第三章 21

 裏通りの中立地区指定のホテルには当分泊まれない。今朝は被害者という立場で中枢には大目に見てもらったが、二度目は無い。仕方なく杏は手頃なホテルへと駆け込んだ。


 意識を失った制服姿の男子生徒を抱えた杏に、ロビーではたっぷりと不審の視線を注がれたが、気にしてはいられない。

 真の服についた血などから見ても、明らかに裏通りの人間であるという事を察したようで、滞在を断られる事も無かった。杏もそのあたりを計算して、真の服の血を隠すことをしなかったわけだが。


 小柄で華奢な見た目のわりに、真の体は引き締まっていてずっしりと重みがあるように感じられた。真の体重ではなく、彼が服の中に隠している様々な得物の重量が含まれているのだろうが、それにしても直におぶって運び続けると、見た目とのギャッブを感じずにはいられない。

 加えて、真の温もりと鼓動と静かな呼吸を、杏はずっと意識しながら歩いていた。タスマニアデビルで累がよくひっついてくるが、それとはまた違う感触に、戸惑いを覚えてしまう。


 ツインの部屋にチェックインし、ジャケットを脱がし、シャツの上ボタンを幾つか外した状態で真をベッドに寝せてから、杏も一息ついて横になる。


「治療して運んでくれたのか。ありがとう」


 目を覚ました真が礼を口にする。意識がまどろんでいた杏はそのまま頭だけ真の方に向ける。負傷したせいか、それとも目覚めたばかりのせいか、天井に向けられた真の視線が妙に泳いでいるように見えるのが、杏にはどうにも気になった。


「応急処置をしたのは累よ。偶然通りかかったとか言って、あいつらの術だの結界だのを消してくれたわ」

「累か。それはそうと……せっかく運んできてくれて悪いんだけれど、部屋は別々にしてくれ。何でわざわざ一緒なんだ?」

「何でって、貴方は負傷して意識失っているし、別の部屋にしたら、また敵が来たときすぐに対応できないでしょう? 何を言ってるのよ」


 真の物言いに腹が立って、語気を強める杏。


「それもそうか。でももう大丈夫だから、他の部屋に頼む」

「他の部屋にしてどうするの? また女でも呼ぶ気?」

「あんたが行かないなら、僕が出て行くさ」


 ついつい感情的になって返す杏に、真は淡々とした口調で告げ、起き上がる。


「待ちなさいよ。怪我人の分際で勝手なことしないで。襲われた際にも二人同じ場所の方がいいわよ?」

「この程度の負傷なら、動くにも戦うにも大して影響は無い。それに、今の僕はどうしても異性とは一緒にはいられない」

「どういうこと?」


 思いもしない言葉が出てきて、訝る杏。


「こんなことも説明しなくちゃいけないのか……。僕は人を殺すと欲情する変態なんだよ。人を殺すと興奮して異様に性欲がたぎって、女を抱かないとおさまらなくなるんだ。昨日も何人も殺しているし、そんな今の僕の近くに女性がいる状態は、苦痛以外の何物でもない。下手すれば抑えきれずにレイプしかねないぞ」


 予想の範疇を越えまくった答えを返す真に、杏は呆気にとられた。杏を追い出すためにとってつけた嘘にしては、生々しいし突拍子が無さすぎる。


 まじまじと真を見る杏。こんなに綺麗な顔をした小柄なこの少年が、そんな性癖を持っているなど、全くイメージにあわない。しかし裏通りの住人なのだし、何かしら常人とは異なる感性や、明らかな異常性を持っていても不思議ではない。

 杏は益々興味が沸いてきた。惹かれている事を意識せずにはいられなかった。異性にここまでときめいたのは、二十三年間生きてきて初めてだ。


「そんなこと言って、実際にレイプした事なんてあるの?」

「ある」


 軽口めいた杏の問いに、あっさりと肯定する真。この答えも意外だった。静かに発せられた声と、瞳の中のひどく哀しみに満ちた光は、嘘だと思えなかった。


「何度も?」

「一回だけ」

「その相手はどうなったの?」


 訊きにくい事を、ズハズバと訊いていく。何故か訊かずにはいられなかった。真は怒るかと思いもしたが、それで怒るなら、逆に怒る所を見てみたいと、単純な興味本位のみで突っ込んでいった。


「それくらいでやめてくれ……」


 寝た格好のまま、顔だけを杏から背ける。言われた通り、それ以上突っ込む事はやめておいた。元々無粋で思慮の無い事を言っている自覚は杏にもある。この素敵すぎる業を背負った少年の能面を、剥がしてやりたかったのだ。


