第四章 16

 高田彰人は幼い頃、母親に殺されかけたことがある。

 母親は重い心の病に侵されていた。息子に対する愛情も希薄で、少しでも気に入らない事があると凶暴になって喚き散らし、彰人に向かって当り散らすのが常だった。今でも残るチック症は、そのせいで患ったと思われる。


 同じような過去を持つ睦月を、彰人は自分と照らし合わせていた。英雄が睦月を攻めていた際に、むきになって怒っていたのはそのせいだ。自分が批難されているような錯覚を覚えていたからだ。


「英雄の奴がいなくなって、穴でも開いたよーな感じだよな」


 遊戯部屋のカウンターの席に腰かけて、グラスに氷を入れながら、気の抜けた表情で彰人が言う。いつも喧嘩ばかりしていたが故に、余計にそう感じてしまう。


「うん。俺や彰人はいつもあいつと喧嘩ばかりしていたけれど、それだけに何ていうか、いなくなると……うん、あれだねぇ」


 隣の席に座った睦月が、言いかけて途中で言葉に詰まる。虚空を見上げて口を半開きにして、彰人以上に気の抜けた顔でいる。


「元々俺はあいつに誘われてここに入ったのさ。それからボスにしごかれまくって、こうして殺し屋稼業で食ってくことになったわけだが」


 復讐のために殺人を犯し、警察から逃れるための手段の一つとして裏通りに堕ちるというのは、裏通りに堕ちる者のセオリーの一つになっている。

 だが誰でもそれが可能というわけではないし、裏通りに堕ちれば必ず罪を消せるわけでもない。それなりに強力な個人か組織の庇護があればこそだ。

 彰人の場合は、知り合った英雄が裏通りにいると知って相談して、英雄のボスである加藤の力でもって事件を有耶無耶にしてもらい、代わりに掃き溜めバカンスで殺し屋として生きることになった。


「何か、殺し屋やるって言われてさ、そん時に想像していたのと全然ちげーんだよなあ。殺し屋っていうからには、もっとこう人間味無くなっちまって、笑うこともなく、目撃者も全部殺しちまうような非情さとか、そういうの想像していたのによ。実際にはまるでちげーよ。ただ仕事として人を殺すだけ。たったそんだけで、普通の職場と変わらねーって印象だろ? ここ」

「俺も同じ印象かな。普通の職場ってのがどういうのか知らないけれどねぇ。あはっ」

「むしろ楽しい職場だぜ? 馬鹿な同僚とわいわいやりながら、しかし一方で死線を共にくぐり抜けてきたから、生半可じゃねえ結束力もあるしよ」

「うん。……甘いって言われるかもしれないけれどさあ、ずっとこの楽しい日々が続くと思っていたんだよねえ。誰一人欠けることなく」


 うつむいて、寂しげな笑みを落とす睦月。


「俺もさ。だけど、英雄は死んだ」

 彰人の左目の瞬きが早くなる。


「覚悟が足りなかったみてーだな。ここがあまりに居心地よくて楽しすぎて、そんでもって俺等強すぎて、どんな修羅場も皆で何とかしちまってきたからよ、誰も死なねえって思い込んでいたのかもなあ。そんなわけあるはずねえのによ。上には上がいるって、田沢さんやボスが口を酸っぱくして言っていたが、とうとうその上とやらが現れたみてーだ」

「英雄が殺られて、俺もその一歩手前だったからねぇ。田沢さんも腹に穴開けられてるし」


 五時間ほど前の、真との戦いを思い出す睦月。

 自身の消耗も激しく、さっさと休息を取った方がいいのだが、どうしても寝る気になれず、遊技部屋にて一人で暇そうにしていた彰人をつかまえて雑談を交わしていた。


「で、何かあったの?」


 唐突に睦月が尋ねる。何があったかは知らないが、いつになくハイペースで酒を呷る彰人は明らかに様子がおかしい。


「ははは、病院にいたコレがさ、死んだって電話きた。自殺だってよ」


 小指を立てて、乾いた笑みを漏らしながら彰人は言った。


「とうとうかって感じだけどよ。あいつは結局、運命とやらに殺されたのかねえ」


 彰人はいつも考える。この世の運命を動かしている者という存在が仮にいたとしたら、その者は悪意に満ちた性根の腐った奴に違いないと。


「俺は睦月の気持ち、わかる。悲劇と不幸のバーゲンセール大安売りな世界にいじめられりゃあ、世界が敵に見える。何もかも壊してやりたくなる。俺がそうならなくて済んだのは、この場所のおかげなんだ。他の奴も似たりよったりだろうしよ。この世は遊び場だとかいつも言ってる田沢さんは、どうなんだかな」

