第三章 17

 杏が昨夜のうちにネットで星炭の情報を流し、彼等に雇われた者の末路がどうなるかを全てばらしたところ、翌朝にはちゃんと反響があった。警戒を呼びかける声が各所で上がっている。

 星炭はこれで兵の補充が困難になったはずだ。この告発により、杏の情報屋としての株も同時に上がった。


 杏にとって最も心地よい瞬間だった。己の目で誰よりも早く真実を確認し、己の手により真実を世に放ち、世界を動かす――これこそ何をも凌駕する至高の快楽だった。さらに今回のように評価されて認められれば、言うことは無い。情報は杏にとって獲物であり得物でもある。

 この世界は面白すぎる。それに比べて、裏社会に堕ちる前の平穏かつ人畜無害の世界ときたら……。


『普通それくらいのことできるでしょう?』『みんなはちゃんとやってるんだから、あなたもちゃんとやりなさい!』『それが常識だ!』『それが普通です』『どうして皆にあわせられないの?』『おかしいよ』『異常だよ』『変わった考えだね』


 数々の声が脳裏に蘇ってくる。それら全てが自分を否定する声。

 杏の中では拭えぬ屈辱の記憶であった。何のために生きているかわからない蟻と変わらない連中が、普通という名の価値観を至上として杏を見下してくる。

 それらは杏にしてみれば悪以外の何物でもなかった。それらと協調できない自分。そんな自分を蔑み罵る、羊の群れ。

 自分はそうはなりたくない。何かを掴みたい。人の知らない何かに一番早く辿り着きたい。そしてそれを自分が見つけたものとして、人に知らせたい。それこそが杏の求める刺激であり、幸福だった。


 その幸福を求めて、杏は裏の世界へと飛び込んだ。世間一般では、表通りから裏通りへと生きる場所を変える事を「堕ちた」と表現されるが、杏はこの表現自体に矛盾を感じつつも気に入っていた。


 情報収集を行っていた杏であったが、明らかにホテルの中からと思われる銃声を耳にし、険しい顔つきになって、空中に無数に投影していたディスプレイを閉じた。

 中枢より中立区域と指定されている場所で銃声――信じられない話だ。裏通りにおける絶対のタブーが破られている。

 だが、杏はそれを異常事態とも思わなかった。すぐに自分達の大きな見落としに気がついたのだ。


(あいつらは別に裏通りの住人というわけではない。うちらのルールに従う義務は無いし、そもそも裏通りでは当然のルールを知らないかも)


 表通りから見たら、どちらも社会の闇の住人に見えるが、厳密には異なる領域にいる。

 裏通りはこの国の産業と秩序の枠組みの中に入る存在だ。裏通りの住人になることは、この国の闇を管理する、中枢と呼ばれる絶大な力をもった組織の管理下におかれる事でもある。

 国の法律に従わずとも、中枢の取り決めたルールには従う必要がある。そのうえで彼等は様々な闇の特権を受け、裏の社会の一員として生きていける。


 しかし星炭流呪術の一族は、それには属さない。ややこしいが、彼等は公認された裏社会とはまた別個の存在なのだ。よって、こちらのルールなどお構いなしというわけだ。


(三人も雁首そろえて、誰一人そんなことにも気付かないなんて、間抜けな話ね)


 口の中で悪態をつきつつ、銃を取り出し、コンセントを服用し、素早く着衣し、サングラスをかける。ただの衣類ならば、羞恥心など捨ててそのままでいるが、防弾防刃仕様なので無視はできない。