「美しいよ、君は……最高に歪んでるけれど、それが美しい……」


 夢見るようなうっとりとした口調で言いながら、杏は真の方に近づいていく。


「あんたはおかしいよ」


 それに対しそっぽを向いたまま、心なしか呆れているような声を発する真。もちろん杏が近づいてきているのもわかっているはずだ。その意味も。


「人を殺して喜ぶ異常者に言われたくないわ」


 と、杏。もちろん皮肉っても罵ってもいない。微笑みながら言い、真の上にゆっくりと覆いかぶさる格好になる。


「あなた幾つなの? とても見た目の年齢に思えないんだけれど……達観しすきているというか、言葉遣いも考え方も雰囲気も、子供っぽくないよね」


 裏通りの者なら、十代でそこらの大人よりずっと大人になってしまうものだが、それにしても真はいきすぎているように、杏には見える。


「歳か……言われるまで意識したこともなかったけれど、二十歳にはなってないはずだ。この世界に堕ちてから、月日の流れもろくに意識してないし、誕生日も気がついたら通り過ぎているって感じだな」

「二十歳になってないって、幾つなのよ……。どう見ても中学生くらいにしか見えないよ?」

「それが本当なら、確かに成長が止まってるな。自分では全然意識してなかったけれど。そうか……見た目通りの歳とは違うのか……。僕は雪岡に改造されてはいないと思っていたけれど、それも何だか怪しく思えてきた。気付かないうちにいじられていたのかな。あいつならそれくらいやりそうだし。それと、忘れないうちにあんたには話しておきたいことがある」


 シーツ越しに自分に覆いかぶさる杏の背に手を回し、真は言った。

 自分からアプローチしたにも関らず、真の方からも応じてきた事に動悸が激しくなる杏。まともな形ではこういう経験が一度も無いなどと、果たして言っておいた方がいいものか悪いものかと、杏は迷う。


「あんたの相棒、樋口麗魅。彼女はマウスだ」

「マウス……」


 その呼称の意味は杏も知っている。マッドサイエンティストに体をいじくられて、体の構造を人間ではない別物に改造されてしまった者のことだ。中には記憶を操作されている者もいるという。

 そしてこの場合は間違いなく、雪岡純子に改造されたという事だ。


 唐突かつ衝撃の真実――麗魅がすでに純子の実験動物にされていたなどと告げられ、杏はしばらくの間言葉を失った。いくらなんでもこれは信じたくない話だが、真が嘘でそんな事を理由も考えられない。


「麗魅が? でも何で……」

「おかしいとは思わなかったか? 復讐相手である星炭流呪術の手がかりを求めて、雪岡の所へ行ったら丁度、雪岡と星炭流呪術の奴等がドンパチしていた。しかもその直前に雪岡に助けられたという記憶が戻った。出来すぎていると思わないか?」


 言われてみて、確かに都合がよすぎると杏は思った。そういえば雪岡純子と懇意にしている情報組織『凍結の太陽』が、芥機関へ行くように勧めた事も、仕組まれていたような気もしないでもない。


「加えて、彼女のあの人間離れした動きと戦闘力。あれは、明らかに人間の身体能力を超えている。長い付き合いだって言うのに、気付かなかったのか? 人間の体の構造では明らかに不可能な動き方をしていた。そういう風に改造されているんだろう」


 特に回転撃ちのことを思い出して、真は言う。それでも自分も試してみようなどと思っているが。


「というかさ、普通の人にはわからないんじゃないかな。君だからわかったのであって……」


 杏の言葉に、真は何か考えるかのように少し間を置いた。


「そうか。僕はマウスを見慣れているし、奴等とも対等にやりあえるからな。他の者には細かい違いが分かり辛いのか。まあ、僕も最初は気づかなかったが」

「どうして雪岡純子は麗魅にそんな改造を施したの?」

「あいつは人間を進化させる研究に熱をあげている。あいつが改造したマウスは世界中にいる。自分が実験動物の自覚も無い者も含めてね。何かあって人手が必要な際、雪岡はそれらのマウスのストックを動かすんだ。僕があいつの所で働くようになる以前はおそらく、それら放し飼いの状態のマウスのみを使って、敵対する者を始末していたはずだ」


 言われて杏は思い出した。確かに自分が堕ちてきたときに、雪岡純子の殺人人形という者はいなかった。四年くらい前からだ。雪岡純子の殺人人形――相沢真の名がこの世界で広がったのは。


「記憶もうまい具合に操作して、邪魔者が現れたら仕向けるようにされている者もいる。そうしたマウス達が、世界中にストックされているらしい。敵を作って駒としてストックしているのと同様にな。とは言っても雪岡の行動範囲は主に日本国内だが。樋口は、雪岡が将来に星炭流呪術と敵対することを見越したうえで、肉体を強化して、記憶や感情をある程度操作していたんだろう。肝心の記憶を消して――いや、封じて、同時に星炭への憎悪は持続させた」

