第四章 2

 沙耶はその部屋以外の記憶を知らない。


 部屋の外にも世界がある事は、テレビを見て知っている。母親から教えられて知っている。けれども沙耶は生まれてこのかた、部屋から出たことが無い。出ることを許されていない。

 母親から聞かされた話によると、部屋の外の世界はとても素晴らしい場所だそうだ。一切の苦痛の無い天国のような場所ではないだろうが、少なくともこの部屋よりはましだろうという事は、テレビから得た知識でもわかっていた。


「外の世界は素晴らしいのよぉ。貴女と同じ年頃の女の子は皆楽しいことがいっぱいで、学校に行けて、友達が沢山いて、いい服を着て、美味しいものを食べて、素敵な男の子と巡りあって恋をしているのよぉ~」


 今日も部屋を訪れた母が、鎖に繋がれた沙耶に笑いかけながらおなじみの言葉を口にした。沙耶は母親のその言葉を信じていた。


「でもね、貴女は駄目よ?」

 そして今日もまた、同じ言葉を付け加える。


「沙耶はお外に行ってはならないの。死ぬまでこの部屋に居なくちゃだぁ~めぇ」


 ねちっこい口調で念押しする母。

 何回目だろう? この言葉を聞くのは。一日に最低一回は必ず聞いている。物心ついた時から言われ続けてきた。


「沙耶だ・け・は駄目なんだからね。沙耶だ・け・は、ねぇ」


 歪んだ笑みを満面に広げて、『だけ』の部分を強調する母。この事を告げる時、母はいつも楽しそうだった。


 何故自分だけが駄目なのか? 沙耶はいつも問いかけていた。

 その理不尽さに嘆き、怒り、恨んでいたが、最後に行き着くのは諦めと絶望だった。母の言う通り、自分は死ぬまでこの部屋から出られないのだろう。出たいと思っても母が許してくれない。だから出られる事は無い。


「沙耶がこうして一生この部屋で、ろくに楽しいこともなく人生を終わることで、世の中の女の子達はその分幸せになれるのよぉ」


 この言葉も何度聞いたかわからない。どうして自分がこの部屋にいれば、他の女の子が幸福になれるのか、その理由はわからない。

 尋ねると母は怒り狂って何十分もの間、沙耶の事を殴り続けてくるので、もう口に出して尋ねたりはしない。聞いてはならない、よほど大変な恐ろしい秘密――この世界の重大な秘密であると、沙耶は認識している。


 母はテレビのリモコンのスイッチを押した。今日はテレビを見ていい日だ。週に四回、日曜以外は一日に二時間だけ、沙耶はテレビを見る事を許される。それが沙耶にとって至福の時間であり、外の世界を知る方法であり、様々な知識を得る唯一の機会だった。


「じゃあ、御飯はおいてくからね」


 テレビにかじりついて夢中な沙耶の前に、丼が差し出される。

 丼の米の中には、口に出すのも憚られるおぞましいものが混ぜられていたが、沙耶は気にしない。気にならなくなっている。

 テレビが終わる頃には、全て沙耶の腹の中に納まっていた。


***


『肉殻貝塚』は安楽市に事務所を構える、違法ドラッグ販売組織である。構成員は十七人と、人数的には小規模組織であるが、安楽市内にある違法ドラッグ組織の中では、売り上げ上位に入る。それ故に市内の同業者の中からは敵視もされている。

 少規模の組織で売り上げ数を伸ばすには、多くの顧客をキープしておかねばならない。多少強引な方法を用いて、他の同業者の縄張りを侵す事も珍しくない。その方法がまた、肉殻貝塚が敵視される原因となった。


 七十人以上の構成員を有する、旧極道系の流れを汲むドラッグ組織『放たれ小象』は、肉殻貝塚に実力行使で臨んだが、元より少数精鋭で腕の立つ者を何人も擁する肉殻貝塚は全くひるまず、幾度も衝突を繰り返しつつも一名の死者も出さず、逆に放たれ小象は十五人にも及ぶ死者を出すという結果に至った。

 肉殻貝塚と放たれ小象の抗争は、よくある裏通りの組織同士の抗争として、特に目立った話題にもならなかった。組織同士の抗争など、裏通りでは毎日行われている事だ。それが余程大規模な組織同士か、あるいは強力な個人が関わらなければ、話題性は薄い。


