非正規雇用の《魔法使い》
045_0100 【短編】ヘッポコ諜報員剣風録Ⅰ ~ある時は、女子高生~
その日の授業は全て終わり、共に総合生活支援部の部室に
「あ! ナージャ! 丁度いいところに!」
十路には見覚えのない女子学生が近寄ってきた。学生服ではなく私服なので、同じ敷地内の大学生だろうとは思うが、厳密には制服ではなく推奨に留められた標準服、小中高生でも私服登校する学生もいるので、確証はない。
「急な話だけど、明日ウチに来れない?」
「なにか起こったんですか?」
「父さんが腰やっちゃって……ナージャが作った例のアレ、他に作れる人がいなくなったのよ。それだけならメニューから外すだけでいいし、臨時休業してもいいんだけど、取材受けることになっちゃったの。今から断るのも問題あるし。だからお願い。一日だけ手伝って?」
ナージャ個人の付き合いがあるなら、十路は先に部室に行こうと思ったのだが、彼女はチラリと紫色の視線を送ってきた。意味が理解できず、居たほうがいいのかと思った矢先、話はあっさり終わってしまう。
「確認しないといけないことがありますから、後で連絡します。それでいいですか?」
「いい返事期待してる!」
最低限と思えるやり取りで、女子大生は足早に消えてしまった。なので十路は、また連れ立って修交館学院敷地隅の部室に向かいながら問う。
「今のは?」
「大学部の
「行き着けとして?」
「バイト先です。
「まだ?」
「飲酒解禁年齢引き上げ検討中だからです。
「ようやくロシアも酒に関して本腰を入れるようになったのか……何年か前までビールは酒じゃなかった国なのに」
「それ、アルコール度数で酒税の対象外になってたってだけで、ジュース感覚で子供もビール飲んでたって意味じゃないですからね?」
ロシア=酒という偏見は、最近では通用しなくなっているらしい。冬ともなれば酒飲んで体温上げないと死ねるお国柄とはいえ、病気・事故を含めた死亡原因の三割がアルコールと
唐突に鳴り始めた荘厳なメロディも、日本人には馴染みがない。ロシア国歌だとわかる者が果たして何人いることか。
「はいはーい。
ロシア人らしいかもしれないが、女子高生らしくはない、ナージャの携帯電話の着信だ。
「ほえ? それはまた厄介な依頼受けたんですね? いやいやいや、わたしみたいな小娘、そういう仕事に向いてませんよ。事務の
歩きながら話す彼女のソプラノボイスに、それとなしに耳を傾けていると、どうやら相手は学生ではないのではないかと思える。ハッキリしないが洩れる声も、そこそこ歳を食った男のものに聞こえた。
なにか頼まれたようだが、『近々遊びに行きまーす』と断りの返事を入れて、ナージャは電話を切った。
普段なら他人の人付き合いなど気にしないのだから、気まぐれと呼ぶしかない。なんとなく十路は問うた。ただし単純に『誰?』などと訊かない辺りが彼らしい。
「ナージャって
「《
「そうじゃなくて、顔が広くて知り合い多い」
彼女は友人が多い。三年B組だけで見ても、グループの垣根を越えて、男女構わず親しげな言葉を交わしている。それどころか廊下を歩けば、クラスや学年の違う生徒とも話す。休憩時間の敷地内ともなれば、高等部ではない生徒とも話す。教科書や辞書、試験対策のノートを借りる先には、こと欠かない。
春先の溶けかけた雪ダルマのような、緩い雰囲気を持つ彼女の人柄なのか、とにかく顔が広い。気の合う者同士で固まりがちな女子高生としては、異常とまでは言わずとも、珍しい部類に入るだろう。放課後にファミレスやファストフードで駄弁るような付き合いはしていないのに、親しさだけは同レベルなのだから。
支援部員となるまでは、
なのに、その職業に就くイメージからはかけ離れている。学生生活に溶け込んでいる意味では、これ以上なく『らしい』とは言えるが、それにしても非合法の匂いが恐ろしく希薄だ。
まぁ、裏方面の人間らしくないからこそ、彼女は支援部に入部しているわけだが。
問うとナージャは、学生
「
多くの人々が思い描く諜報活動は、偵察衛星が撮影した
だが実際のところ、公開されている資料からの
「わたしがやってたのは主に
「そこは納得できるんだが……諜報員ってのは、目立たないのが普通なんだがな」
