第五章 8
幸子が作った結界は、軟体動物専門水族館という施設の内部に張り巡らされている。
この結界は外部からの侵入を防ぐのではなく、内部に閉じ込めるタイプのものであるために、外からの進入を完全に遮断しきれない。あくまで力霊の封印に力を注ぐ構造となっている。力霊の力の性質が故に、そうせざるを得なかった。
故に結界外郭には客が入ることが多い。たまに入り込んでくる者がいても、力霊を封じている中心には容易にたどりつけないように、空間を捻じ曲げている。
結界の外郭部分に足を踏み入れた程度なら、問題無く外に出られるようにしてあるし、空間がねじれていることにも気付かない程度に留めている。
力霊を成仏させるための冥送部隊が来るまでの間、幸子はあまり広範囲に動くことができない身となっていた。妖術でもって多重に結界を張り巡らし、封印強化した力霊を監視し続けないといけない。
持ち運びは最早不可能な状態だ。元々施されていた封印は、外気に晒された影響か、完全に消失してしまっている。
侵入者は未だ結界の外郭にいる。意識をそちらから、眼前に現れた存在へと移す。
空間の歪みの中で、すでに壺の外に出ている力霊が暴れている様を、幸子はぞっとしない気分で眺めていた。壺の封より解き放たれたとはいえ、幸子の張った多重結界による封印からは出られない状態にある。
生前はまぎれもなく人であったそれは、今や人の形をほとんど留めていなかった。かろうじて口と目と鼻らしきものを判別できる程度だ。長く、細く、そして平べったく伸びた、まるでところてんのような霊体。色は水色で淡く発光していたが、ぬめりのようなものを帯びている所もまさにところてんだと、幸子は思う。
その先端に薄い膜で覆われたような判別困難な顔がある。よくよく目を凝らして見てみると、その顔は苦悶に歪んでいるのが確認できた。
一体何をどうしたら、人だったものがこのような代物へと成り果ててしまうのだろう。一体何を思って人が人をこのような代物へと作り変えるのだろう。そしてこれは何百年の間、こうして苦しみ続けているのであろう?
考えるだけで幸子は気分が悪くなる。己も霊に苦痛を与えて武器として用いるがために、余計に憤懣やるかたない。幸子は自分の用いる力がどれだけおぞましい外法であるかを認識しているし、そのうえで己自身を蔑み、呪っている。
悪霊使いの術というものは、霊を攻撃に用いた時点で、その霊を解放して冥府に解き放ってもいる。
しかしこの力霊は、何百年も霊に苦痛を与え続けて怨念を浄化させない術理が施されている。生前に優れた異能の力を持っていたが故に、その力だけを抽出して利用するがために、このような過酷な運命を与えられてしまった者――それが力霊だ。
幸子は結界内に侵入者へと意識を戻す。
「複数……八人も。しかも足の運び方から見て、表通りの者ではない」
声に出して呟く幸子。結界内の出来事は全て把握できる。相手はたまたま迷い込んだわけではない。幸子が目的の者だ。
(尾行されていたみたいね)
今となってはその尾行相手が何者なのか、容易にわかる。自分をチェックしていた者。情報屋か何かが、今度は自分の居場所の情報を売ったのだ。あるいは月那瞬一が売ったのかもしれない。そう幸子は思いこんでいた。
ネタの販売相手は雪岡純子である可能性が高いが、それにしては不可解な部分もある。彼女が差し向ける刺客といったら、雪岡純子の殺人人形の通り名で知られる相沢真が定番だ。それなのに八人もいるという事は、別の相手の可能性もある。
狙いはもちろん力霊であろう。すでに壺からも解放されたこれは、そんじょそこらの術師の手に負えるものではない。持ち運びなどそれこそ、幸子のボスであるシスタークラスの異能力者でなければ不可能だ。いや、シスターですら、この力霊のもつ力の性質を考えると難しい。
もしも幸子が殺された場合、力霊は暴走する。場所が場所だけに、恐ろしい被害をもたらすであろう。
(霊のストックは十分だし、結界の範囲を広げるまでもない相手ね)
決意と殺意をもって幸子は立ち上がり、顔前で手を数度交差させて印を結ぶと、小声で呪文を唱え始める。
「うわーっ! 目があっ、目がーっ!」
「どうなってんだ! 何も見えないぞ!」
「お前もか! だから呪術師相手なんて嫌だったんだ!」
多数の悲鳴があがる。幸子が使役する盲霊による憑依は失明をもたらし、敵の戦闘力を一気に殺ぐ。盲霊師の名は裏通りでもそれなりに知られているはずだが、その対策もろくにしてこなかったのだろうかと、幸子は呆れた。
失明した敵のもとへと赴く幸子。
「誰だーっ!?」
気配を感じて、失明した襲撃者の一人が誰何したが、幸子はそれに足蹴りをもって答えた。転ばせられて、地面に這い蹲る。
