃないですかぁ」


 下着をつけながら、悪戯っぽく笑って藍が答えた。笑うとえくぼができる。

 特別美人というほどではないが、愛らしい童顔の持ち主で、スタイルも中々いい。しかしその容姿だけ見れば、伝説の娼婦として多くの男を狂わせ、女神の如く崇められるような女とは誰も信じられないであろう。


「会った時は藍ちゃんもっと子供だったし、俺もナイスガイだったがなあ。月日の流れは無常だな」

「小松さんは今とあまり変わりないような」


 嘆息する小松の前で屈んで顔を寄せ、冗談めかして言いながらそっと口付ける藍。


「もう七年かあ……俺がこんなひでえ世界でやってこられたのも、藍ちゃんのおかげだよお。藍ちゃんに会うのだけを楽しみにして頑張ってきたんだもーん」


 いかつい髭面をだらしなくにやけさせて、低く野太い甘え声を出す。


「またまた調子いいことばかり言っちゃって。私以外の子にも同じこと言うんでしょ?」


 藍がベッドに腰を下ろし、小松の頭を自分の膝の上へと導く。


「だから俺は藍ちゃん一筋だっつーの。たとえ結ばれなかろうと片想いだろうと、俺は他の女なんかもう見向きもしねーからっ」


 小松は本気で藍のことを想っていた。その想いがかなわずとも、たとえ金で同じ時を過ごせるだけでも十分に幸福だった。外見にそぐわぬその純情さは、藍にも伝わっていた。


 神谷藍は己の仕事に誇りを持っている。身を売ることに、悲壮感は全く持ち合わせていない。心の底よりこの仕事に真摯に取り組んでいる。

 それも当然のことだ。裏通りの生ける伝説の一つとして語られ、財力権力暴力を備えた男達によって求められ、女神として崇め奉られ、いい気がしないわけがない。そのうえ客達は皆、自分をとても大事にしてくれる。何人かは本気で自分に惚れている。そう意識するだけで、藍は自己満足で満たされる。強大な支配者にでもなったかのような錯覚さえ覚える。


 幼少時代の藍は今とは全く逆の立場だった。幼い頃の藍は、ただ一人の肉親である父から愛情など一切得られず、代わりに性的虐待を受け続けていた。

 だからこそ誰からも大事にされる今の自分は捨てがたい。いずれは年齢という致命的な足枷によって、現在の地位も危うくなるであろうこともわかっているが、それすらも自分ならある程度カバーできるであろうと、思い込んでいる。


 容姿が際立っているわけでもなく、名器で極上の快楽をもたらすわけでもない藍が、何故に生ける伝説とまで謳われる最高級娼婦とまでなれたのか?

 一つは単純に藍の接客の仕方が上手かったからというのもある。相手の性格と性質と性癖を見極め、どんなことを望んでいるのか、何をして欲しいのか、何を言って欲しいのか、それらを見極めて応えることに秀でていた。

 裏通りで苛烈な人生を送っている男達にとっては、そうした女性の気遣いや優しさは、このうえない癒しになっていた。藍もそれを感じ取り、精一杯彼等を満たし、癒すことに努めた。藍自身もそれで満たされた。

 だが真実はそれだけに留まらない。藍が男達を虜にしたのは、藍ですらも気づいていない、もっと別の要因があった。


 今の藍が完全に幸福かと言えば、実はそうではない。

 いや、つい最近までは完全に幸福であったが、運命の悪意に満ち満ちた悪ふざけにより、そうではなくなってしまった。


「ん? 藍ちゃん、痣が……」


 小松が藍の左腕に出来た青い痕を見てとり、訝る。


「ああ、これぶつけちゃってね」


 慌てて言い繕う藍だったが、それがぶつけた類の痣ではないことは小松には一目瞭然だった。明らかに殴られたものであると。だが小松は突っ込もうとはしなかった。客としての領分から外れてその先にまで踏み込むことが何をもたらすか、十分わきまえていたから。

 その時の小松は――わきまえていた。あくまでその時は。


***


 裏通りにおいて、彼はバイパーという呼び名で通っていた。

 もちろん本名ではない。だが見た目は明らかに純粋な日本人ではないがために、その呼び名にさして違和感は無いし、意味のわからない者からしたら本名と錯覚するかもしれない。