「放たれ小象の奴等さぁ、諦めたかなぁ~?」


 ソファーに腰掛け、テーブルの上に足を投げ出した格好でナイフを弄びながら、石井陣がネチっこい声を発する。

 痩せぎすな体型で、けばけばしい紫のスーツに身を包み、サングラスまで紫色。銃を持った相手にも常にナイフで応戦するナイフ使い。誰が相手でも引けを取ったことは一度も無い。つい昨日も、手にしているナイフで放たれ小象の構成員の喉元を切り裂いたばかりである。


「あれだけ殺されて、こちらとの実力差を見せ付けられて、なお襲ってくるようならいいタマだがね。ま、昨日は七人も一気に殺したことだし、もうそろそろ手打ちなんじゃないか?」


 石井の向かいで、同じようにテーブルに足を投げ出して座ったジャージ姿の男が言った。

 名は石田竜男。どう見ても十代にしか見えない外見だが、肉殻貝塚のナンバー2で、自らを特攻隊長と称するほどの腕利きだ。石田一人だけで、放たれ小象の構成員を六人も殺している。


「ちょ、ちょ、ちょっ、ちょっと、みん、みん、皆。その話題ストップ」


 部屋の扉が開き、現れた禿頭の大男がどもりながら手をあたふたと動かして、室内にいる全員に、キナ臭い話題をやめさせようとする。


「来る。愛ちゃん、愛ちゃん、愛ちゃんが、愛ちゃんが来るぞ。ストップ」


 鼻詰まり声で制止をかけつつ、大男は自分の口に手をやり、話題を中断させようとする。

 すでに彼が何を言いたいか、室内にいる者全員に通じているが、彼は通じているかどうかがわからなくて不安で、何度も制止をかける。


「いいですか? 則夫さん」


 おかしそうに笑いながら、掃除用具一式を持った少女が部屋の中に入ろうとする。

 則夫と呼ばれた大男は、すまなさそうに頭をかきつつ、あたふたと入り口から遠のいた。少しどけばいいだけなのに、わざわざ部屋の奥まですっ飛んで。


「こんにちはー」

「よお、愛ちゃん。今日は遅かったね」


 十代半ばと思われる浅黒い肌の少女に、石田が気さくに声をかける。


「すみませーんっ。昨夜ちょっと帰るのが遅くって」

「休みの日を満喫したってか? デートとか?」

「そんな相手がいればいいんですけどねえ。学校の友達と夜遊びしまくってきちゃって」


 愛と呼ばれた少女が照れくさそうに言った。


「俺がいつでも相手になってやるよ?」


 石井の言葉に、愛はあっかんべーをしてみせる。


「オッサンはすっこんでろよ。年齢の釣りあい取るなら俺の方がふさわしいだろ?」

「ちょ……オッサンて、俺まだ三十一なんですけど……」

「私や石田君から見れば、十分オッサンですよ、それは」


 クスクスと笑いながら言う少女の言葉に、石井はふてくされた表情を作って見せた。

 少女の名は真島愛。肉殻貝塚の事務所に住み込みで、掃除洗濯食事などの家事全般を行っている。


 裏の組織としての仕事には一切関わってはいないし、関わる事も関わらせる事も許されていない。彼女のいる前では仕事の話自体も控えるようにしている。裏通りの組織で働きつつも、あくまで堅気の線からはみ出ないようにと、肉殻貝塚の面々は気を遣っていた。


 愛は父親からひどい家庭内暴力を受けていた。愛の父親が肉殻貝塚と違法ドラッグの取引の際、石田が愛への暴力を目の当たりにして、父親から引き離してここに住み込むように取り計らったのだ。

 肉殻貝塚のボスである石川一郎は事情を聞き、ここで働く代わりに衣食住と安全の保証をして、愛を学校にも通わせた。

 自分を悲惨な環境から助けてくれた組織に、愛は心から感謝している。恩返しをしたいと何度も申し出たが、ボスの石川は、事務所の雑務をして笑顔を振りまいてくれればそれでいいと言って、決して組織の汚れ仕事には近づけなかった。