 銃声が遠い所から聞こえてくるということから、交戦しているのは真だということが察せられる。麗魅はすぐ向かいの部屋だ。

 耳を澄ませる。扉の開く音がした。おそらく麗魅が飛び出たのだろう。

 安心して杏も扉を開けた。果たして、麗魅の姿がそこにあった。苦笑いを杏に向けている。


「裏の住人の泊り客の多いホテルだけれどさ、こいつはあたしらの客だよな? 間違い無く」


 肩をすくめ、おどけたような口ぶりで麗魅。その手にはもちろん銃が握られている。


「それ以外考えられないわ。私達の敵は、裏通りの者ではないから」

「なはは。やっぱ、そーかー。ここでドンパチしちまったら、あたしらもお咎め受けやしないかな」

「私がその辺はうまく釈明しとく。昨夜のうちに星炭の呪術師連中の件はネットで流してあるし、たとえそうでなくても、自衛ってことで言い訳は立つしね」

「そっか、なら遠慮無く暴れさせてもらうから、そっちは頼んだぜ。いくらあたしでも、中枢様にまでは目ェつけられたくないからな」


 苦笑を不敵な笑みへと変え、麗魅は瞳を動かした。その視線の先には、虚ろな目に殺気だけを宿した男達が数人、二人に向かって銃を向けているところだった。


 銃声が交錯する。杏は廊下の床に倒れこむようにして伏せながら、引き金を引く。

 当たる面積を最小にしようという試み。体のかなり近くを銃弾が飛んでいくのを、コンセントで研ぎ澄まされた感覚がきっちりと捕らえた。反応が少しでも遅ければ危なかった。

 敵は星炭の術で常人を越える力を与えられた者だ。悔しいが自分ではとても対処しきれない。しかし戦い方はいつもと変わらない。麗魅が前面に立つ形で敵を引きつけ、杏はいつものようにパックアップに徹する。


 麗魅の反応は杏より遅かった。否、傍目からは遅かったように見えた。そんなはずは無い。杏より先に敵の存在に気付いていたのだから。

 杏が動いても麗魅は動いたように見えなかっただけだ。実際には、極小の動きで弾道を見切って、弾丸をかわしている。たとえコンセントの力を用いたとしても、かなり人間離れした芸当だ。


 自由意志を失い殺人マシーンとなった者達へ、悠然たる動作で麗魅は銃を撃つ。大きな動きを見せず、ただ体をゆらゆらと揺すっているだけのような動作で、自分に向かって放たれた銃弾の全てをかわしながら、何度も引き金を引く。

 引き金が引かれる度に、床に肉の塊が転がっていく。

 敵の数は多いようだが、廊下という空間なので、一度に交戦できる数はしれているし、動きも制限される。だからこそ麗魅はリスクを覚悟のうえで、最低限の動きで敵の攻撃を回避しつつ、確実に一人ずつ倒していっている。