「おかんむりなのはわかるけどよ。テロじゃあしゃーねーだろ」


 繁華街を歩きながら、指先携帯電話をつまんで口元にかざし、うるさそうに顔をしかめるバイパー。

 冬だというのに、鮮やかなオレンジ色のノースリーブのTシャツ姿。引き締まった褐色の筋肉とのコントラストが映える。白い牙の飾りを一つぶら下げた黒い皮紐のチョーカーと、蛇の表皮のような柄のハーフパンツは、己の呼び名を意識した代物であることが明白だった。


『おう、だからテロ起こした奴等見つけ出してブッ殺せ。関係者は一人残らず殺せ。一人残らずだ。皆殺しにせよっ』


 電話の向こうから、歪な音声が響く。心なしか興奮しているような響きも無くもないが、人間のイントネーションとは大きく異なる。まるで出来の悪い音声ソフトかのような響きの声である。


「嫌だよ、面倒臭え。大体あんな下品な遊園地、もう二度と行きたくねーから好都合だわ」

『夜に行けば特に違和感無かったと思うのですがね。夜は日本のHENTAI文化を堪能しにきた海外のオタク客共が多かったですしおすし。お前も見た目外人だしな』

「そういう問題じゃねーから……。大体俺は、あの糞遊園地が壊れてせいせい――」


 言葉途中、バイパーはあるものを見て電話を切り、足も止めた。

 バイパーが街中で偶然見かけたその光景は、そうそう御目にかかるものでもないが、有り得ないものでもなかった。見るからにガラの悪い若い男三人が、サラリーマン風の中年男相手に絡み、凄んでいる。バイパーは彼らの声が届く位置から、その様子を眺めていた。

 中年男はチンピラに絡まれてもひるんではいない。腕に自信があるのか、人としての器の問題なのか、泰然と構えている。


「おい、人にぶつかっといていちゃもんはないだろ。偉そうにしやがってよ」

「おっさん、俺達のことただのチンピラか何かと思ってなめてない? 俺達こういうハードボイルドな世界で生きている者なんスけど」


 因縁をつけた相手がひるんでいない事が余計に腹立たしい様子で、チンピラの一人が革ジャンの内側をめくって見せた。

 何を見せたのか、バイパーの角度からでは見えなかったが、見えなくても容易に判別できた。それまでは泰然と構えていた中年男の顔が、見る見るうちに青ざめていったからだ。間違いなく拳銃だろう。

 裏通りの住人ではないかと思わせる言動と、それを裏付ける銃の携帯。だが本当かどうかは疑わしいし、仮にそうだとしても、表通りの住人を無闇に恫喝するなど最底辺の格下だろうとバイパーは判断する。何にせよ見ていて気分が悪い。


 チンピラ達が中年男に金をたかりだし、中年男から財布を取り上げて得意満面になってこちらに向かって歩き出したのを見て、バイパーは彼等の方へと大股で歩を進める。

 わざと力をこめてぶつかって、一人を派手に吹き飛ばす。


「おおっと、悪ィ悪ィ」


 倒れた男に侮蔑をたっぷり込めた視線を浴びせて、口を大きくひろげ、真っ白な並びのいい歯を見せて笑うバイパー。その手には、中年男から奪った財布が握られている。

 バイパーが中年男に向かって財布を放り投げ、再びチンピラ達の方を向く。


 三人のチンピラは戦慄を覚えた。身長190を越え、引き締まった黒光りする筋肉を露出させた男。それだけでも威圧感は十分だが、強い殺気を放ち、一人で三人を前にしてあからさまに喧嘩をふっかけてきたことが、彼等の本能を恐れさせた。

 即座にわかってしまったのだ。目の前の男が相当に荒事に長けた者であり、自分達が三人がかりであろうと、銃を持っていようと、全く歯が立たないであろうことを。


「なんだあ? さっきのおっさんと同じことを俺にはしないのか?」


 おかしそうに言うと、バイパーは片足を大きく上げ、仰向けに転がったチンピラの腹部を凄まじい速度で踏みつける。足の動きが他の二人には全く見えなかった。


「ぐぼあっ!」


 男が口から絶叫と共に大量の血反吐を噴水の如くぶちまけ、同時に下腹部から血と汚物を噴出した。

 口から吐かれた血の量は、一目で致死量と判別できるほどの代物だった。バイパーが足をどけると、鳩尾の辺りが踏み潰されて、体に綺麗な足型の穴がぽっかりと穿たれて、アスファルトには潰れた内臓が平たくへばりついていた。