「お、お、お、お、オイラもおっさんかな? おっさんなのかな? おおおお兄さん、ではないのかな?」


 スキンヘッドをせわしなく左手でかきながら、石田、石井、愛の三人をキョロキョロと見回しながら則夫が尋ねる。


「則夫さんはお幾つなんです?」

「オイラ? えっと……なな……きゅう……じゅうい……」


 愛に問われ、則夫は指を折って数え始める。


「オイラ二十一歳!」

「随分若かったんだな……」


 意外そうに目を丸くする石井。


「見た目よりすげー老けて見えるぞ。本当にそんな歳?」

「どう見ても則夫さん、三十越えて見える……。せめて髪の毛があればもう少し若く見えるかも」


 石田と愛も驚いた目で則夫を見ている。則夫はそんな皆の様子を見て、照れくさそうに笑う。


 則夫は苗字を他人に名乗らない。理由は聞かれても誰にも答えなかった。子供の頃から体が大きく、頭には髪が生えず、軽い知的障害を煩っていたが、誠実で努力家で愛想がよいため、周囲からは愛された。

 則夫は自分が知能で劣る事を自覚しつつも、必死に勉学に励んで大学受験に臨み、見事合格した。

 が、則夫とその友人を馬鹿にした学生に暴行を加え、半年で退学となった。自分自身を馬鹿にされる事は我慢できても、友人を馬鹿にされる事がどうしても許せなかった。

 その際の友人が、肉殻貝塚のボスの石川の息子であり、息子からその話を聞いた石川の計らいにより、現在ここで働いている。


 裏通りの仕事に最初は抵抗を示した則夫だったが、組織に属する仲間達が皆いい奴だった事や、肉殻貝塚が取り扱っているドラッグが、依存性は強くても危険性に乏しいものであり、売る相手をちゃんと選んでいるあたりを見て、この組織に骨を埋める事を決めた。


 則夫は肉体面では常人よりはるかに優れていた。スポーツ万能で手先も器用で要領がいい。裏通りで必要な戦闘スキルもすぐに習得し、肉弾戦も銃の腕も、組織内で一目おかれるほどになっていた。放たれ小象との抗争でも、目覚しい活躍を何度も見せている。


「よお、おはよー」


 気さくな挨拶と共に五十代くらいの初老の男が部屋に現れる。これといった特徴の無い、どこにでもいそうな中肉中背の、頭髪がやや寂しくなった親父。

 彼こそが肉殻貝塚のボスの石川一郎である。が、ボスの登場にも、誰も別段かしこまった様子は見せず、軽く会釈や挨拶を返しただけだった。


「ちょっとアッチの話があるんで、愛ちゃんは外してくれ。悪いね」

「いえいえ」


 石川の言葉に、愛は笑顔で軽く頭を下げて、部屋を出た。


「悪い話だ」


 愛の退室と同時に、石川は表情を曇らせた。それを見て、石井、則夫、石田の三人も真顔になる。


「放たれ小象にいるスパイからの情報だ。奴等、てめーらの力じゃ俺等にまるっきりかなわないからってんで、殺し屋を――いや、殺し専門の組織を雇ったらしい」

「殺し専門の組織……」


 石井が蒼白な表情になって呻く。


 裏通りには様々な犯罪ビジネスを取り扱う組織がある。しかし殺し専門の組織は少ない。個人で殺し屋業を営む者は多いが、組織単位で殺しのみ専門を行う組織というのは珍しい。何でも屋である始末屋組織が殺人も請け負う事もあるが、標的は表通りの住人であることがほとんどだ。

 殺人という行為自体を金銭で求められた場合、フリーの殺し屋なら自身の名声と力量で判断して、標的次第で断る事もできる。殺し専門では無い組織でも同様だ。


 しかし殺し専門組織となればそうはいかない。

 フリーの殺し屋を越える莫大な報酬を取る代わりに、集団で標的を始末しにかかる。彼等に依頼する標的とは、組織そのものの壊滅であったり、化け物じみた腕利きの個人であったりする。

 故に殺し専門の組織という存在の標的となった場合、どちらかが消えるまでの抗争となる。少なくとも殺し専門組織は、自分達が全滅するまで依頼の遂行を止めようとはしない。単純に敵対する組織同士の抗争なら途中で手打ちにもできるが、それも通用しない。


「で、どこのですか?」


 無意味な質問とは思いつつも、石井は尋ねた。殺し専門組織といったらその性質上、いずれも凄腕揃いだ。標的となったらタダでは済まない。


「『掃き溜めバカンス』だとさ。組織の有り金はたいて、借金までこさえて雇ったんだと」


 石川が組織名を口にした瞬間、部屋の空気が凍りついた。

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