020_1000 貴腐人王女と丁寧ヤンキー王女Ⅴ~Temporary file -drinking-~
深夜に近づく繁華街の、大通りから一本奥に入った場所にある、二〇席ほどのさして大きくないレストラン・バー『アレゴリー』がある。
『
邪魔にならないようセミロングの黒髪は、シュシュでポニーテールにしている。薄暗い照明に照らされた顔に化粧気も少ない、アジア人の若い女性だった。
その瞳には、馬のような知性と温厚さを感じる。ただし注意が必要なのは、馬は本来獰猛な動物であること。長い時間をかけて、交配や育成、調教により人に慣れ、従順な性格を見せているだけだ。
客が見渡すことできる店内には他に従業員もおらず、彼女ひとりが丹念に
「いらっしゃ――」
彼女はにこやかに顔を上げたが。
「S'il vous plait, Je n'ai de reservation.(すみません、予約していないのですが……)」
「え?」
客の言葉に固まった。
来店したのは、金髪
静かな雰囲気の場末の店は、デートに使う男女などがよく訪れる。高級店というわけでもなく、サラリーマンが仕事上がりに同僚たちと利用する店とは違うが、それでも彼女のような客が一人で来るのは、若干違和感を覚える。
肩書きを理解したら、もっと違和感を覚えただろう。クロエ・エレアノール・ブリアン=シャロンジェ――王女がひとりでこのような場所に来ているのだから。
(今の、英語じゃないわよね……?)
理解できない言語で話しかけられて、どう反応しようか女性バーテンダーが困っていたら、キッチンとの仕切りのカーテンが揺れて、ほんのわずかだけ男の顔が覗いた。
「ユーア、今の?」
「お客さんの言葉がわからないのよ……」
届かせる声は日本語だが、覗かせている瞳は緑色――アジア人にはまず見られない虹彩の色だ。
彼は顔を出さずに店を覗きこんで、金髪碧眼の女性客に話しかけた。
「Bonsoir. Vous etes seule?(いらっしゃいませ。お一人ですか?)」
「Qui.(はい)」
「Installez-vous.(お好きな席にどうぞ)」
「Merci beaucoup.(ありがとうございます)」
優雅な挙動で女性客がカウンター席に陣取ったのを確認し、女性バーテンダーは、キッチンの男に小声で話しかける。
「何語? 『○○語会話』ってテレビでやってそうなやり取りだったけど……」
「フランス語だァ」
「や、私、さすがに話せないわよ……?」
「オレを呼びャいい」
女性バーテンダーは頷き、クロエに渡すためのおしぼりを出そうとした時、またも店の扉が開いた。
「いらっしゃ――」
にこやかに声をかけようとして、またもこの店に来るのに相応しくない客に声が途切れる。いや、ロング丈のワンピースにエプロンを着用して訪れる客など、店員も同じような格好をした店であっても、相応しくないか。
静かな怒気を放つ、黄褐色肌のメイド――ロジェ・カリエールだった。
(メイド来た!?)
女性バーテンダーだけではなく、クロエは声まで上げて驚く。
「ゲッ!? ロジェ!? どうやってここがわかったザマス!?」
特殊な日本語で。
それに従業員たちは固まった。
「…………」
「あー……ユーア? あの言葉遣いは普通か?」
「ややややや。普通じゃないから……っていうか、日本語普通に話してるじゃない」
「オレでも『ザマス』は恥だッてわかッから、それで黙ッてたンじャねェのか……?」
店員たちはカーテンを挟み、小声で会話しているので、クロエとロジェの主従には届いていない。
「おひとりで勝手に外出なさらないでください」
「それくらいのプライベート、許して欲しいザマス」
「せめてわたしをお連れください」
「えー……」
上下関係は察することができるが、今は逆転している客ふたりを横目に、従業員二名はまたもカーテンを挟んで小声で――今度は剣呑な雰囲気で情報共有する。
「ねぇ、気づいてる?」
「追ッかけてきたメイド、ヤベェな。スカートン中に
「そこは同感。どうする?」
「酒飲む
「OK。注意して会話聞いておくわ」
従業員たちは小さく頷き合い、それぞれの仕事に戻る。
「マスター、注文よろしいでしょうか」
「はい、なににいたしましょう?」
雰囲気を微塵も出さず、呼ばれたロジェに、女性バーテンダーはにこやかに応対する。