「ごめんなあ。俺ってば、おめーらみてーな半端者が大嫌いでよお。道に吐きたての新鮮なゲロを至近距離で見せられる罰ゲームみてーな、不愉快な気分になっちまうんだ」


 恐れ慄く二人のチンピラに向かって、凄絶な笑みを浮かべるバイパー。


「だからさ、俺の中に生じたこのムカツキをさ、解消したいわけよ? どーすりゃいいか、わかるよな?」


 そう問いかけると、恐怖のあまりその場から動けず震えるばかりの二人に近づいていき、素早く脚払いをかけて二人を転倒させる。

 脚を一振りしただけで二人が同時にアスファルトの上に這い蹲る。二人共その一撃で両足の膝から下が無惨にへし折られていた。


「あ、そうそうバイパーって名前知ってる? ん? 知らねえか。モグリ決定だな。で、ゴキブリやハエの存在意義って何だかわかる? ん? わからねえか。お前らと同じだよ。視界に入ればただ叩き潰されるためのもんとして、神様に汚らわしい存在として創られただけっていうね」


 相手の答えも待たず一方的に喋りながら、バイパーは二人の体を交互に少しずつ、肉をちぎり取り、骨を砕いていく。血が噴出し、肉片がアスファルトの上に散乱する。

 断末魔の叫びがあがる。通行人達はその光景を目にして、ある者はそそくさとその場を立ち去り、ある者はかがみこんで嘔吐していた。


 バイパーは己の手で直接人体を破壊する行為に、快楽を覚える性癖の持ち主だった。潰し、折り、砕き、ちぎると、うるさい口も黙り、腐った脳みそも機能を停止して動かなくなる。一瞬に壊してしまうのも好きだし、部分的に少しずつ壊していくのも味がある。後者の場合、次第に相手が弱っていく過程が楽しくて仕方が無い。

 壊れた相手はもう何も喋らない。何も考えない。何も感じない。人生という楽しいゲームを強制的に終わらされる。だが壊した自分はこの先も楽しめる。いつも壊しながらそう思い、極めて心地よい気分になる。


 初めてちぎって壊したのは中学生一年生の頃だ。相手は高校生の不良だった。

 喧嘩をしようという意識など全く無い。動く肉の塊を壊して動きを止めたいという、その欲求だけで動いた結果、当時自分よりも体の大きな不良が、全ての指の骨をへし折られ、腕の間接を逆に曲げられ、目玉を抉り出され、耳を引きちぎられ、顔の皮を引き剥がされて、荒い息をつきながら転がっていた。

 小賢しく喋り考え動いていた肉の塊が、道端の犬の糞のようにただ転がっている姿を見て、バイパーはこのうえない至福を味わった。


 以来、バイパーは本能の赴くままに、気に入らない人間を壊してきた。警察に捕まるまでの一ヶ月間に、三十一人壊した。

 長期に渡って精神鑑定を何度も繰り返し行われたが、裁判では死刑が確定。未成年の死刑には手順が複雑であるが故、死刑の執行はバイパーが二十歳になった数日後に行われることになったが、とある人物の手引きにより、死刑執行が行われた事にされて、生きたまま外に出ることができた。


 そして現在、裏通りに四人いるというタブーの一人として数えられ、裏通りでも畏怖される存在として名が通っている。いや、表通りの間ですら、ネットを通じてその名は知られていた。何しろ公衆の面前で堂々と殺人を行うので、目撃者の数は多い。


「あー、すっきりした」


 そこら中に散乱した肉片を見下ろすと、爽やかな笑みを浮かべ、こめかみの横に垂れていた髪を後ろに払う。

 足を止めていた通行人達に視線を向けると、彼等は一斉にその場を早足で立ち去る。見慣れた反応なので、バイパーはそれを見ても何も思わない。

 人体破壊に快楽を覚えはするものの、殺人中毒というわけでもないし、人を見境無く殺したいという欲求も無い。あくまで壊すのは、気に入らないと感じた相手だけだ。


 全身に返り血を浴びた姿のまま、何事もなかったかのようにバイパーは歩を進めた。すれ違う通行人達がバイパーの凄絶な姿を見て驚くリアクションも、やはり彼には見慣れた反応で、何の感慨も無い。

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