十路は歩きながら、ナージャの頭の先から足の先まで、視線を往復させた。
日本人と比べれば身長は高め、女性らしい起伏に富んだ体つきで、極めつけには全人類の中でもほとんど存在しない、自然の
ひと目で記憶に残るような造形など、スパイとしては一番不適格な人物像だ。現実の諜報機関は、アクションスパイ映画の主人公のようにあらゆる意味で目立つ人材など、真っ先に人選から
「ロシアの人材不足、深刻なんだな……」
「わたしが適任だから派遣された、とは考えないわけですね」
「逆に訊きたい。俺に考える余地があるのか? 『
実在が疑われたほど悪名としても伝説としても名高い、諜報員としてのナージャのコードネームを口にすると、優秀ではなかったのは事実だから認めざるをえないと、しかし唇を尖らせて反論する。
「
《
民間の《
同時に普通はヨタ話と捉え、現実を真に受ける者がいかほどいるか怪しい話でもある。
国家の観点からすれば、情報収集しないわけにもいかない。支援部が誕生するよりも前に、学院にスパイを潜入させることができれば、他国に先立って情報を得ることができる。かといって大枚つぎ込んで本格的な行動を行うには不確実で、二の足を踏む。
そんなハイリスク・ローリターン場合によってハイリターンな微妙な状況下では、ナージャはうってつけの人材と呼べる。
「おかげで大変でしたよー? 最近スパイ業界も不況で、どこも世知辛いですけど、活動資金ショボくて生活するのもひと苦労でしたから」
「どのレベルで?」
「振り込みがない代わりに、パンとジャガイモと缶詰が現物支給されたことがあります」
「……それは親からの仕送りみたいに思えばいいのか? それとも社会主義体制の食糧難時代みたいに思えばいいのか?」
「どこまでケチって大丈夫かみたいな、チキンレースになってただけです」
ナージャは両極端で、大きな矛盾を抱えている。
《
潜在的にはこれ以上望めないほど優秀だが、実績はとても有能などとは呼べない。とはいえ、もし彼女以外に対処できない事態を考慮すれば、安易に切り捨てるのも難しい。
伝家の宝刀と見るか。貧乏神と捉えるべきか。とにかく扱いが難しく厄介な『最凶』だった。
そんな彼女を、まだ不確実だった時分の支援部調査に送り込むと、『ヘッポコでも仕事あるだけありがたいと思え』と運用費を切り詰められる、他のごく一般的な使い勝手のいい諜報員を別任務に派遣できるなど、些少でもメリットが生まれることになる。
「
「確かに地盤ではあるけど……」
でもなにか違うと十路は思ってしまう。物は言い様だ。
「じゃなにか? ナージャの知り合いって、元バイト仲間か?」
「だけじゃないですけど、多いですね」
「バイト先、一ヶ所じゃないよな?」
交友がバイト仲間だけだとすると、顔が広すぎる。転々とした結果、知り合いが多くなったと思ったほうが自然だ。
十路はそう思って訊いただけの、世間話でしかないつもりだったが、なぜかナージャはリボンで束ねられた長い髪の尻尾を振り回し、気まずげな顔を作った。
「短期とか単発のバイトが多かったってのもあるんですけど、辞めざるをえなかった場合も少なくないんですよね」
「どうして?」
「いやぁ、さっき十路くんが言った理由ですよ。
「矛盾してないか?」
「してますよー。だから大変だったんですよ。イベントコンパニオンとか単発仕事で割がいいですけど、写真
「看板娘になるのは困るわけか」
「結婚披露宴の代理出席とか、お店の覆面調査員とか、そういう意味じゃ便利でしたけど……あれ登録制で、いつでも仕事があるわけじゃないですし」
髪の尻尾を振り回しながら、彼女は言葉に間を空けた。記憶を探っているのか、紫の視線は左上を向く。
「だからまぁ、探偵事務所で働いた時が、一番楽といえば楽でしたね。依頼者への顔出しはせいぜいお茶汲みですし、バイト料は安いってわけではなかったですし、『本業』関係でもなかなか便利でしたし」
「探偵業でバイトなんて募集してるのか?」
「張り込みの補助とか、簡単な事務仕事とか、そんなお手伝いです。さすがに人様のプライバシーに踏み込む調査は、させてもらえませんよ」
「へぇ」
「それがさっき電話してきた
「意味わからん」
「知らないんですか!?
