第三章 1

 雲塚杏にとって、平凡な日常は苦痛でしかなかった。その苦痛は十六歳の時にピークに達し、裏通りへと堕ちることで彼女は救われた。そこには彼女の同属が多くいた。

 常に命の危険と隣り合わせだが、ここなら己の魂で詩を綴る事ができる。


 杏はより多くの刺激を求めた。事件を求めた。

 出会いを求め、何より真実を求め、フリーの情報屋という道を選んだ。

 人が知りえない真実に誰よりも早く近づき、それを見て感じて知る事こそ、杏の最大の悦びとなった。しかもそれには多大な価値がつき、杏へ収入と評価をもたらす。これほどの天職はないと杏は思う。


 杏は己の仕事を三種類に大別している。目と足を使う仕事。目と口と耳と頭と顔を使う仕事。そして腕を使う仕事。

 調査依頼などがあって、自ら様々な場所に足を運ぶことが、目と足を使う仕事だが、しかしこれだけではない。積極的に危険な場所へと赴き、誰もが知りえない情報を日々ストックする。少しでも興味のわいた事や、裏のありそうな事件には首を突っ込む。また、買い取った情報の確証を得に行く行為も、これに含まれる。

 裏通りの知己や他の情報屋から情報を買い取る、もしくは情報交換や無償で教えてもらう。ネットで情報を仕入れるのが、目と口と耳と頭と顔を使う仕事。

 最後に腕を使う仕事は、これは必要に迫られた時の荒事だ。杏の苦手な分野である。


 現在、雲塚杏は二十三歳。この世界に入って七年。ベテランの域に入るであろう。命を落としかけるような目にも何度かあったが、それでも今こうして生きているし、情報屋としての評判もそれなりに良い。


 冬のある日、杏は安楽市の地下住宅街の一室にて、ネットで情報を漁っていた。

 最安値の家賃と思われる狭苦しい一室だ。壁のコンクリートの破損もひどい。殺風景で内装など全く気にかけておらず、生活と仕事に必要な最低限なものだけを揃えた部屋である。

 杏はこのような部屋を幾つか借りて、それらを転々としながら日々を送っている。滅多に無い事だが、所在が知られた住処は、即座に引き払っている。


 服装は機動性に最大限の気を遣っている。常に防弾繊維を編みこんだスーツ姿。下は常に動きやすいスラックスであり、スカートの類は決してはくことはない。パンプスもはかない。スーツにスニーカーという組み合わせが、七年間デフォになってしまっている。

 無駄な時間をかけたくないため、化粧も手早く終わらせる。

 唯一の外面上の変化の楽しみといったら、サングラスくらいだ。二百以上のサングラスを収集し、毎日違うものをかけている。


 メールボックスを覗くと、懇意にしているフリーの情報屋や情報組織の幾つかから、情報の取引を求めるメールがいくつも入っている。それら以外からの依頼も当然ある。

 その中に、最も馴染みの深い名があったので、真っ先にそれをクリックする。

 メールを開くと日時と場所だけが書かれていた。直接交渉の時間と場所を記している。

 メールの差出人には携帯電話の番号も教えてあるのだから、そちらを使ってもらってもいいのにと杏は思うが、相手にもいろいろ思うところがあり、それをしない主義なのだろう。杏が住処を定めずに転々とする事や、服装に機動性のみ求めるのと同じことだ。用心、警戒、合理性、この世界の住人なりの独自にそれぞれの考えと信条がある。


「たとえそれが、最も親しい私相手でもね」


 杏が声に出して呟く。日時は今日の夜七時を指していた。落ちあう先は、この街の裏家業の者にとってほぼ確実に安全が保障される場所。


***


 白い空間。

 全てが白で出来た世界。壁も天井も床も机も椅子もベッドも調度品も、御丁寧なことに食器までも。そこに収容された住人に与えられる衣類も。

 そこは収容される者と管理する者に別れている場所だった。しかし牢獄ではない。そこに入れられた者は、ある目的のために使われていた。


 橋本美穂がここに来たのは、十七歳になったばかりの事だ。

 この場所に来てからどれだけの時間が過ぎているのか、正確にはわからない。時計すら無い場所だ。就寝時刻も特に決まってない。呼び出しがあればいきなり起こされる。食事で何となく昼夜がわかる程度だ。だがおそらく三ヶ月以上は過ぎただろうと、美穂は考えている。


