第二十六幕 年末年始の一騒動



 十二月の二十五日は、相変わらず晴れ晴れとした冬の日であった。


 昼過ぎの今、稲荷社の大鳥居の近くでは、大勢の群集の中にて、屈強な男達が餅をうすきねいている真っ最中である。


「せいや!」

 ぺたん。

「はっ!」

 ぺたん。


 リズムく、軽快けいかいに、もちをこねるおともちをつくおと交互こうご稲荷社いなりやしろ軒先のきさきひびく。


 紋様もんようはいった法被はっぴとび男達おとこたちが、威勢いせいよくこえはっしつつもちをつく。


 これは、『引きずり餅』と呼ばれる餅つきの出張サービスなのだとか。


 江戸時代の人にとって、餅は年末年始に欠かせない食料であるのだが、その入手方法は様々だ。


 お金持ちは、お抱えの職人に頼んで自宅の庭先で餅をついてもらうことが多い。


 菓子屋に頼んで『賃餅』といってお餅をついてもらう方法や、長屋で共同所有しているうすきねで長屋単位で餅をつくところもある。


 また、そんなにお金のない庶民は大晦日おおみそか近くになると、売れ残りの餅が叩き売りされているので、それを買うのだという。


 俺の目の前で繰り広げられている、『引きずり餅』というのは、とびの男達の期間限定のアルバイトのようなもので、うすきねを町々に持ち歩いては依頼者の家の近くで景気良く餅をつく、というものだ。


 大勢の観衆の中で餅をつく様子は、粋なものとして人を寄せるので、多くの店などがこの男達に頼むのだという。なお、もち米はこちらで用意する。


 俺が白衣袴姿で頭巾を被りつつ眺めていると、さっきまできねを振りかぶっていた男が一休みした。そして、男が俺に向かって口を開く。

「そこの見習いのあんちゃん、おぇさんもついてみっか?」


「え? えっと……」

 俺が躊躇ためらっていると、本殿にて出来立ての餅を団扇うちわあおいで冷ましていたすずさんが俺に伝える。

「いいおりじゃないかい。りょうぞうも餅くらいいてみなよ」


 すずさんに促されたので、俺は餅つきのきねを笑顔の男から受け取る。

「じゃあ、やってみます」


 俺が杵を構えると、餅をこねる役の男は「どんとこい」といった顔を見せた。


「はっ!」

 ぺたり。


 餅をついてからきねを振り上げた俺は、餅がこねられるのを見計らって、再びきねを振り下ろす。


「よっ!」

 ぺたり。


 俺は、平成の世の中において、餅は買うものという認識しかなかった。


 だから、こういう風に力をめて餅をくという行為は、それ自体が新鮮で楽しかった。





 俺は餅をついた後、神社の出入り口近くにある屋台で稲荷寿司を売っている竹蔵さんに近づいた。


 竹蔵さんが、客をさばきながら俺に話しかける。

「ご苦労だな。りょうの字」


「ああ、でも楽しかったよ。竹蔵さんは稲荷寿司の売れ行きどう?」

 俺の言葉に竹蔵さんは、屋台の正面を見る。


 屋台の前には、餅つき見物ついでに稲荷寿司を食べようというお客さんの行列で、黒山の人だかりができている。


「みりゃわかんだろ、大賑わいでぇ。でも、もうすぐ餓鬼がきが産まれるから、そん時までしかあきなえねぇってのが心残りだけどな。まぁしょうがねぇよ、親分さんとの約束だからな」


 そう、徳三郎さんがここらを取り仕切っている任侠の親分さんと話し合ったところ、場所代を取らないでいてくれるのは子供が産まれるまでとの事だったのだ。それからも屋台を続けるには、それなりの対価を場所代として払わなくてはならない。


 俺は言葉をかける。

「もし良かったら、場所代を払って屋台を続けたらどう?」


 すると、竹蔵さんは照れくさそうな顔になる。

「こんな風におみやくちあきなうってぇのもわるかねぇけどよ、神主さまにそこまで甘える訳にはいかねぇよ。りょうの字に貰った膏薬こうやくのおかげで腰もすっかり治ったしよ、また天秤棒を担ぐことにするぜ」