彼女たちは料理を数品を頼み、クロエはハウスワインのグラスを傾け、ロジェはバーボンをロックで飲み始めた。メイドは連れ戻すのかと思いきや、結局カウンターに並んで座っている。
「……ふぅ」
「初っ
「私はウィスキーしか飲みません」
ロジェがグラスをゆっくり揺らして氷を回しつつ、どこかボンヤリとした灰色の瞳でため息をつく。
「そういえば、ロジェと飲むなんて、久しぶりザマスね」
まだ酔うほどには飲んでいないが、クロエも全身から
「ロジェがわたくしのところで働き始めて、二年ほどになるザマス?」
「そうですね。それくらいになります」
「ネパールが恋しくなったりしないザマス?」
「わたしは生まれが特殊ですから、あの国にあまりいい思い出はありません」
ふたりの会話内容に、アジア人の顔立ちだが日本人とは違うロジェの風貌に、女性バーテンダーは納得する。
(グルカ、ね……)
ネパール人の総称としても使われるが、本来の意味は、ゴルカという地域にいたネパール山岳民族を呼ぶ。
彼らの勇猛さは、現代でも広く知られている。
「フランス留学中に面白い方がいると聞かされて、初めて会った時は『この無愛想な女なに?』と思ったザマスけどね……」
「わたしも突然会いに方を『なにこの
「……わたくしのこと、そんな風に思ってたザマス?」
「当時は、です。今は感謝しておりますよ? 時折『なんでこんな変態に付き合わなきゃならない? 後ろからド突いて黙らせてやろうか?』なんてことを考えてしまいますが」
「ロジェ……? 酔ってるザマスよね?」
「いいえ? まだこの程度の量では」
「既に酔ってるザマスよね!? そう言って!? でないと後ろに立たれた時が怖いザマス!」
どうやらロジェの無表情の裏では、そういう心理があったらしい。クロエの特殊性へ気に意図的に無視するために、いつも無表情を作っているのかもしれない。
「しかし……引き抜きはまだしも、まさか、このような服を着る破目になるとは、想像もしていませんでした」
酔ってないとは言いながらも、やはり酔っている様子で、ロジェが
「男装執事とメイド服のどっちがいいか、選択肢を与えたつもりザマスけど? それでメイド服を選んだのはロジェ自身ザマス」
「……男装をすると、貴女の特殊性と一緒くたにされる予感を覚えたからです」
「
クロエの小馬鹿にするようなセリフと視線に、ロジェが握るブランデーグラスが
「わたくしは楽ザマスよ~? 見込み通り変態ってウワサが底辺で出回ってるせいで、男が言い寄ってこないザマスから、もうしばらくは結婚話とは無縁に好き勝手できるザマスしぃ~?」
どうやらクロエの特殊性癖は、それなりの意図があっての自演らしい。どこまで演じてるかは不明だが。
「ロジェも今年で二五ザマスし、そろそろ男を見つけないと――」
直後、ロジェの手中で、ブランデーグラスが限界を迎えた。
からかっていたクロエも絶句して後悔を浮かべた。
「……新しいのをお願いします」
ロジェは大したことでもないように、
「お怪我、大丈夫ですか?」
女性バーテンダーも何事もなかったように、新しいグラスを出して、同じバーボンのロックを作り始めた。
しばらく店に流れるボリュームの小さなジャズが大きく聞こえる。
酒の勢いでロジェの逆鱗に触れてしまったので、クロエはビクついて反応を横目で
ロジェは置かれた新たなウイスキーを、無表情ながらやや満足げに口に運ぶ。酒の力を借りて日頃言えないことを、雇い主に思い知らせたからだろうか。
女性バーテンダーはカウンターから出て、ガラス片を片付ける。そんな緊張感など放置して、仕事に徹する。
「……あ、殿下」
一般的でない呼び方に、女性バーテンダーの眉が疑問に震えたが、その程度では気付かずロジェは続けて話を変える。
「明日の日中にでも少し、お暇を頂きたいのですが」
「『例のもの』のことですの?」
「はい。久しぶりですので、練習しておきたいのです」
「『あの方』、練習場までは用意してくださらなかったザマス?」
「いえ、申し出はあったのですが、そこでは少々手狭で。もう少し広い場所で行いたいのです」
「この街にそんな場所、あるザマスの?」
「調べてみたら、運動公園にあるようです」
「でしたら好きにするザマス……それから、『彼ら』の受け入れ態勢は?」
「そちらも整っています」
共通認識で関係者なら通用してしまう抽象的な言葉を使われると、部外者には会話の内容が理解できない。
(一体なんなの、このふたり……?)