 芥機関――それがここの名称だ。政府お抱えの越常能力者育成施設。もちろん秘密施設であり、その存在を知る者は裏通りの住人ですら稀有だ。


 美穂は今時珍しい大家族の、十二人兄弟の長女だった。

 飲んだくれでろくでなしの父親が、仕事もろくにせず無計画に子作りに励んだ結果がこれ。父親は暴力を振ったり喚き散らしたりするような事は無かったが、何を考えているのかさっぱりわからない人物で、ただひたすら酒を飲み、子供の見ている前でも妻と営みを求めようとする、本能だけで生きているような男だった。

 母親もまたおかしな人間で、そんな父を全く批難することなく溺愛していた。そして親戚中に借金をこさえながら生活していた。


 生まれたばかりの十三番目の子供と共に母親が交通事故で死んだ時には、借金まみれでもはや一家心中しか有り得ないと思われたが、美穂はネット上でどん詰まりの人間が集うサイトを見つけ、そこの紹介で芥機関へと行き着いたのである。

 美穂が芥機関に入ることで、一家全員三十年くらいは遊んで暮らせそうな、莫大な額の金を得た。一家はそれで安泰だった。

 だが家族が救われた一方で、美穂はこの白い世界で、辛い日々を送っていた。


 美穂を含めこの施設に来た者は、超常の能力の覚醒のための治験という名目の元、皆モルモットのような扱いを受けている。

 様々な怪しい薬品を投与されてはその副作用に苦しみ、重力の強い部屋での生活を試し、水分をほぼ与えられない生活を強いられる等、過酷な日々を送っていた。

 中でも一番堪えるのは、電磁波を用いて脳に直接幻覚を見せて、仮想世界にバーチャルトリップさせるヘッドギアの形状の装置――ドリームバンドを装着して、疑似拷問体験をする事だ。


 契約した年数が過ぎるまでの辛抱だと、美穂は日々を耐え忍んでいた。家族が救われる代償なのだから仕方がない。

 周囲には発狂する人間が続出していたし、自殺する者までいたが、それを見て美穂は尚更、己の意思を強くもった。負けたくない。どんな目に遭おうと自分は生き延びてやると。


 元々の負けん気の強さだけではなく、美穂には二つの希望を抱かせる要因があった。

 一つは、この施設の趣旨通り、美穂が超常の力に目覚めたことである。しかもかなりの勢いでその力は強さを増している。

 もう一つは、待遇の変化だ。それまでは実験動物のような扱いで、苦痛に満ちた思いばかりしてきたのだが、美穂を担当する管理者が変わってから、美穂の扱いは人間らしいそれになった。拷問じみた過酷な実験を強いられることもなければ、副作用に苦しむ薬品も投与されずに済んだ。薬品そのものは投与されていたが、それまでのような苦痛は無くなった。


 美穂と同じように、その管理担当についた他の被験者二名もまた、人間らしい待遇を保障され、美穂とひとまとめのグループとして、その担当の元で扱われた。全員、その人物が担当するようになった途端に、超常の能力が開花した。美穂達はこの担当者に、少なからぬ好意と信頼の念を寄せている。

 その担当は、見た目は美穂よりも年下の少女だった。活動的な服装の上に、裾の長い白衣をまとった姿でいつも美穂達の前に現れ、朗らかな態度で四人に接した。


 その日、現れた彼女は、無数の黒い菱マークで蛇の頭が描かれたTシャツと、デニムの短パンという出で立ちだった。


「おいすー。皆、体調はどうー?」


 たむろしている美穂ら三人に挨拶する。いつも通りの白衣姿。いつも通りの屈託のない笑み。その少女が現れるだけで、美穂達は安堵感に包まれる。


「すこぶるいいよ」


 人懐っこそうな顔の小太りな体型の少年が、満面に笑みを広げて答える。名は金町武郎(かねまちたけろう)。歳は十八歳。


「実験動物にされてるわりにゃー元気だね。それがかえって不気味だけどなー」


 皮肉げに笑ってそう言ったのは、武郎とは対照的な痩身の男、中村國男(なかむらくにお)だった。年齢は不明だが、他の二人が十代なのに対し、彼の外見は明らかに二十半ばを過ぎている。