 竹蔵さんはそこまで言い、ひと呼吸おいてから言葉を続ける。

「あ、そういや、おあきとかいうおじょうちゃん、風邪とかぃてねぇか? こないだおうめが気だるそうだったから、流行り病とかあるかも知れねぇから、気をつけた方がいいぜ」


 その言葉に、俺ははっとする。

「おうめさん、風邪ひいてるの?」

「あ、いやいや。ちょっと熱っぽいだけだって言ってたしよ。心配するこたぁねぇよ」


 でも、竹蔵さんの奥さんであるおいとさんは、もう臨月だったはずだ。もし風邪のウィルスがおいとさんに感染してしまったら、母体も赤ちゃんも危険になる。


 俺はおいとさんに風邪が流行うつる懸念が湧いたので、竹蔵さんに、おいとさんの待つ部屋に戻る前は、うがいをすることを勧めた。





 十二月の二十八日も、冬晴れの気持ちの良い日だった。


 年末年始の神社というのは、それはもう忙しい。


 ここの所、用意していたおふだには徳三郎さんが一枚一枚丁寧に祝詞のりとを書いて、それを巫女であるすずさんが綺麗に包む。


 おあきちゃんは御守りや破魔矢がちゃんと揃っているか、おみくじはきっちりと用意されているか、氏子の人たちが来たときの名前表は正しいか、などの確認。


 俺は、年初儀式に関する氏子の人たちへの言伝ことづて、歳末にまとめて請求する細々とした掛け金の回収、儀式に欠かせない神饌しんせんと呼ばれる食料や酒などの買い付けのために町を走り回ったりもしていた。


 その日の夕方に本殿にて俺は、来るべき年末年始に向けて、稲荷社いなりやしろの本殿にて紙垂しで作りを手伝っていた。紙垂しでとはつまり、神社でよく見るぎざぎざの紙のことだ。未来から持ってきたはさみが思いの他役立っていた。


 神棚正面に向かって座りつつ、すずさんと一緒に紙垂しでを作っていると後ろに気配を感じたので振り返る。


 屋次郎さんが真剣な顔をして、神社の正面に下がっている鈴緒すずのおで鈴を鳴らした。


――まだ年は明けてないのに? 江戸っ子だから気が早いのかな?


