第四章 25
沙耶はすでに消滅している。沙耶がずっと生活してきたこの部屋に、沙耶が唯一知る世界の中に、睦月の意識だけが存在している。
沙耶が見ていたアニメ――睦月という名の主人公のようなヒーローとなって、沙耶を救い出すことは出来ない。妄想の中の白馬の王子様として沙耶の心の中から生まれ、沙耶の中だけにいる睦月に、そのようなことは不可能だ。だがそんな睦月にも出来たことが二つある。
一つは沙耶の孤独を紛らわし、痛みを和らげること。睦月はそれに応じていた。それだけなら睦月にも出来た。
もう一つは、沙耶の中の憎悪の理解と継承。これも果たされた。沙耶の黒い願望は確かに自分に受け継がれている。
最早沙耶の意識を、睦月は感じ取れない。沙耶の中にいるのは自分だけだ。
沙耶は消えてしまった。睦月の声にも応じない。睦月が感じる事もできない。
睦月は懸命に沙耶の心が消えていくのを防ごうとしていたが、沙耶はどんどん無感情になっていき、やがて思考そのものが消え失せてしまった。
「でも俺は確かに存在している」
肉声に出して呟く。
耐え難い空腹に眩暈を催す。もう何日目だろう。母親が部屋を訪れなくなり、水だけで過ごしているのは。
まるで沙耶がいなくなったのを見抜いたかのように、母親は部屋に訪れる回数が減っていった。そして今や忘れ去られたかのように、放置されている。
「沙耶は消えたわけじゃない。きっと世界に絶望して眠ってしまっただけだ。でも、このまま俺が死ねば、沙耶も死ぬ」
そう呟くと、睦月は部屋から脱出することを決意した。睦月も外の世界は知らない。出ようと思ったことすら無い。だが死の運命を意識した途端、生きるための手段が何であるかを、睦月は理解し、行動へと駆り立てた。
あの手この手を使って扉を破壊した時には、睦月は見た目からしてボロボロになっていた。空腹のあまり立って歩くことも出来ず、懸命に這って部屋の外へと出た。
生まれて初めて見る外の世界。そこで初めて見たものは、部屋の中央に浮かび上がる、つけっぱなしのディスブレイだった。
ディスプレイの中には、とあるサイトが映し出されていた。雪岡研究所のサイト。そしてメモ帳に『ここに向かえ。そこで望むものは得られるはず』との母親からの伝言。
睦月は闇タクシーを呼び、雪岡研究所へと向った。世界の外を何も知らない睦月は、母親の言葉を信じて従うより他に無かった。
結果として睦月は助かり、沙耶の望みを叶えるための力を手にいれる事が出来た。
それから真奈美と卓也に出会い、掃き溜めバカンスの一員として加わって自分の居場所も得た。
睦月はいつも考える。母親はどうして雪岡研究所へ向えと書き残したうえで、沙耶を放置していたのか。母親と純子はどういう繋がりがあるのか。
何よりも理解できないのは、どうして沙耶を監禁して嬲りながら育てたのか。それがただの虐待趣味だとしても、どうして突然手放して自由にしたうえで、純子の下へと向わせたのか。
***
掃き溜めバカンスが三人の構成員を殺された夜から、二日後の昼。根城の遊戯部屋。
「一日置いて、動き出したようだな。ここに向っている」
遊戯部屋に訪れた加藤が、室内で一人暇そうにしていた田沢に声をかける。
「相沢真だけではない。もう一人いるようだ。肉殻貝塚の残党の則夫という男だ。共に根城に向っているところを見ると、間違いなく雪岡純子の実験台となる代償に、力を得たと考えていい」
「こっちも残り三人っつーことで、乗り込んでくるのに躊躇無しってことかよ」
田沢が不敵に笑う。
「甘く見られたもんだな。ええ? うちら三人、まとめて殺しちまうつもりとはよ」
「おまけに残るは年配組が二人ときている」
加藤も笑みをこぼし、手近にある椅子に座る。
「伝説の殺し屋も歳には勝てない、か」
加藤を横目で見つめながら、田沢が笑顔のまま言った。
「素直にそう認めたくはないものだがね」
「認めざるをえねえだろうがよ。口の端に血がついたまんまだぜ」
「む」
田沢の指摘を受け、思わず口をぬぐおうと手をやる加藤だが、田沢はその仕草を見て声をあげて笑った。
「あははは、嘘だよ。な? すっかり耄碌しちまって、こんなのにもひっかかってんだからよ」
「随分と意地悪な冗談だな」
田沢にからかわれ、加藤は力無く笑う。
「純子と累もこっそりと来ているようだな。この時点で私達の敗北は決定的だ」
「全盛期のあんたなら、相沢真だの雪岡純子だの、相手にもなりゃしねーんじゃねえか?」
「相沢とやらは知らないが、流石に純子や累はそんなに簡単にはいかんよ」
「親しい仲かい?」
「米中大戦前後、幾度となく関わった。腐れ縁という奴だ。敵であることもあれば味方であることもあり、依頼主だったこともある。彼等を殺す依頼は無かったがね。あったら私はすでにこの世にいないだろう。ふふふ……懐かしいな。実によき時代だった」
その時代こそが、加藤の黄金時代であり最盛期であった。激動の時代、全世界に加藤達弘の名が知れ渡り、世界中から加藤にオファーが殺到したほどだ。標的の中には、歴史に名を残す者すら何人もいた。
「世界が激動していた時代、世の裏側でも歴史のフィクサーの頂上対決が同時進行していた。当時、その走狗となって動いていた私にはいろいろわからなかった事も、後々になっていろいろ知る事ができた」