「誰の手の者? 言ったら助けてあげなくもないわよ」
意識して硬質な声を出して、逆に誰何し返す幸子。
「た、溜息中毒だ! 俺達は雇われたんだ!」
銃声が響く。銃声の残響音が響いているうちに何かが倒れる音がして、血の臭いが漂い始める。これで残りの七人に状況は伝わったであろう。
「嘘は言わなくていい。今の溜息中毒にそんな余力があるわけないでしょ? 対立する日戯威に、一人を除いて全員捕まったっていうのに」
「日戯威だ……」
「馬鹿っ、どうせ言ったところで殺されるんだぞ!」
一人が白状したことに対して、別の人が咎める口調で叫ぶ。むしろ白状しているのは咎めたこの男の方だろうと、幸子はますます呆れる。
「殺さないわよ。私が向きを整えてあげるから、何かにぶつかるまで真っ直ぐに歩いて行きなさい」
そう言って幸子は襲撃者達を一人ずつ、向きだけを整えていった。誰一人として、幸子の虚を突いて襲い掛かろうとする者はいなかった。
「あの……目は治るのか?」
一人が怖々と尋ねる。
「誰かに除霊してもらえばね。私はそんなお人好しじゃないから、しないわよ」
「生かして帰してもらうだけ十分ありがたいよ」
冷たく言い放ったつもりの幸子であったが、本気で感謝している相手を見て、複雑な表情になった。
***
「八人もいたのに全滅か」
報告を聞いて、毅は大きく息を吐き、額に手を当てる。
「殺されたのは一人。生き残った七人も霊障による失明状態だそうです」
側近の青島が冷静な口調で付け加える。
「よく生かして帰してもらったもんだ。うちらのことは、向こうに漏れたと見ていいよな」
「そう考えておいていいでしょうね。我々の組織は、数はともかく質はよくないと認識しておいた方がよいかと」
「わかってますって。責める気もないよ。所詮ゴロツキの寄せ集めだ。そうやって大きくなった組織だし、生き残りにはこれからもキリキリと働いてもらうさ」
正直、毅は青島以外の部下に対して、幹部連中も含めて馴染みは薄い。所詮は父親から譲り受けた組織だ。早いところ彼らにも、いっぱしのボスとして認められねばという気持ちが急いている。
「いくら高名な呪術師が相手とはいえ、たった一人に八人が倒されるとはね。まるでマンガですな」
と、青島。
「呪術師なんて存在が普通にいるってだけで、表通りからすればマンガだろ?」
「しかし術師や異能力者だからといって、無条件に強力無比というわけでもありません。複数の刺客相手に対処できるものでもない。盲霊師の力は相当なものと思われます」
もちろん裏通りが基本的に何でも有りということは、毅もしっかりわきまえているし、それを特別脅威とも思っていない。ただ今回は青島の言うとおり、相手が特別強かったというだけだ。それならそれなりの対処をこちらも図ればいい。
「うろたえるな。優秀な殺し屋を雇え」
「別にうろたえていませんが」
「いや、このうろたえるなって台詞、一度でいいから言ってみたかったんだ」
照れ笑いを浮かべる毅。
「鳥山正美などどうでしょう?」
青島の提案を聞いて、毅はすぐさまネットでその名を検索する。
名前だけは聞いたことがあるし、始末屋の中ではかなりの腕であること程度は知っているが、知っているのはそれだけだ。今までどれだけの仕事をしたか、判明している分だけでも知っておきたい。
できれば、暗殺を得意としているか、それとも正面きった戦闘も可能かどうかが、一番知っておきたい事項だ。敵と対峙して戦闘をこなせる者と、一方的な暗殺を得手としている殺し屋とでは、状況によってニーズが異なる。今回は戦闘前提と考えるので、荒事に長けた者が必要だった。
「いいじゃないか。つーか、こいつは凄いな……おい」
裏通りのフリーで活躍している人物一覧のサイトにおける、鳥山正美の戦果一覧を見て、毅は驚嘆した。
「しかも雪岡純子を何度も退けているだとさ。万が一雪岡とこじれた場合も、こいつに頼れば安心てわけか」
「現在のシチュエーンションにおいては、これ以上は無いという人選かと」
得意気な青島を見て、毅も思わず笑みがこぼれた。
「それと、雪岡純子にも協力を求めた方がいいかもしれないな。こちらで手に入れて恩を売る方がベターだったが、仕方が無い。共闘という形でも恩は売れる。イレギュラーな事態も利用できるなら利用してやればいいしね」
使えるものは何でも使ってやれという貪欲な毅の考えは、見ていて笑えるほど親譲りであった。だが一方でまだ若く経験不足であるが故に危なっかしくもあり、その辺のフォローが己の役目であると、青島は認識していた。
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