 俺がそう思った次の瞬間だった。


 屋次郎さんは、手水桶を両手でふんと持ち上げ、その中に満たされていた水をざぶりと頭からかぶった。


「屋次郎さん! 何してるの!?」

 俺は思わず叫んで、土間に置いてあった草履を履いて外に飛び出す。


 近くにいた竹蔵さんも屋次郎さんに駆け寄っていた。

「ヤジさん!? 何してんだよ!?」


 すると、屋次郎さんは心の底から搾り出すような声で叫んだ。

「決まってんだろ! 水垢離みずごりでぇ! お稲荷いなりさまに、おうめの病を治してもらうんでぇ!」


 俺も竹蔵さんも、その叫びに驚いた顔を見せる。


「おうめさんに何かあったの!?」

 俺の言葉に、屋次郎さんが返す。

「今日、奉公先から帰ってきていきなりぶっ倒れやがったんだ! 長屋で息も絶え絶えになってやがる! 無理すんじゃねぇって言ったのによぉ!」


 すると、竹蔵さんが叫ぶ。

「ヤジさん! てめぇが水かぶったらてめぇまで風邪引かぜしいちまうだろう! ちぃとは考えてからことおこないな!」


「てやんでぇ! 俺は生まれてこのかた、風邪かぜなんざいたことねぇんだよ!」


 そう言って、屋次郎さんはたもとから二朱金にしゅきんを取り出した。ちなみにこの二朱金にしゅきんというのは、平成で言うところの六千円くらいの価値を持つ貨幣である。


 それを賽銭箱に投げ入れようとする屋次郎さんの手を、竹蔵さんが大急ぎで止める。

「ヤジさん! 何してやがんだ! そんな勿体もってえねぇことすんなって!」

「うるせぇ! お稲荷様にやまいを治してもらうことの何がおかしいんでぇ! 医者は高すぎて頼めねぇんだよ!」


「りょうの字に診てもらえば良いだろ! な! りょうの字! おうめを診てやってくれ!」

 竹蔵さんが叫ぶので、俺も勿論もちろん頷いて答える。

「わかった! 色々持ってくるからちょっと待ってて! 屋次郎さんはとりあえず湯屋ゆやにでも行って体を温めてきて! すずさんに許しを貰ったらすぐ長屋に向かうから!」


 俺はそう言うと本殿に入り、黙々と作業をしているすずさんになんとか許可を貰って、スポーツバッグのある部屋まで急いだ。


 スポーツバッグから風邪に役立ちそうな物をピックアップして、巾着袋に入れる。

俺は稲荷社の前で屋台を営業している竹蔵さんに声をかける。

「竹蔵さん、ちょっと用意してもらいたいものがあるから、屋次郎さんが戻ってきたら伝えて欲しいんだけど」


「お、おう? なんでぇ?」

「さっきのお金があれば買えると思うんだけど……」


 俺は、未来において風邪を引いたときによく作られているポピュラーな食べ物を告げた。幸いにも、その食べ物は江戸でも庶民がよく知っているものであるらしかった。




 蒟蒻こんにゃく長屋に来た俺は、お梅さんの住む長屋部屋の前に来ていた。ちなみにここは、竹蔵さんとおいとさんが住んでいる部屋の正面向かいである。


「すいませーん、屋次郎さんから頼まれて風邪をに来ました亮哉りょうやといいます。入りますよー」

 俺がコンコンと引き戸の近くをノックして尋ねると、中から中年くらいの感じの女性が答える声がしたので障子を開く。


 四畳半部屋には敷き布団が敷いてあり、顔を紅くした小さな体のおうめさんが額に布切れを乗せてぜぇぜぇと苦しそうにしている。掛け布団の上には、父親のものだろうか大き目の着物を乗せている。


 傍には、おうめさんのお母さんなのだろう、お歯黒をした三十代後半くらいのちょっと太めの中年女性が水をはった桶の傍で座っていた。


 おうめさんのお母さんは、畏まった様子で俺に深々とお辞儀をする。

「これはこれは、よくおこしいただきました」

「こちらこそ、お役に立てるかわかりませんが。ご主人さんはどうしたんですか?」


 俺が尋ねると、お母さんが応える。


「主人は、牛御前社うしみまえやしろ(牛嶋神社)の方へ御守りをいただきに参っております」


 なんだかお母さんは、お医者さまを見るような目で俺を見てくる。俺は医者でもなんでもなく、弟の慎司しんじが病気になったときに対応してやれる程度の看護知識と、保健体育で習った程度の医療知識しかない唯の高校生なのだ。そんな目で見られても困る。


 しかし、この人たち、おうめさんのお母さんやお父さん、屋次郎さんや竹蔵さんが頼れるのは俺しかいないのだ。俺は身の丈に合わない責任を背負い、寝ているおうめさんに近づき、傍に座る。