「年寄りの昔話はもういいから」
笑いながら田沢が話を遮る。
「何だ、せっかく人が面白い話をしようという所で」
「それはそうと……一気に寂しくなっちまったな。半分以上殺られちまったから当然だが」
カウンターの上に並べたカードを一人で弄る田沢。
「埋め合わせとして、あの小僧にはきっちりと落とし前つけてやんねーとよ。せいぜい楽しませてもらうぜ」
「その負傷では満足に戦えまい」
「ヤクうったから平気。もちろん合法ドラッグだが、かなりキツい奴な。コンセントとの組み合わせで変な作用出たら笑えるがよ」
「間違いなく死ぬと思うが、それでもいいのかね?」
「いいってことよ」
加藤の方を向いて口を広げ、歯を見せて笑う田沢。
「俺は十分楽しい人生送ったしな。ここいらで俺の命、誰かのために使ってやってもいいべ。それに」
田沢から視線を外し、カウンターの上に並べられたカードを一枚めくる。スペードのジャック。
「たとえば俺が二十代くれーにガキ作ってたとしたら、あいつの歳はちょうど俺の子供ぐらいってな感じだし……弟分つーよりは、言うの照れくせーけど、ま、そんな風に見てた感じだからよ。俺の半分も生きてねえし、しかも人生のほとんどを糞壷の中で過ごしてったってんだからよぉ」
「君もわかっているわけだな。あの子に何が必要なのか」
加藤が小さく息を吐く。加藤も当然わかっていた。睦月が救われる方法が何であるかを。
「それがわからねえほど馬鹿じゃあございませんよっと。問題は、あいつ自身が生き残るためのお膳立ても、同時進行してやんなくちゃならねえってことだ。全く一苦労だぜ」
もう一枚カードをめくり、田沢は小さく舌打ちをした。クラブのキングだった。
「私と君との二人かがりなら、何とかならなくもないぞ」
「いや、そいつぁパス。せっかくの極上の獲物なんだぜ? サシの勝負を楽しませてくれよ。少しくらいは弱らせておいてみせるからよ」
「愚かな選択だな。まあ君らしい」
愚かしい選択であることは事実であるが、まずは楽しむために生きている田沢は、これまでの人生においても、利口な手段や選択を取らず、リスクが高くても刺激的な方法を選んでばかいた。当然、そのせいで痛い目を見ることも多数であったが、それでもこうして生きている。そんな自由奔放な田沢に、掃き溜めバカンスの面々は惹かれていたし、一目置いていた。無論、加藤も。
「てなわけで、準備してくらあ。多分ボスにも出番いくだろーからよ、精々戦いの最中に血吐いて隙見せて負けましたとか、そんなしょっぺえ展開でくたばらねーように、気をつけなよ」
「確かに……そんな死に方だけは御免だな」
「今度は俺にも出番あるんだよねぇ?」
そこに睦月が現れて、念押しするかのように言う。
「そりゃもちろんあるだろーよ。総力戦て奴さ」
田沢が立ち上がり、遊戯部屋の入り口に腰に手を当てて立つ睦月の方へと歩いていく。
「でもお前は死ぬなよ。お前が死んだら何もかも台無しになっちまう」
「俺一人で皆の命を背負えって? それも何かしんどいねぇ……」
田沢の言葉を受け、睦月がげんなりした顔になる。
「そういう構図になってしまったからな」
と、加藤。
「あん? 別に俺がお前の立場ならしんどくないぜ?」
睦月の髪をくしゃくしゃと撫でる田沢。
「俺は精一杯楽しく生きてきたが、お前はまだまだたりねーよ。だからお前はもっと生きろ。もっと生きて楽しめよ。お前はまだ全然楽しみたりねーはずだからよ。わけのわからない復讐心なんて吹っ飛ばすくらい楽しんで、やりたいよーにやって生きろ。俺達はやりたい事しまくって楽しむために、この遊び場に生まれてきたんだからよ」
何度も何度も田沢から聞かされた言葉。しかし今は特別重く響く。
「さて、お出迎えに行くとしようぜ。とは言っても、俺はこの中でやるつもりだがな」
田沢が促す。
「真の他にもう一人いるみたいだねえ」
「二対二で丁度いい、かな。いや、一対一を二つに分けてくれた方が、俺としてはありがたいね。てなわけで睦月、お前は一匹引き離してくれ」
「わかった」
田沢の指示に頷く睦月。
「はいはい。じゃあ行って来るよ、ボス」
加藤の方に顔を向け、笑顔で小さく手を振る睦月。
「睦月、死ぬなよ」
それに応じて、加藤も爽やかな笑顔で送り出す。
「田沢、お前はせいぜい派手に逝ってこい」
「へいへい。おっさんは消えず、ただ野垂れ死ぬのみ」
意地悪い笑みをこぼして送り出す加藤に、田沢は歯を見せて笑い返し、睦月と肩を並べて、遊戯部屋を出た。
「ふう、これが見納めか……」
大きく息を吐き、感傷に浸る加藤。
「田沢。私も同じだよ。やりたいことをやり尽くした。心残りは一つだけ」
懐の銃を抜き、テーブルの上に置く。これから根城の中にはしばらくガスが充満するので、火気の類は使えない。
「刺し違える覚悟で臨むなら、殺す方法はいくらでもある。だが最後まで楽しませてもらうよ。私の人生だからな」
誰ともなく呟き、加藤は笑みをこぼした。
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