「田沢さんも似たような考えは多少持っているけれど、前向きだし傲岸不遜で、彰人や俺らとは全然違うよぉ」


 と、睦月が言った直後、


「随分と夜更かしだな」

「ん!」


 加藤と劉偉が室内に入ってくる。加藤はいつものようにスーツ姿だったが、劉偉はその巨体を水玉の寝間着で包んでいた。ナイトキャップまで被っている。


「ボスこそ。いい歳して夜更かしってのはどーなのよ」

「田沢と劉偉と話し込んでいた。相沢真と交戦して、かなり追い詰められたそうだな」


 茶化す彰人に真顔で返すと、睦月の方に顔を向ける加藤。


「雪岡純子の殺人人形、少なくとも睦月一人では敵わぬ相手という事が証明された。奴の始末が済むまで、睦月、君の外出を禁ずる」

「ちょっ……それってどういうことさ。狙われてるのは俺なんだよっ」


 加藤の命令に、睦月は不服そうな顔になって反発する。


「だからこそここに篭っていれば、相沢真といえども迂闊に手を出せない。かといって、ずっと篭城していろというわけではない。私達は殺し屋だ。相手が来るのを待つのではなく先に始末しに動く。真奈美と卓也が戻ってきたら、劉偉と組んで三人でいってもらう」

「ふーむ。なるほど、組み合わせ的にはいい感じだな」

「ん!」


 加藤の言葉に、彰人と劉偉が唸る。


「三人がかりであれば、相沢を追い詰めることができたそうだし、これが無難だろう。屋内で、かつ負傷していなければ、田沢にもう一度行ってもらう所だがな」

「屋内の田沢さんなら、一人でも勝てそうなもんだけれどもねぇ」


 真が主に銃器を得物にしていたことを思い出し、睦月はそう考える。


「田沢は目立ちすぎたせいで、殺しの手の内が知れ渡ってしまっているからな。うまく乗ってくるとは思えんよ」

 加藤が苦笑を漏らす。


「で、複数がかりなら、俺も加えてくれていいんじゃない?」

「ん! ん!」


 不服そうな表情で言う睦月に、劉偉が首を横に大きく振って唸る。


「狙われている当人を前線に出してどうする? 気持ちはわかるが、私が許可を出すまで、一歩もここから出るな」

「親心って奴かね。まあボスの判断は睦月のことを思ったうえでのことだから、気悪くするもんじゃないぜ」


 彰人がたしなめるが、睦月はあからさまにむくれてそっぽを向く。


「もしこの三人がかりでも敗北するほどの相手であれば、残った四人がかりってな感じかね。それならいっそ七人全員でってのも不味いか。一人相手に七人がかりじゃ、流石に笑いものになるな」


 彰人が言うが、加藤は真顔でかぶりを振り、


「体面など気にして手段を選ぶことはないが、私が気にしているのは、過剰な戦力を投入した場合、純子や累が出てくる可能性もあることだ」

「純子は手出ししないって言っていたけれどねぇ」


 睦月がそっぽを向いたまま口を挟む。


「あいつの口約束など信用ならんよ。先程三人がかりになって相沢を追い詰めた際、純子がその場に現れて制止をかけてきたのだろう? つまり相沢真という下僕は、純子からしてみれば、そこまでして守る価値のある存在ということだ。確実に葬れる状況や編成を最初から用意してしまえば警戒される。そのギリギリの線で臨めばどうかという感じだな。もし純子や累がしゃしゃり出てきた場合、我々に勝ち目は無い」


 加藤の声には確信が込められているのが、睦月と彰人にも伝わった。裏通りでも有名な雪岡純子と雫野累の二人を直接知っているあることもわかる口ぶりであるし、決して誇張は交えていないであろう。


「純子の動向は私の方で常にチェックしておく。相沢の側にいないことを確認できた際にのみ、劉偉達に襲撃させる」

「ん!」


 加藤に名を出されたタイミングで、睦月を見下ろし、任せておけと言わんばかりにいつもより力強く唸る劉偉。それを見て睦月は、顔を上げて愛想笑いを返したものの、すぐにまたむくれた表情になってうつむいた。


***


 たまに母の腹が出ている時期がある。

 自分の弟か妹が生まれるということなのだろう。自分に何人も兄弟がいることを、沙耶は知っている。もちろん会ったことは無い。

 生身で直接知っている人間は母一人だ。おそらくこの先も会うことは無いだろうと思っている。


 沙耶は一度だけ兄弟の事を尋ねたが、教えてはくれなかった。だがかつて母は一度だけ、こう言ったことがある。


「いい子にしていないと、もう面倒見てあげないわよ! 貴女の代わりはたーくさんいるんだからね! ご飯もあげないし、テレビも見せてあげないし、もう会いにもきませんからね!」