 そして、巾着袋をまさぐり電子体温計ケースを取り出した。そしてその中の体温計をケースから外し、お母さんに渡す。


「じゃあ、これをおうめさんの脇の下に挟んでやってください。しばらくすると、音が鳴るので取り出してみてください」

「あの、亮哉さま、これはなんでしょうか?」


 おうめさんのお母さんが、不思議そうな目で電子体温計を見つめる。


「さまはいいです。これで、体の熱を測るんですよ。こちらの銀色の部分を脇で挟むようにしてください」


 その言葉に、お母さんはおうめさんの寝間着をゆるめ、脇に電子体温計を挟む。俺は女性の肌をなるべく見ないように目を背ける。


 しばらくするとピピッピピという電子音が鳴り響く。お母さんは若干びっくりした様子だったが、恐る恐る電子体温計を脇から取り出して俺に見せる。


 三十八度三分、かなりの高熱だ。


 俺は巾着袋から冷却シートを取り出し、おうめさんのひたいに貼り付ける。


 お母さんに訊いたところ、主な症状は喉の痛みらしい。俺は巾着袋から風邪薬を取り出し、細かく書かれた効能を確認する。


――ビンゴ! 上手いこと発熱と喉の痛みの風邪に効くタイプの風邪薬だった。

――葉月ありがとう。


 俺は、風邪薬のカプセル錠剤をプラスチックケースから取り出し、畳の上に置かれた手拭てぬぐいの上に並べる。


「こちら、薬です。一日三回、毎食後に噛まずに、一度沸かしてから冷ましたお白湯さゆで飲ませてください」

「あらあらあら、これは……しかし私ども、お金のあるほうでは……」


「お金はいいですよ、俺からのおごりです」

 俺がそう言うと、お母さんは感極まったという風に涙ぐんだ。


 そこへ、ノックも断りも入れずに、屋次郎さんが障子戸を勢い良く開けてきた。

「りょうや! 手に入れてきたぜ! 生卵と、砂糖と酒! これで卵酒たまござけつくるってんだな!?」

 屋次郎さんが、風呂敷包みと瓢箪ひょうたんを持ったままそう叫んだ。


「ああ、そうだよ。風邪にはぴったりだからね」


 卵酒たまござけは江戸の時代には既にあり、薬ほど高くはない生卵を使う卵酒たまござけは、風邪を引いた庶民の強い味方であった。


 俺は、巾着袋から更にハンカチを五枚取り出す。


「それじゃあ、この布を広げて口に当てて三角巾で息ができる程度に軽く覆っておいてください。そして汚れたら替えて、洗ってからよく乾かしてまた替えてください。マスク代わりです」


「『ますく』?」

 お母さんが、きょとんとした顔になる。


「あ、いえ。喉の風邪が悪くなるのを防ぐことができるんですよ。あと、なるべく多くお白湯さゆを飲ませて、梅干うめぼしとかおかゆとかの腹に良い柔らかい食事をしっかりと食べさせて、よく寝てもらうことが大事です。あとはまぁビタミンC……えっと、蜜柑みかんをすり潰して食べさせてやってください」


「そうでございますか。本に当に有り難うございます」

 再びお母さんが、正座をしたまま深々とお辞儀をする。


 そこで、かまどに火をつけた屋次郎さんが俺に叫ぶかのように告げる。

「りょうや! 俺、卵酒の作り方わからねぇ! 来てくれ!」


「ああ、わかった!」

 俺は、急いで土間に向かう。


 そんなこんなで作った卵酒をおうめさんに食べさせて、病気は順調に回復に向かうかと思われた。


 そう、確かにその時は、そう思っていたのであった。





 その翌々日の、十二月三十日、つまり大晦日の事であった。


 すずさんとおあきちゃんは、普段の地味な着物と比べて見違えるような余所行きの着物を着て、王子稲荷にて妖狐の集まるうたげに会席するのだという。


 二人は高橋たかばしの近くにある石の階段を降りて川岸にある木の桟橋に降り立ち、そこに待っていた船頭さんに挨拶をして小舟に乗った。


 大川おおかわを四里(約16キロメートル)ほど遡ると、王子稲荷に着くらしい。


 以前も聞いた事があるが、そこでは毎年大晦日になると、武蔵野一円の妖狐が集まりうたげを開くのだという。


 着飾って小舟に乗ったすずさんは「初日の出までには帰ってくるよ」と言っていた。同じく余所行きの着物で着飾ったおあきちゃんは、小舟が俺から見えなくなるまで手を振ってくれていた。


 白衣袴姿の俺が、二人を見送って稲荷社いなりやしろに戻ろうとすると、屋次郎さんがちょうど高橋たかはしを渡って、こちら側に走ってきているところだった。


 俺は声をかける。

「ああ、屋次郎さん。おうめさんの調子は……」


 俺がおうめさんの調子を尋ねようとすると、屋次郎さんはいきなり俺の両肩を掴んだ。


「りょうや! おうめの奴だけどよぉ! 何も食べやしねぇ! 折角せっかくの薬も飲みやしねぇんだよ! おからも何か言ってやってくれよ!」

「え? それって……どういう事!?」


 屋次郎さんに両肩を掴まれた俺は、戸惑う。


「俺にもわからねぇんだよ! 昨日まで段々良くなっていったと思ったら、今朝になっていきなり、子供みてぇにねやがったんだ! おぇの言うことなら聞くかもしれねぇから、言ってやってくれ!」