「そんな……」


 この事実をどう受け止めたらいいのか、うまく頭が回らなかった。最も身近で、尊敬していて、親友だと思っていた麗魅が、実は雪岡純子の実験ネズミ。

 その強さも、復讐心も、人生すらも、雪岡純子の創り物だったなどとは、まるで出来の悪い三文SF小説だ。


「この話を本人にするかどうかはあんたに任せるよ。でも、あんたにだけは話しておいた方がいいと思ってな」


 先ほどとは別の意味で動揺している杏の背を優しく撫でながら、真は虚空を見上げながらいつもの淡々とした口調でそう告げた。


「それはそうと、いいのか?」

「ここにいたら無理矢理犯されちゃうんでしょ? 怪我人を放っておくこともできないし、今夜は一緒にいるつもりだし、それに……」


 少しの間言葉を切ってから、ためらいがちに杏は言った。


「こういうこと、一生縁が無いと思ってたから……その……貴方ならいいと思ったし……」


 必死の告白。これ以上うわついた台詞は自分に無理だ、と頭の中で吐き捨て、杏は真の顔色を伺う。


「初めてなのか……だとしたら余計に僕なんかでいいのかとも思ってしまうが」

「ううん、初めてではないかな……普通にした事は無いけれどね。裏通りに堕ちて一年経ったくらいの時、調子こいてドジ踏んで捕まって、マワされちゃってね」

「そうか……」


 何でこんな事までこんな時に言ってしまうのかと、杏は不思議に思った。同情をひきたかったわけではない。ただ、自分が心を許した相手にだけは、知ってほしかった。


「自惚れて舞い上がってたから自業自得だし、本来ならあの後、殺されてるか売り飛ばされてるかだったろうけれど、麗魅に助けられてね。麗魅とはその時からの付き合いよ。命があっただけでもめっけものだし」

「そんな話聞いたら、余計に僕みたいな者に……」

「私がいいって言ってるんだから、貴方が嫌でなければいいでしょっ」


 苛立ちを覚え、杏は叱責するかのように語気を強める。


「私にしてみたらこれが、人生で初めての精一杯の告白なんだからさっ、そこの所考えてほしいわ」

「何と言うか、会って日も浅いし、修羅場をくぐった前後に一時的にそういう感情が芽生えるっていう、ありがちなパターンかもしれないぞ。それでもいいのかな」

「そうでは無いと思うし、別にそれでもいい……。それとも私では不満?」

「いいや、不満ではない」


 真の手が動き、下になった姿勢のまま、杏の上着を馴れた手つきで脱がしていく。

 仰向けに寝たまま、杏の服を脱がしつつ同時に自分の服も器用に脱ぐ真に、杏は呆れてしまった。見かけによらず相当に手馴れている。


「傷痕無いのね。私なんか、かなりあちこち残ってるのに」

「この世界じゃ勲章みたいなもんだから、残っていた方が格好いいと思うけれどね。どんなケガでも雪岡が全く痕を残さず直してくれる。余計なありがた迷惑だ」

「それ冗談のつもり? それとものろけか何か?」

「別にあいつとはそういう関係では無いから」


 むっとした声を出す杏の上体を引き寄せ、そっと唇を寄せる。杏もそれに逆らわない。


 覚悟はしていたが、やはり予想通り最悪の記憶がフラッシュバックしだした。

 今でもたまに夢に見て思い出す、絶えず浴びせられた薄汚い男達の下卑た笑い声、罵り、嘲り。そしておぞましい感触。それを思い出すのを避けたくて、異性と深い仲になる事も、できるだけ避けていたという部分もある。


 しかしそんな杏の記憶を消し飛ばす程、真は巧みだった。

 苦痛と恥辱だけしか無かった記憶のそれとは全く異なる感覚に、自分がいとも簡単に溺れていく事を不思議に思う。自分の身体を欲望のはけ口にしているのは、あの男達も真も同じなのに、何もかもが違いすぎる。


 魂をヤスリで削られるかのようだった過去。

 温かくくるまれる現在。

 同じ事をされているはずなのに違いすぎる感触。何よりも確かな愛情が感じられた。


 人の肌と肉の温もりなど、タスマニアデビルで寄り添ってくる累を除けば、一生無縁だとも思っていた。人生どこでどう転ぶかわからないものだと、場違いな考えが脳裏によぎる。

 しかしそんな考えも、真より与えられる感触によってすぐに吹き飛ばされ、自分が愛でられている悦びに陶酔する。


 性欲のはけ口にすると前もって宣言していた割には、真は優しい。戦う時は荒々しい獣が、雌を愛でる時はこのうえなく優しくなる――そんなヴィジョンを思い浮かべ、自分でも気がつかないうちに真の背に手を回し、ありったけの力を込めてしがみついていた。

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