「明日になったら、皆の見ている前でボーンて頭破裂してくたばっちまうかもだからさー、どんなに元気でも気が休まりませんよっと」

「んー、そりゃ皆の頭の中に小型爆弾仕込んであるからね、私に逆らったりしたらボーンといっちゃうよー」


 赤い瞳の少女――雪岡純子が、屈託の無い微笑みを浮かべたままそう返す。もちろん冗談だということはわかっている。いや、皆それが冗談だと信じて疑っていなかった。

 待遇の変化一つで疑いなくこの担当を信じたわけではない。もう一つ信ずるに足る理由がある。


「さてと、今日はちと大事な話があるんだー」


 純子が白衣をひるがえして席につき、屈託のない笑顔のまま言う。


「ここを逃げ出す計画を、実行に移す準備が整ったよー」


 少女は軽い口調で笑顔のままだったが、三人は真剣な顔つきになった。


「私が報告している以上に、君達が特別に強い力を覚醒させている事に、芥機関の人達も当然気づいているよ。何しろ裏通りでも超有名なマッドサイエンティストな私が、ここに来て君達に処置を施してるんだからねー。どうしても注目浴びちゃうしさ」


 裏社会の事など何も知らない一般人の美穂からしてみれば、純子がどれだけ有名かなど知らなかったし、いまいちぴんとこない。純子のサイトさえも見た事が無かった。

 ただ、芥機関のどの科学者よりも優秀であることだけはわかる。この少女が担当になってからと、それ以前を比べればわかった。また他の科学者が、嫉妬や羨望や畏怖の視線を純子に向けていた事からも、それが伺えた。


「そろそろ聞かせてほしいな、純子」

 武朗が真顔で尋ねた。


「君はどうして僕達を助けてくれるんだ? 政府を敵に回すようなことをしてまで。そもそもこの芥機関を創ったのが、純子だって話じゃないか」


 それは美穂も不思議だった。何かしら目的があって助けてくれることはわかる。わざわざこんな場所に来て、見ず知らずの自分達を助けるような真似などしないだろう。しかし今までそれを教えてくれなかったし、そんな状態でも何故か信頼しきって――

 ふと美穂は別な疑問を抱く。いくら待遇が変化したとはいえ、それだけの理由でどうしてこの少女をそこまで信頼するのだろう? 相手の目的もわからないのに、そこまで信じる理由は無いではないかという、当然の疑問が脳裏によぎったのである。

 しかしその疑問は次の瞬間には消えていた。いや、疑問を覚えた記憶自体が消えていた。そして美穂の頭には、ただただ純子に対する親しみと信頼の念だけで満たされた。


「んー、そうだねー。それを話すのを忘れてたねー」

「そいつを先に教えてくれなきゃ信用できないだろ」


 からかうように國男。

 そうだ、確かに信用できないと再び美穂は思ったが、すぐにまたその疑問は消え、疑問に思ったという記憶さえ無くなる。


「単純に私の研究対象として一番適正があったのが君達だから、君達を選んだんだけれどね。私は元々この芥機関の創設者なんだけど、自分の研究に没頭したくてここ辞めちゃってねー。いきなり責任放棄したって事で、私の後にここの所長の座に就いた人――今の所長さんとは仲が悪くてさー。今回、ここの施設が必要になって使わせてもらったんだけど、私の研究成果を無条件で受け渡すように言ってきたんだよー」

「研究成果――僕達のことだね」


 武郎が苦笑して美穂と國男に視線を送った。


「向こうからしたら、勝手に役割放棄して、都合のいい時に勝手にやってきて、創設者の特権振りかざして、研究設備と被験者を使ったあげく、いい成果あげたわけだから、気にいらないんだろーねー。私は別に彼等のために君達の能力を引き出したわけではないんだけど、ここは国家の施設なんだから、ただの純粋な研究欲でそれを利用したからには、国へ引き渡すのが道理だとか言われちゃってねー」