――どういうことだ? おうめさんの病状が悪化しているという訳ではなさそうだ。


 俺は、落ち着いて屋次郎さんをなだめ、一緒に蒟蒻こんにゃく長屋に向かった。


 蒟蒻こんにゃく長屋に着いた俺たちは、二人しておうめさんのいる部屋に上がった。そこには、この前会ったお母さんと、ずっと以前に豆腐職人をしていると聞いた事がある、いかめしい顔つきのお父さんがいた。


 お父さんは俺に感謝の言葉を述べて、深く頭を下げた。薬を恵んでくれたお礼がしたいという。


 寝床に寝込んだままのおうめさんは、こちらの方を見てくれない。不貞寝ふてねしているかのようにそっぽを向いたままだ。


 俺は、近くにいる屋次郎さんを脇目で見る。以前、竹蔵さんが俺に言ってくれたところ、おうめさんは屋次郎さんに惚れているらしい。考えるに薬を飲まない原因は十中八九それだろう。


 俺は、おうめさんの両親と屋次郎さんに対し、おうめさんと二人だけで話したいからと部屋をしばらく空けてくれないかと頼んだ。


 そして、俺と床についているおうめさんだけが部屋に残される。


 不貞寝ふてねをしているおうめさんに、俺は話しかける。

「あの、おうめさん……?」


 すると、おうめさんがこちらを見ないまま返す。

「なんだよ。薬貰ったのは礼しとくけどな。ありがと」


「えっと……何故、今朝になってから薬飲まないって言ってるのか教えて欲しいんだけど……」


 たかだか十六年しか生きていない俺が、慎重に慎重に、一人の少女の心の糸を解そうとする。


「……おぇは、屋次郎にぃちゃんの友達だろ? だから言わねぇ」

「何聞いても言わないって! 絶対! 約束するから!」


「……どうだかな」

 おうめさんはそう言うと、また口を閉ざしてしまった。


「うーん……こういう時は」

 俺は、頭の中で必死に、平成の時代に読んでいた小説の内容を思い出していた。

 自分の友達を好きな少女。何かが引っ掛かっている少女。そして、口を閉ざした少女。

 そこで俺は、ベタでありふれているけれど、王道ともいえる手法を試してみた。

「じゃあ、無理には聞かないよ。その代わり、俺の話を聞いてくれる?」

 おうめさんは応えない。


「俺はね……故郷に好きな人を残してきたんだ」

 おうめさんは応えない。


「そのとは、手習い所みたいな所で出会ったんだけどね……初めは、そのは俺の友達の事を好きなんだと思ってたんだ」

 おうめさんは応えない。


「俺は、実はその友達の事をわりと尊敬していてさ……俺が昔、別の苛められっ子だった友達を助けて、俺も苛められるようになって、それを助けてくれたのがそいつだったんだ」

 おうめさんは応えない。


「それから、本当に仲の良い友達になってさ……この楽しさがいつまでも続いたらいいなって……心の底からそう思ってたんだ」

 おうめさんは応えない。


「それで、俺はそのに出会ったんだよ。心の底から好きで好きで、いつまでも考えていたいって……本当にそう思えるだったんだ……」

 おうめさんは応えない。


「でも、その尊敬している友達ってのはその女の子が好きで……そいつは女の子に想いを伝えたけど……振られて……ひょっとしたら俺が好きなんじゃないかって思わされて……そう思った矢先に別れることになったんだ」