 その時、母が癇癪を起こして沙耶を激しく打ち据えていた。母は怒りに任せてそう口走ってから、我に返ったかのような表情を見せた。

 どうやらそれを口にする事自体が母にしてみたら失敗であった様子が、沙耶にはわかった。その理由はわからないが、母からすると教えたくはないことのようだ。

 腹が膨れている時点でそれは隠せるものではないことだが、母にしてみたら、あくまで沙耶と自分との二人の世界を、貫きたかったのであろう。


 沙耶は思う。きっとその兄弟達は、自分より幸せに違いないと。テレビに出てくる、外を自由に歩ける人達と同じなんだろうと。

 母が何度も何度もこう言っていたからだ。


「沙耶だけは一生この狭い部屋に閉じ込められて、日曜日以外は嫌な思いをし続けなくてはならないから。そうする事で、沙耶以外の全ての人が幸せになれるんだから」


 沙耶だけは……と、日曜日以外毎日言っていたから。きっと兄弟達は自由に、幸せに暮らしている。自分のおかげで幸せになれているのに違いない。

 しかし代わりがいるという事は、自分が死んだら、今度はその中の誰かが自分の代わりを引き受けるというのだろうか?


「どう思う? 睦月」


 母のいない時間と、テレビを見てない時間は、ずっと睦月と会話している。肉声に出して話しかける。


「たとえば私がここで自殺したら、私の妹か弟が私の代わりにここに入れられて、世界中の皆の幸せのために、お母様にいじめられ続けるのかな?」

(んー……それはないんじゃないかねぇ)


 いつからか心の中に現れた少年、睦月が、少し間を置いてから答える。


(沙耶だけがきっと特別なんだと思うねえ。そんな特別なんて、沙耶からしたら迷惑だろうけどさぁ。だからこそお母様もその辺に触れたくないんじゃない?)

「でもこの前確かに言ったのよ? 私の代わりはいくらでもいるって。だったら、私だけがこの世で唯一無二の特別ってわけでもないでしょ」


 言ってから、沙耶はふと気がついた。


「そっか。だからお母様は、私に兄弟のこと言いたくなかったんだ。私だけ特別ってことにしたいから」

(でも、その中から選ばれたのは沙耶なのが事実だよ?)

「選ばれてほしくなかったけれどね……」


 皮肉っぽく言う沙耶。


「どうして生まれたその時に、世界の法則が決まっているの? どうして私なの?」


 自分だけこの部屋で母親から嬲られ続けるのが、この世界の決まりだと、母は何度も言う。そのおかげで自分以外の人間は全て幸せだという。自分が嬲られ続ければそれだけ他の人間が幸せになるのが、世界の法則だと。

 そんな世界に生まれてしまった事の不幸を嘆き、自分以外の全てを呪う。


(俺さ、テレビ見ている限り、お母様は嘘をついているんじゃないかって、時々思うんだけどねぇ)


 睦月がそう言ったが、沙耶は反応しない。何も感じない。


(だってそうだろ? テレビって外の出来事や、世の中に起こりうるフィクションを流すもんだろ? どう考えても外の世界は幸せで溢れてなんかないよ?)

「そんなのわかってるよ……」


 沙耶が自虐的な笑みをこぼした。


「私はね、睦月。そう思っていた方が楽なの。お母様の言うことを信じて、嘆いて、恨んでいた方が楽なの。お母様の言う通り、私がお母様にいたぶられ続けて、そのおかげで外の世界の人達は幸せなんだって思って、外の世界の人達とやらを憎み続けていることが、一番楽なのよ。だって私がここから出られず、お母様に毎日いじめられている事実は変わりないし、外の人達がそんなんじゃないってのも、テレビ見ている限りわかるもん。でもさ……」


 沙耶の自虐はさらに別な方角へと向った。


「何か段々、どうでもよくなってきちゃった。少しずつ感じなくなってきちゃった」


 沙耶は己が無感情になっていくことを自覚する。睦月の言っていた心の死が近づいている事を自覚する。


(沙耶、心を殺しちゃ駄目だよ? 沙耶がしっかりしないとさ)


 睦月が案じていた通りの方向に向っている事に、しかし沙耶は全く悲観していない。むしろこれでいい。このまま心など消えてしまえばいい。何も感じなくなって、何も考えなくなってしまうのが一番いいと、沙耶は思う。


(沙耶が死んだら俺はどうなる? 俺が一人だけ取り残されるのかい?)

「睦月の誕生日っていつ?」


 脈絡の無い言葉を返す沙耶。


「私は……明日が十二歳の誕生日。日曜日以外で、お母様が優しくしてくれる日。昔はこの日が楽しみだったけれど、今はそうとも思わなくなってる。睦月の誕生日はいつ? 私の前に初めて現れた日? それっていつだっけ? ちゃんと覚えておけばよかった。その日は、私が睦月のことを祝ってあげるために」


 沙耶が自分より睦月を想っていることが、睦月の不安をさらに駆り立てた。

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