「日本限定なら、明智小五郎・金田一耕助の大御所は?」
作家には申し訳ないが、推理小説など読まない十路は、日本人以上に日本のサブカルチャーに詳しいロシア人に『知らねーよ』とツッコむ。ネコを探偵に入れていいのかという疑問も込めて。
そんなことを話しているうちに、シャッターが既に全開されている支援部部室に到着した。古びたガレージに家具を置いて居住性を作った半屋内には、人間はふたり、支援部員はひとりしかいなかった。
「他の連中は?」
「それぞれ依頼で離席中であります。ちなみにミスタ・トージとミス・クニッペル向きの依頼は、今のところないであります」
十路が声をかけると、偽ブランド芋ジャージを着る小学生女児・
「で。コレは?」
【知りません。トージとナージャが来るの、待ってたんじゃないですか? ソファではなく床に転がってるのは、先ほどまでコゼットたちがいたからだと思いますが】
部員ではない不審人物に関しては、部の備品である大型オートバイ型 《
コンクリうちっぱなしの床にダンボールを敷いて、ふたりのクラスメイトである
その寝姿を見下ろすナージャに、ピンと立った尻尾が見えた気がした。閉じたまま口角を上げる、緩やかな
彼女はしゃがみこみ、和真のスマートフォンのセキリュティを解除する。なぜナージャが解除できるのかそこはさておき、なにかイタズラを始めた。ひとしきりいじると満足したか、元のように握らせる。
次いで壁際のラックに積み上げられたダンボール箱を下ろして、中身をあさり始めた。触れても起きない和真に、ナージャは更なるイタズラを慣行するつもりのようだ。十路は加担する気はないが、止める気もない。
「そういえば、和真くんと話すようになったのって、探偵のバイトしてた時からなんですよ。去年はクラス違いましたし」
「へぇ?」
白い紐を取り出して長さを確かめながらの、思い出したような彼女の言葉を意外に思う。ナージャと和真はいつも一緒にいるような印象があるから、彼女が来日して以来の付き合いのように思っていたが、違うのか。
「その頃のこと、聞きたいです?」
「ちょっと興味ある」
和真はナージャへの好意があからさまで、よく言い寄っている。笑顔で地獄突きを叩き込まれて撃墜されるのが
十路が見慣れたふたりの関係の最初は、果たしてどういうものなのか。何事にも淡白で、彼らしくないと自身で思いつつも、好奇心を
「その前に十路くん。明日のバイトの件、甘粕先輩に連絡をしないとならないので、先に確認です」
なぜかガラクタの中から取り出した、V字に曲がった鉄板を手にしたまま、ナージャは真面目な顔で人指し指を立てる。
「ガスマスク持ってます?」
「どういう経緯でその質問が出てくるのか、説明を求める」
「先輩のお店でバイトしようと思ったら、必要なんですよ。わたしが持ってるの、しばらく使ってないから、
「ちゃんと説明書を読んで保管しろ。あとやっぱり意味わからん。なんで飲み屋のバイトでガスマスクが必要になる?」
「作るのって、罰ゲーム用に開発した激辛料理ですから、ガスマスクないと匂いだけで死ねます。市販の防毒マスクとゴーグル程度じゃやっぱり死ねます」
「自業自得で一度死んで来いって思うのは、俺の性根がねじ曲がってるからだろうか?」
言外に『化学兵器を開発するんじゃねぇ』と言っておく。今更なことは理解しつつも、ツッコまずにはいられない。このトラブルメーカーというかトリックスターは、調子に乗ってなにをしでかすかわからない。
「この料理の開発経緯も、和真くんが絡んでるですけどね」
「なんか、ロクな経緯じゃないだろうな……」
もしかして彼女たちの関係は、ずっと今と大差ないのだろうか。
「それで。十路くんだったらガスマスク持ってるんじゃないかなーと思うんですけど、どうなんです?」
「俺の
「お願いします。貸してください」
「仕方ないな……」
ここに普通の高校生は絶対に行わない貸し借りが成立した。残念ながら部室にいる者全員が普通ではないので、ツッコミはなかった。
「取りに行くの、正直、面倒くさいんだが……」
ナージャと野依崎以外の支援部員は、装備を
「ここにあるであります」
その管理を頼んでいる野依崎が、なぜかOAデスクの下から、傷だらけの黒い
「なんで持ってきてる?」
「バッテリー切れ間近だからであります」
「ついでだから交換しといてくれよ? お前も《
「面倒であります」
なにせ
面倒くさがりな小学生女児に顔をしかめながらも、十路はそれ以上の文句は言わず受け取り、〇〇式防護マスク本体と真空パックされた
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