 おうめさんは少し肩をすぼめた。


「だから……えっと……俺が言いたいことは……人間同士なんて、いつ会えなくなるかわからないってことで……」


――言葉が上手く出てこない。


 すると、やおらおうめさんが身を翻し、寝たまま顔をこちらに向けた。


「おめぇ、何泣いてんだよ」

「え?」


 自分でもやっと気付いた。


 俺はぼろぼろと涙をこぼしていた。

「あ……ごめん」


「まったく、説き伏せるつもりが泣いてどうすんだ。まことにまだ子供なんだなおぇ」


 おうめさんは、寝転んだまま言葉を続ける。

「オレはさ、屋次郎にぃちゃんに惚れてるんだ。それは知ってるよな?」


 俺は頷く。

「オレ、屋次郎にぃちゃんが水垢離みずごりして、二朱金にしゅきんを賽銭箱に入れようとしてまでオレの病を治そうとしてくれたこと、聞いたんだ」


「うん。俺はそれ、目の前で見たよ」

 俺が応えると、おうめさんは再び身を動かして仰向けになり、天井を見ながら応える。


「オレ、それ聞いて嬉しくってさぁ。もしかしたら、屋次郎にぃちゃんもオレのこと悪く思ってねぇかもしれねぇって思っちまったんだ」

「そんなの、大切に思ってるに決まってるだろ。屋次郎さんがどれだけ心配したと……」


 俺がそこまで言った所で、おうめさんが言葉をかぶせる。


「そうなんだよ。でも、それだけなんだ。オレは屋次郎にぃちゃんと夫婦めおとになりたいって思うくらいなんだ。でも、屋次郎にぃちゃんは、オレの事、いつまでもいつまでもいもうとか何かだとしか思ってねぇってしたら……そう考えたら、怖くなっちまったんだ」


 おうめさんはそこまで言うと涙を目に溜め、袖を顔の上に送る。

「オレはそれだけなんだ。にぃちゃんがオレの事思ってくれて嬉しいって思ったからこそ、いもうととしか思ってもらってねぇかもって思うと、たまらなく胸が苦しくなるんだ」


 おうめさんの、ぐすっぐすっとすすり泣く声が聞こえる。


「……オレは体もこんなにっこいし、屋次郎にぃちゃんに一生相手にされねぇって思うと、それだけで苦しいんだ……」


 そこまでおうめさんが言った所で、俺は返す。


「……だから、薬を飲まずに……食べ物も食べずに……このまま死のうと?」

「……自ら命を絶って、親不孝したらさい河原かわらだからな。病で死ねば、仏様も見逃してくれると思ったのさ」


 その言葉に、俺は少し感情が昂ぶった。しかし、それを外に出すことはしなかった。


「……もし、屋次郎さんが……君のことを妹のような存在としか思ってなくても……」


 不思議と、俺の口が独立意思を持ったかのように動き出す。


「……それでも、君は伝えるべきなんだよ。……自分の気持ちを。……そして、それがどういう結果になっても……それから前に進むべきなんだ」


 そう、これは俺が、俺そのものが、以前の俺自身に言いたい言葉に他ならなかった。


 東京から江戸に飛ばされる、ほんの一分前でも良かった。


 たとえどんなに離れていても、同じ時を生きている限り俺の気持ちは葉月に伝えられたはずであった。


 いつでも繋がることができるという事実が、かえって俺を臆病にしていた。


――気持ちや思いは、伝えようとしなければ伝わらないのに。


 俺がおうめさんにかけた言葉は、余裕ある者からの達観したアドバイスでもなんでもない。


 苦しんでいる者が、自らうごめいている泥沼の中から伸ばした手だ。


 幸いにも、それはおうめさんの心に届いたようであった。


 おうめさんは、改めて屋次郎さんに想いを伝えることを俺に告げてくれた。


――もしその約束がなければ、俺はずっと心の中で泣いていたかもしれない。



  ◇



 大晦日の昼下がり、屋次郎は一人布団の上で寝ているお梅に近寄った。


「お梅、りょうやから聞いたけどよ。話がしてぇってなんだ?」

 屋次郎の言葉に、お梅は口を開く。

「屋次郎にぃちゃん。りょうさんに言われたのさ。死ぬくらいなら、おのれの言いたい事、言ってからにしろってさ」


 屋次郎は、応える。

「死にてぇなんて思うなよ。言いたい事があるなら何でも言え」


 そして、お梅は若干目を潤ませる。

「屋次郎にぃちゃん、オレ、にぃちゃんの事が好きだ」


 そして、屋次郎も応える。

「ああ、おれもお前の事は好きだぜ。いもうとみてぇなもんだからな」

「違うんだよ。オレは違うんだよ……オレは、にぃちゃんと夫婦めおとになりてぇんだ」


 その言葉に、屋次郎は一瞬たじろぐ。

「あー……そうなのかよ。なるほど……そうだったのか……そりゃ悪かったな」


 お梅は応える。

「にぃちゃんはどう思ってんだ? 聞かせてくれよ」


 屋次郎は顔を引き締める。

「俺はよ、まぁ嬉しくなくはねぇよ。でもよ、俺はまだ大工として半人前だろ? まだ修行始めて五年しか経ってねぇしよ。所帯持つのはせめて十年くれぇは修行して一人前いっちょめぇになってからってことに決めてんだよ」


