《魔法使い》の勧誘事情/南十星編Ⅱ
030_1200 嘘つきは《魔法使い》のはじまりⅠ~晩酌セット一二〇〇円~
兄は五年前からそうだった。
――そのまま行かせろ。
――俺の
――もしも手を出すなら、俺はこの国の敵になる。
空港で、大勢の大人たちに囲まれて尚、まだ中学生だった兄はそう言い放った。
訓練途中に脱走した事を示すように、土に汚れた迷彩服に身を包み、ナンパープレートが六桁という珍しいオートバイに
家族を守るために。
《
粉引き小屋の三男坊のように、彼は身を切って、猫に長靴をはかせ、旅立たせた。
直後に飛行機に乗り、オーストラリアへと飛び立ったため、妹はその後のことは知らない。
そして兄も、そのことを話すはずはない。
しかし妹は知っていた。
親切で策略家の悪魔が、お節介な
妹はそれを聞いて、泣いた。
もう止まって欲しいと。
自分のために辛い思いをして欲しくないと。
だから力が欲しかった。
だから強くなりたかった。
自分を守るために、兄が血を流さなくて済むように。
自分を守ってくれた兄を、守れるように。
だけど足りない。時間が足りない。力が足りない。
妹は無力感で、また泣いた。
彼女にできたのは、無邪気に笑って心配はいらないと、兄を安心させることだけ。
演技で笑い、心の中で泣いていた。
そうして五年が過ぎた。
その気配はあった。彼が《
兄はゆっくりと静かに地に膝を突き、とうとう動けなくなってしまった。
心が折れてしまった。
だから妹は立ち上がった。
充分な力を手に入れたとは言えない。
しかし今を逃せば、一生後悔することになるとわかっているから。
それは悪魔の
危険だとはわかっているが、それは彼女の望むところだったから。
長靴をはいた猫の恩返し。
今度こそ飼い主を幸せにするのだと。
△▼△▼△▼△▼
「なっちゃん、このままでいいんですか?」
「いーよいーよ。わたしが寝る時に運んでおくから」
「……まぁ、それなら、後はつばめ先生にお任せします」
「おやすみー」
頭の上でのやり取りされる少女と女性の声と、遠ざかっていくスリッパの足音に、
「……んにゅ?」
顔を上げると、見覚えはあるが見慣れてはいない、機能的で清潔な室内が目に入った。
見上げる壁のデザインクロックは、日付が変わる直前の時間を示している。
『――重工業神戸造船所で建造を進めてきた、海上自衛隊の潜水艦が完成し、防衛省に引き渡す式典が神戸市で行われました。 この潜水艦は、平成××年から建造が進められていたもので、全長八四メートル、排水量は二九五〇トンあり、『てんりゅう』と名付けられました。防衛省などの関係者およそ三〇〇人が出席して――』
つけっぱなしのテレビが、深夜の地方版ニュースを放送している。
南十星が身じろぎすると、肩にかかっていたらしい毛布が、ずり落ちた。
頭の稼働率が三割ほどなのを自覚しつつ、なぜこんな場所に自分がいるのか考えて。
「およ? ナトセちゃん、起きた?」
「……あー。そっかそっか……」
タンクトップにショートパンツという気軽な格好で、ビールの缶を傾けている
ここはマンションの五階、
「スッキリした?」
「ちょっとは落ち着いたかな……」
義兄である
そして泣いて忘れてしまえとばかりに、つばめの寝酒に付き合わされていたのだった。
ちなみに、酔い潰れたわけではない。そもそもアルコールは一滴も飲んでいない。単純に南十星は九時には寝てしまう生活サイクルだから、夜更かしに耐えられなくなっただけだ。
「こんなところで寝るのもアレだし、じゅりちゃんの部屋で本格的に寝るね……」
「まー、目が覚めたなら、もうちっと付き合いんさい。ナトセちゃんと二人きりで話すことなんて、なかなかないし」
立ち上がりかけた南十星を、つばめは缶ビールを持ったのとは逆の手で、着席を
彼女が言う通り、二人きりで話す機会などまずない。公的には理事長と生徒なので、まず接点はない。部活でも最近は忙しいのか、つばめは顧問として部室に顔を出す日は少ない。
南十星が樹里の部屋で寝泊りしていたから、顔自体は合わせていたが、二人きりにはならない。
「メールではけっこー話してたと思うけどね……」
ため息交じりに南十星は座り直し、樹里が酒の
「メル友としてなら、ナトセちゃんとの付き合いもそこそこ長いけど、転入してからあんま話してないでしょ?」
「ま、ね。いつでも顔を合わせられるし。あたしが知りたかった兄貴のことは、りじちょー通さなくても直接見聞きできるし。話せなくても困らなかったし」
「ちょっと冷たくない?」
「いやほら、オーストラリアで使ってたケータイ、
「わたしのメアド登録は抹消された!?」