立場ある人物とその付き人というのは想像できても、それ以上はわからない。カウンターの中に戻りつつ、女子バーテンダーは内心で首をひねる。
「それで、ロジェはコゼットのこと、どう思ったザマス?」
しかもクロエの口から
「日本に留学しても、あまり変わっていないようにお見受けしましたが」
「いい意味でも、悪い意味でも、ね……だけど今日はちょっと意外だったザマス」
「ムッシュ・ツツミと一緒に来たことですか?」
「えぇ」
「それについては、想定の
またも知っている名前が出て、女性バーテンダーは眉根を寄せる。
「まさか今回の『仕事』のことで、『あの方』から聞かされた方と、こんなに早く顔を合わせることになるとは、思ってなかったザマス」
ここがどういう店か、彼女たちは知らないのか。
それこそ『あの方』から聞かされていないのか。
「なぜ殿下は、お会いすることにしたのですか? 断ることもできたと思いますが?」
「どんな人物か見定めたかったから……ですけど、全く知らない人物だとして話すことができたか、少し自信がないザマスね」
『彼』の正体まで知っている。
ここまでピンポイントな客が偶然来店し、しかも日本語で会話するなど、女性バーテンダーは勘繰ってしまう。
そんな内心など伝わるはずもなく、クロエは口元を苦笑の形にして、ワイングラスを運んで唇を湿らせている。
「彼とコゼット、どんな関係だと思ったザマス?」
「さぁ……なんとも」
「コゼットを
「違う……と言いたいですが、なんとも。最後に割り込んだのは、その印象でしたし」
「御するってっても、
ちなみに鵜飼いは、日本だけの文化ではない。中国では観光とは無縁に現役で使われる漁法であるし、鷹狩りに近い手法だがヨーロッパでも近代まで行われていた。明らかな外国人である彼女たちが例として出しても、そこまで不自然でもない。
「ロジェとどちらが上ザマス?」
「勝てない相手ではないでしょうが、とても楽観できる相手でもありません」
「条件次第ってことザマス?」
「わたしに圧倒的有利な条件が整うのが、最低条件だとお考えください。相手はそれをひっくり返した実績があるのですから」
「ってことは、わたくし次第ザマスね……」
女性バーテンダーは『彼ら』を知ってはいるが、直接会って言葉を交わしたことはない。
(『あの子』、上手くやってるのかしら?)
「マスター」
「あ、失礼しました。同じものでよろしいですか?」
我を取り戻し、ロジェが置いた空のグラスを下げ、新たにバーボンのロックを作る。
その手つきと、それ越しに顔を、ややアルコールに染まった目で、メイドがじっと見つめてくる。眺めているのではない、怪訝そうな視点だ。
「どうかされましたか?」
「いえ……どこかでお見かけしたような気がしまして」
女性バーテンダーに心当たりはないから、アイスピックで氷を割りながら微笑を浮かべる。
「私に心当たりはありませんから、そっくりさんにでもお会いしたのでは?」
否、心当たりが多すぎて絞れない。メイドの剣呑な――軍人を連想する目から察するに、すれ違いの可能性も否定できないが、確率からすると別人だろう。
「ユーア」
「はーい」
タイミングよく、キッチンからの声がかかったために、女性バーテンダーはロジェの視線からかわす。
キッチンの男は顔を出さず、注文の料理の皿を渡しながら、小声で早口に問う。
「なにかわかッたか?」
目の隅で客ふたりが注意していないのを確認し、女性バーテンダーは声を潜める。
「あのお客さん、ワールブルグ公国の第一公女と、そのお付き」
「なんでわかッた?」
「コゼットって『あの部活』の
従業員ふたりは、明らかに《
「それから、あのメイドさん。別の意味でも危なそうよ? 確証はないけどね――」
その単語は小声すらも出さずに、唇の動きだけで伝えられる。
「…………ケッ、なるほどなァ」
キッチンの男は、顔を仕切りのカーテンに隠しているが、嫌悪感で歪んでいるに違いない。
「つばめには
「言うな。教えたらクビ突ッ込もうとしやがるだろォし」
「や~? どっちにしても知ることになりそうだけど……?」
『これ以上は言っても仕方ないか』といった風に軽く首を振り、女性バーテンダーは料理を客の前に運ぶ。
レストラン・バー『アレゴリー』
大通りから一本奥に入った場所にある、数多くの酒を取り揃え、静かな雰囲気と味が楽しめる店。
「お待たせしました。マルゲリータです」
そこでカウンターに入る、にこやかな女性バーテンダーの
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