 その言葉に、お梅が返す。

「じゃぁさ、屋次郎にぃちゃんが一人前になって、そんときオレがまだしとだったらさ……オレのこと、お嫁に貰ってくれるか?」


 その言葉に、屋次郎は驚く。

「俺、年が明けたら二十になるぜ!? あと五年修行したら二十五だぜ!? そん時になったらお梅は二十三だろ!? おくれてんじゃねぇかよ! 俺は、お梅には幸せになって貰いてぇんだよ。そんな事をいることなんざできねぇよ」


「……もし、オレも屋次郎にぃちゃんもしとだったらの話だよ。……それでも嫌か?」

 そのお梅の純真な言葉に、屋次郎は少し困った顔をするが、すぐに意を決したような顔になる。


「わかったよ。俺が二十五になったとき、お互いしとだったらな。だからかゆ食べて薬飲め。そして早く病を治せ」

「……うん、わかった」


 その屋次郎のした約束に、お梅はほんのりと笑顔になった。



  ◇



 お梅さんと屋次郎さんが今いる部屋は、竹蔵さんの暮らしている長屋部屋のお向かいである。その部屋の一つ左、つまり鉄蔵さんというお爺さんの住んでいる部屋に、俺は竹蔵さんと一緒にお邪魔をしていた。


 俺たちは長屋の薄い壁に耳を当てて、先ほどからの会話を一部始終聞いていた。


 竹蔵さんが、口を開く。

「とうとう、おうめの奴、言っちまったなぁ」

「ああ、でもこれで生きる気力が湧いてくるといいんだけどね」


 俺たちがそう話していると、後ろの方から鉄蔵さんの娘さんであるおえいさんが、煙管きせるを持ったまま皮肉を交えて口を開く。

「大晦日に盗み聞きたぁ、いい趣味してるねぇ」


 すると、大晦日だというのに富士山の下絵を描いている鉄蔵さんが横顔で応える。

「別にいいじゃぁねぇか。長屋の人情噺にんじょうばなし、上等なもんだ」


 鉄蔵さんは、こちらを向かずににんまりと口角を上げる。


 そして、竹蔵さんが俺に伝える。

「まぁ、これでヤジさんも安心して年を越せるな。りょうの字のおかげだぜ」


「いや、俺は大したことをしてないよ」

 俺が少し照れると、鉄蔵さんが俺に告げる。

「でもよぅ、兄ちゃん神職見習いなんだろ? きっと今頃、やしろの方で兄ちゃん探してんじゃないか? もう少しで日が沈むからな」


 その言葉に、俺は焦る。

「あっ! そうだ! 徳三郎さんの手伝いに行かなきゃ!」


 俺は慌てて稲荷社いなりやしろに戻った。


 それはもう、大急ぎで。



 

 てんやわんやの年末年始がすっかり過ぎて、一月の三日になった日の事であった。


 本殿にて俺は、屋次郎さんと向かい合って座っていた。


 俺のすぐ隣には、徳三郎さんが神職の白衣袴姿で座っている。


 屋次郎さんは紙に包まれた小判を出し、それを俺の前に置いている。


 小判で八枚、すなわち八両あるという。平成の物価でいうところの40万円くらいの大金だ。


「頼む! りょうや! 受け取ってくれ! これは俺のけじめなんだ!」

 屋次郎さんが懇願するも、俺はどうしていいかわからない。


「えっと……どうしたの? 屋次郎さん、こんな大金?」


「親方や兄弟子から正月中に前借まえがりをして掻き集めてきたんでぇ! 俺の気持ちだ! 男の誠心せいしんを受けとらねぇのは男じゃねぇぜ!?」


――そう言われても、俺はそんなものを受け取る道理がない。


「えっと……そう言われても……受け取れないよ」

 俺がそう言うと、屋次郎さんは今度は徳三郎さんの方に向き直り、小判の包みを置き直した。


「じゃあよ、神主さまに渡すぜ! この金は俺がこの稲荷社いなりやしろへ捧げるもんだ! お布施ふせだと思ってくだせぇ!」


 すると、徳三郎さんは目を細める。


「ふむ、なるほど、お布施ふせかね」

「そうでやさぁ! りょうやに薬を貰ったってことは、ここのお稲荷いなりさまに薬を貰ったってことでやさぁ! だったら神主さまにお布施ふせを渡すのが道理ってものでやさぁ!」