 もちろん杏の援護もちゃんと役に立っている。杏の銃撃も敵は無視できない分、意識は分散される。


「昨夜よりは楽だったかなあ」

 死体の山となった廊下を見渡し、麗魅は呟く。


「他の客も援護に来てくれるかなーと思ったが、出てきてくれないな」

「当たり前じゃない。中立区域で心当たりも無い揉め事なんかに巻き込まれて、中枢に目つけられたい奴なんていないでしょ」

「そっか。んじゃ、あの坊やの手助けに行きますかね」


 駆け出す麗魅の後を、やや遅れ気味についていく杏。すでに銃声は途絶えている。真の方も片付いたと思われる。

 果たして、真の部屋の前にも襲撃者達が重なるようにして倒れていた。扉は開いたまま。血塗られ、動きの止まった超音波振動鋼線の存在もはっきりと見てとれた。


「なはははは、あっちも朝から元気がいいようで」


 杏の方を振り返り、肩をすくめて笑って見せる麗魅。


「ぐっもーにんっ、真……」


 部屋の中を覗き込み、明るい声で挨拶しようとした麗魅だったが、室内の光景を見て、その声が尻すぼみになった。

 血と死体にまみれた部屋で、下着姿の女性と抱きあって口づけを交わす真。

 杏もそれを見て硬直した。


「えーっと、ごゆっくり……」


 麗魅はきまり悪そうに踵を返す。杏も同様に真達に背を向ける。

 自分の顔が嫉妬に歪んでいるのを麗魅に見られたくなかったので、杏はうつむいたまま、麗魅の後を追った。


***


「……ええ、ですから他のサンプルの回収は、自分だけでは無理だと思うのです」


 携帯電話を手にし、中村國男は苦笑を浮かべながら、敬語で通話していた。


「もちろん最低でも一体は持ち帰りますよ。そのために自分達は芥機関に潜入したのですから。生き残ったのは先程も申した通り、自分だけです。ええ、もちろん自分が雪岡純子の改造手術を受けたのですよ。だからこそこうして生きている。他に潜入した者はおそらく全て死んだはずです。何でも芥機関に恨みを持つ者達の仕業だとか。いや、雪岡純子の戯言などでは断じてありませんよ。自分もこうして現在襲われていますし、隙を見て逃げ出す事も叶わないのですからね」


 電話向こうの相手は、皮肉めいた口調で経過を語る國男に苛立っていたようだが、國男はそ

んな相手の反応を楽しむかのように、ますます人を食ったような口調へと変わる。


「妊婦にキチンシンクが気付いているのなら、とっくに自分は殺されているはずではないですか? そりゃ奴等への見世物になっている事は我々の組織にとっては、面白くないでしょうが、この状況でどうしろと? あまりいろいろと注文つけずにお任せ願えませんかね? 気に食わないなら自分の代わりにこの任務をやってくださいよ。無能な自分なんぞより、ずっといい成果出せるんでは?」


 とうとう最後の方では、あからさまに侮蔑と嘲笑を交えていた。

 電話を切る。鞄の底にあるちょっと目には全くわからない隠しファスナーを開け、その中に、指先携帯電話を入れて隠す。


「机の上に向かっている連中は、口先だけで指示していればいいから楽でいいよな。こちとら命がけで動いているってのによ。実際俺以外は皆おっ死んじまったってのに」


 自虐的な笑みが浮かぶ。


「國男君、作戦タイムだよー」


 ノックと共に純子の声がかかる。國男の顔から一瞬笑みが消える。


「まるでこっちの電話が終わるのを、待っていたかのようなタイミングだな」


 苦笑しつつ小声で呟く。何もかもお見通しの上で、踊らされているのかもしれないのかもしれない、という不安を押し殺しつつ、國男は部屋の扉を開いた。


***


 星炭の雇った兵は全て殺された。


「御存知の通り、兵士や殺し屋の補充をさせないように、奴等に情報を流されています。『肉の駒』はここまでですね」


 真鍋が空中のディスプレイに向かったまま、後ろにいる昌子に告げる。


「皮肉なことですわ。彼等は我々の手勢を減らしたと思い込んでいるでしょうが、実際には全然減っていませんのに」


 渦状に黒いカーテンが張り巡らされている部屋の中央で、昌子が瞑目したまま口元に微笑を浮かべる。


「『安楽大将の森』にて準備は整っています。あとはうまいこと情報を流して、彼等をここにおびき寄せる手筈ですが、問題は彼等がうまくのってくれるかどうか、ですね」


 続けて告げた真鍋の言葉に、昌子の微笑が消えた。


「もし雪岡にせよ相沢にせよ、来なければ全くの無意味ではないですか?」


 自分より目上の人間に、厳しい口調で問う昌子。


「小池さんは相沢の方が来るであろうという目測を立てておりました。こちらを狙って動いているのが相沢であると仮定すれば、必ず来ると。けれどもあからさまに罠と感じてなお来るかどうか、疑わしい部分もあるのは事実です。それは前もって考えておかなければなりません」

「それを何とかするのが真鍋さんの役割でしょう!?」


 責める口調でついつい声を荒げてしまう。

 憎き敵を確実に調伏できる準備が整っているにも関わらず、相手を誘き寄せられるかどうかわからないなどと、そんな弱気な発言を今更になってされる事が、昌子には許せなかった。


 お飾りの指揮官である自分を立ててくれて、実際の作戦立案の全てを担っている人間に対して、こんな態度を見せるべきではないという最低限の礼節さえも、彼女の頭の中から消えてしまっている。

 自分が指揮官として、星炭のため、愛する亜由美のために、怨敵雪岡純子を調伏するのだという意識だけが彼女の頭の中を支配し、他の事が考えられなくなっている状態にあった。