「そーゆーわけだから、コミュニティアプリ経由にしない?」
二人の関わりは誰も知らない。彼女たちの交流は、顔を合わせぬままに五年にも及んでいる。
倍半分も歳の違う関わりは、つばめの一方的なものから始まった。SNSなどを通じてではない。叔父から渡されされた南十星の携帯電話に、直接メールが届いたのだった。
当時は見知らぬ相手から届いた英文のメールに、幼い南十星は当然ながら警戒した。しかしそこに書かれていた内容は、彼女にとって重要なものであり、それに対して求められたものは、近況を知らせるだけであったために、月に一度ほどのやり取りを行うようになった。
つばめが日本の学校の理事長だと知るのは、しばらく経ってからだった。そして彼女の学校に、十路が転入することになった時、つばめがコンタクトを取ってきた目的が、
その目的に、南十星もまた巻き込まれていることを理解しているが、彼女にとっても望むべくことであったため、容認している。
「ところでさ。ナトセちゃんとわたしって、キャラかぶってると思うんだよ」
揚げた鶏皮に甘酢の
ショートヘアに収まる顔は、かなりの童顔だ。さすがに半額で電車に乗れるレベルではないが、服を変えて学生証を用意すれば、学割が受けられるレベルではある。
ぽっちゃりとまでは呼べないが、それなりに肉付きがよさそうなため、タヌキ顔とでもいうか、丸顔に垂れがちの目が乗った顔つきには、愛嬌がある。
まだ子供っ気が抜けていない南十星と比較すれば、似た雰囲気はあると言われれば、なんとなくあると言えるかもしれない。
それを確認し、南十星はしみじみと
「
「真っ先にそれ!? なんで支援部のコは
「りじちょーの生き方にケチつける気ないけどさ、あたし的にはみっともなく騒ぐより、イサギヨく独身で生きる人生を選びたいって思う」
「キミの歳じゃまだわかんないと思うけどね? 友達が次々と結婚していってね? 自分が取り残されてる気分になるとね? 独り身の辛さが身に染みるんだよ? 無償に一人寝が寂しい夜があるし、バーで飲んでても男が声かけなければ寂しいオンナの一人酒の図だし、結婚式に出たらブーケトスで気を遣われて取りやすい場所を譲られるし、和服着たら口の悪いコに『あらー、つばめは未婚だからまだ振袖着れるでしょー?』とか言われるし、こちとら好きで独身やってんじゃねぇぞぉぉぉぉっ!!」
高まる不満に魂のシャウトをあげて、つばめは缶ビールをあおり。
「そういう意味じゃなくて」
「ナトセちゃん、けっこー腹黒いよね」
「それ、すっごいシンガイ」
テーブルに出されていたペットボトルをコップに傾けながら、南十星は唇を
「りじちょーは五年前から、兄貴の動向をあたしに知らせてさ、利用しようとしてんでしょ? そんなハラ黒さ、あたし持ってないもん」
南十星はそう言って、長時間冷蔵庫から出されていたせいで、すっかりぬるくなったウーロン茶を喉に落とす。
「なに言ってんだか。ナトセちゃん、わたしを思いっきり利用しようとしてたでしょ?」
「そりゃリガイのイッチってヤツだよ。ギブ・アンド・テイク」
体の小ささを利用して物陰に隠れ、愛嬌ある姿で相手を勘違いさせることはある。
「りじちょーは他のみんなにも、同じようなことしてるでしょ? これから先も、りじちょーの世話になるだろうけど、キホンテキにあたしは自分で動こうと思ってっし」
しかし子虎は、悪魔にはなれない。利用できるものは全て利用する気だが、策略立てて
「キミのワケあり《
そう言いながら、つばめはテレビを指差す。
五五V型の大画面に写る字幕を見て、彼女がなにを言いたいか、なにが起ころうとしているのか、南十星も理解した。
「わたしの出番は今のところないから、キミの邪魔しないで黙って見てるけど、どうする気?」
「なにもないなら、それでいいけど……」
つばめの問いに、南十星はしばし黙る。
十路に想いを告げるためではない。それこそが彼女が日本に帰ってきた理由なのだ。
長靴を履いた猫になるために。
だから彼女の
「もしもなにかが起こるなら……あたしがやる事は、ひとつしかない」
決意を新たにするように、南十星は
そうして静かになった室内に、『ただいま入ったニュース』を読み上げるキャスターの声が響く。
『――の工事現場で、不発弾らしきもの見つかりました。本日、工場跡地の土壌改良工事中、地中から大きな金属の塊を発見したということで、警察に通報があり、第二次大戦中に米軍が投下した爆弾の恐れがあるとのことです。詳しい調査は明日、午前八時半から陸上自衛隊によって行われます――』
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