 屋次郎さんは小判の入った紙包みを改めて、徳三郎さんの近くに置く。


 すると、徳三郎さんはその紙包みを摘みあげる。

「そうだな。布施ふせならば受け取るのが道理というものだろうな。確かにこの稲荷社いなりやしろで受け取ろう」


 徳三郎さんは手に持った小判の包みを持ち替えて、再び屋次郎さんの目の前である床に置く。そして言葉を伝える。

「では、こちらは私から屋次郎くんへのお祝い金だ。おうめさんの平癒へいゆ祝いのな。受け取りたまえ」


 その言葉に、屋次郎さんは目をぱちくりさせる。

「え? でもそしたら神主さまは……」

「おや? 男の誠心せいしんを受け取らないのは、男ではないのではなかったかね?」


 徳三郎さんが少し微笑んだ気がした。そして、言葉を続ける。

布施ふせとはな、何も金子きんすを渡すことだけが布施ふせではないのだよ。誰か人の事を誠心から思いやって苦しみを取り除いてやること。そして、神仏にかけて困っている者を助け、清く正しい生き方を心がけること。それも立派な布施ふせなのだよ。そう考えると、屋次郎くんはもう既に立派に布施ふせをしているといえるな」


 その徳三郎さんの言葉に、屋次郎さんは感極まったという表情を見せた。


「ありがとうごぜぇやす! ありがとうごぜぇやす! 俺はこれから死ぬまで、神仏に対する布施ふせをするつもりで生きていきやす!」


 屋次郎さんが男泣きをする姿を、俺はしっかりと見ていた。



 


 徳三郎さんの有り難い話が終わって、俺は屋次郎さんと一緒に竹蔵さんの店で稲荷寿司を食べていた。


 竹蔵さんが、屋次郎さんに問いかける。

「でもよう、ヤジさん。大晦日におうめに話してたこと、ちゃんと約束守るんだよなぁ?」


「え? あれおぇら聞いてたのかよ!?」

 屋次郎さんが、少し照れたようにびっくりした顔をする。俺は応える。

「あっと……実は隣の部屋で聞いてたんだ」


 すると、屋次郎さんは腕を組んで鼻息を鳴らす。

「へっ! 俺が一人前いっちょめぇになったとき、おうめはもう二十三か四くれぇだぜ!? 年増としまになってらぁ! そのころにゃぁ、いくらなんでも男ができてっだろ!」


 すると、竹蔵さんが囃し立てる。

「なんでぇヤジさん!? 約束やぶんのかよ!?」


「それはやぶらねぇよ! でもよぅ、あの年頃の女ってのは思い込みが激しいからよ! そのうち心変わりすっだろ! あと五年超えて俺の事想い続けるなんざ中々ねぇってことよ! はははっ!!」


 屋次郎さんは額に手のひらを当てて豪快に笑い、鼻歌を歌いながら稲荷社いなりやしろから離れ、正月の雑踏の中に消えていってしまった。


 残された竹蔵さんが、同じく残された俺に伝える。

「なぁ、りょうの字。おうめの奴、心変わりすると思うか?」

「いや……? しないんじゃないかな? そもそも二十三で結婚って、少し早い気もするし」


 すると、竹蔵さんが返す。

「いや、女で二十三は早くねぇだろ。でもよ、おそらくお梅は待つと思うんだよな。勘だけどよ」


「そうだね、おそらくそうだろうね」


 そんなことを話して、俺は徳三郎さんの手伝いをしに本殿に向かった。


 春の兆しが芽生えたか芽生えてないかという新春。

 新しい年の春の季節、文政六年正月の事であった。


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