 自分、自分、自分。全て自分の力で取り仕切っていると思い込んで疑っていない。そして輝かしい勝利を、主である亜由美に捧げ、喜んでいただく。そして一層亜由美に愛される。そして一生愛していただく。

 そして星炭の歴史に、永遠に自分と亜由美の名を刻む。一族の祭事とも言うべき戦の指揮官の役を承ってから、昌子の妄想は日に日に加速している。一人で頭の中で踊っている。己も見えなくなりつつあり、正常な判断も下せなくなりつつある。


 そんな昌子だからこそ、お飾りの指揮官としてはうってつけであるとして、真鍋は指揮官としての役目に、昌子を推薦したのだ。

 星炭流呪術の当主に直接仕える家系に生まれ、隔絶された世界で小学校すら通わされず、星炭のためだけに育て上げられた世間知らずなこの少女は、利用するにはうってつけだ。そんな真鍋の意図に、昌子や亜由美はもちろんのこと、小池ですら気付いていない。


「相沢真を狙うと言ったのも真鍋さんでしょう!? 何としてでも誘き出さないと!」

「下っ端の術師だけに任せるのではなく、私と江川さんも現地に赴くのがよろしいでしょう」

「え?」


 冷静な口調で、しかし脈絡の無い真鍋の言葉に、昌子はきょとんした顔になる。


「こちらの指揮を取っているのが江川さんであるという情報をあえて流し、なおかつ現地にもその姿を見せておけば、さらに情報の信憑性が高まります。そうすれば必ず彼等は、我々が罠を張って待ち受けている場所に来るはずです」

「私を餌にすると?」


(流石に愚鈍な貴女もそれには気付くか)


 強張った表情で漏らした昌子の言葉に、真鍋は笑いがこみあげるのを必死でこらえながら、声に出さずに呟いた。


「指揮官は安全圏にいるべきです。けれども時として、こういう手も有りかと。まあ……最終的な決断を下すのは江川さん、貴女です」

「いいでしょう。その作戦でいきましょう」


 決意を秘めた視線を真鍋に浴びせ、昌子は自らが囮となることを承諾する。


「夜に現れると情報を流しておきます」


 霊を扱う術が最大限に力を発揮するのは、夜間である。夜の闇は人間を潜在的な恐怖を刺激し、霊が憑依しやすくなるからだ。


「確実に仕留めますよ。今度こそ」


 迫力ある声で昌子が告げ、真鍋も恭しく頭を垂れてそれに応じた。頭を垂れて、己の表情が昌子から見えなくなった所で、真鍋は堪えきれずに、歪んだ笑みをひろげていた。


***


 日も傾きかけているというにも関わらず、純子は動こうとはしなかった。

 昨夜以降、星炭の襲撃は無い。美穂達はホテルの中で緊張したまま襲撃に備えている。


 純子はしばらくそのまま休んでいるようにと告げたまま、自室にて、一人で一日中ネットを覗いている。

 星炭関連の情報をチェックする傍ら、普通にブログ巡りや掲示板などを見てまわって暇を潰していたが、夕方になって星炭の新たな情報が挙がったのを見て、携帯電話を手に取り、メールをうつ。


「スパイさん、お返事ちょうだい、と」


 メールの文の最後だけ、声に出す。

 相手から、すぐに返事が返ってきた。純子の予想していた通りの答えが。


「んー、やっぱ安楽大将の森は罠ねー」


 小さく微笑み、真の事を思う。


「真君と麗魅ちゃんは行くだろうねー。どんな戦いになるかちょっと見物してみたい気もするけれど、それも難しいか。こっちにも美穂ちゃん達がいるし。残念無念。おかげでこっちはドンパチ無しで、一日休めるって感じかなあ……ふぁあぁぁあ」


 大きな欠伸をして、空中に投影したディスプレイ閉じ、純子はベッドにうつ伏せに寝転がった。昨夜から一睡もしていないので、そのまますぐに眠りについた。

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