 笑いながら言う純子だったが、聞いていて美穂は気分が悪くなってきた。自分達が実験台であることは諦めているが、拷問そのものの日々を思い出すと、そんな連中のために働きたくなど無いというのが本音だ。

 純子の管轄化に置かれてからは扱いが一変し、かつ優れた力にも目覚めたので、純子のためになら喜んで手助けをしてもいい、という気持ちにはなれるが。


「そりゃ向こうから見れば、純子も都合いい事しているんだろーけど、ここの連中の言うことだって都合いいじゃない。純子が私達を上手に作ったから、その手柄を丸々よこせと言ってるんでしょ?」

「手柄を横取りってのは、ニュアンスがちょっと違うんだけれどねー。まあ私はそうなるのはわかっていたから、報告も誤魔化していたんだけれど、流石にバレちゃってるみたいでさー」


 憤慨気味な美穂に、純子は笑顔を崩さず答える。


「まあ、私としたらそれは困ることだしね。ここで行われてるような非人道的なやり方でなくても、眠れる能力の開花はできるという証明のため――っていうニュアンスもあったんだから、研究データは譲渡してもいいけれど、それ以上は私にだって目的があるんだしさあ。てなわけでー、そうした私の都合のためにも、君達にはここから逃げてもらいたいんだよねー」

「自分の都合をはっきりと言ってもらった方が、返って信じられるな」


 純子の話を聞いて、國男が不敵な笑みを浮かべて言った。


「自称マッドサイエンティストが、慈善事業だけで人助けをするはずもなかろうしな」

「そういうことだねー。まあ、納得してくれたかな? 皆」


 三人を見渡す純子。異論を口にする者はいなかった。


「ていうか、納得するもしないも、選択肢は一つしか無いんじゃないか?」

 國男が微笑みながら言う。


「契約年数が過ぎる前に出してくれるってんなら、たとえ悪魔の誘惑だろうと喜んで飛びつきたくなるわ。そもそも契約年数に達して、無事に出してもらえるかどうかだって、怪しいしな」


 國男が口にした言葉は、ここにいる者の多くが抱いている疑問だった。ここでの実験の数々はあまりにも常軌を逸しているし、外に情報が漏れるのを防ぐために口封じをされるのではないかと、そんな噂が被験者達の間で流れていたのだ。


「じゃあそういうわけでー。決行する時が来たらすぐわかるようにしておくから、その時はスムーズに動いてねー。んじゃ、またー」


 バイバイと手を振って、純子は立ち去ろうとする。

 その後を國男だけが追っていくのを、訝しげに美穂が見る。

 廊下までいくと、制服姿の一人の少年が純子を出迎えた。見た目の年齢は純子と同じか少し下くらいで、背は純子より低い。しかしその容姿は白皙の美少年と呼んでもいいほど、非常に端整なものであった。


「んー? どうかしたの? 國男君」


 一緒についてきた國男の方を振り返る純子。


「いや、その子いつも一緒に来てっから、誰かなーと思ってさ」


 國男の言葉に美穂と武郎も立ち上がり、純子らのいる方へといく。

 純子にいつも同伴者がいるのは知っていたが、この少年が何者であるかは知らなかったため、好奇心で近づいてきた。


「弟さんかな?」

 武郎が言う。


「冗談はやめろ。何で僕がこいつの弟なんだ」


 武郎の言葉に、少年は全くの無表情のまま、しかし心なしか憮然とした響きの声で言った。


「じゃ、彼氏?」

「尚更悪い冗談だ」


 抑揚に乏しい声で言うと、少年は踵を返し、さっさと廊下を歩いて行ってしまう。何か機嫌を損なう事を、自分が言ったのだろうかと訝る武郎。


「あはは、すまんこー。あの子ってば、ああ見えてわりと照れ屋さんだからさー。まあ気にしないでー。んじゃねー」


 少年の後を追うように純子が今度こそその場から立ち去った。


 どういう子なんだろうと、純子との関係を訝ったが、すでに行ってしまったので今は知りようも無い、今度聞いてみようと美穂は思った。


「雪岡純子の殺人人形か。通り名のわりには、言うこと聞くだけのお人形さんって感じはしないな」


 純子達が去った後を見やりながら、國男が口の中で呟いた。

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