(6) お掃除のおねえさん
午前5時を過ぎ、顔を洗ったSVがタオルを首に巻きながら総務部から届いた最新のウェザーリポートを確認すると雨の予報はさらに時間が伸びて朝8時前後までは雨が降る可能性があるとのことだった。
6時近くなってもいばら姫の城の上は分厚い灰色の雲で覆われていた。
徹夜明けのSVに出勤した久保田がコーヒーを入れてくれて、お礼を言って一口すすっていると廊下にパタパタと歩く音が響いた。
メンバーのうち最初にオフィスに現れたこまちはあくびをしながら、タイムレコーダーに「おはご……」と挨拶し、合成音声が返事を返すのを確認すると、くるりと身を返してSVと久保田に「おはようございます」と頭を下げた。その姿はいつもの私服姿ではなく、メンテナンス・コスチュームという作業服姿だった。専用の帽子もかぶっていて、それはそれで似合っていた。
その後も続々イシューを終えたメンバーが集まり、オフィスの中が賑やかになった。そしてSVがみんなを呼んで朝礼を始めたのだが、藤森が全員ではないことに気が付いた。この企画の提案者である舞の姿が見えないのだ。
「まいちゃんはどうしたんですか?」
SVは運営情報のプリントを配りながら答えた。
「舞はコスチュームのフィッティングに時間がかかってるみたいね。それに、ほかにちょっとやることがあってね、あとで合流することになっているのよ」
いずみがいないことに美咲とさくらが気が付いて、美咲がきょろきょろ周りを見回してからさくらの耳にささやいた。
「いずみん、いないね」
「強制じゃ、ないから」
「そっかー。いずみん、寝起き弱いっていってたし、しょうがないよね」
プリントを配り終えたSVはみんなの姿を見て、顎に手を当てて少し笑った。
「なんだか、違うロケーションにいるみたいね」
みんなから小さな笑い声が返ってきた。青色を主体にした自分のメンテナンス・コスチューム姿をひらひらと確認しながら、美咲は少し苦笑いしてみせた。
「なんか、似合わないね」
「でも、働く、て感じがするよ」
さくらもいつもと違う自分の姿がおかしいのか、美咲と顔を互いに見合わせて小さく笑った。
SVが「じゃあ、朝礼始めるわよ」と注目させて、前日の情報を伝えた。
「昨日は悪天候でキャンセルが出たことと、パークのインパークが少なかった影響もあって、残念ながら予定していた集客数には至りませんでした。まあ、お天気には勝てないってことよね」
そして、プリントを読みながら、話を進めた。
「今日は午前中は雨だけど午後からは晴れて暑くなる予報だから、体調に気を付けてゲストをたくさん呼び込んじゃいましょうね」
はぁーい! という返事がみんなから帰ってきて、SVは満足そうにうなずいた。久保田が社内の伝達事項を教え、今日の予定が伝えられると朝礼は終了した。
**
時計が朝7時を少し過ぎたころ、メンバーはアドベンチャーラグーン・ステージの客席に向かってオンステージを歩いていた。開園前のパークはまだBGMが流れておらず、朝食を探す鳥たちの会話や植栽たちが互いをこすり合わせて鳴らすリズムが、少し湿気を帯びた風に乗ってみんなの耳までダイレクトに届いていた。音楽がないというだけで、いつものパークとは違う別空間のように思えた。
一団となって歩いていると、開錠の依頼でもあったのかブレザー姿のセキュリティー・キャストがGGMのケースを肩にかけて自転車で隣を通り過ぎた。
いつもは灯台あたりにぷかぷか浮かんでいる鴨が数羽が植栽に腰を下ろして見守る中、ステージの客席でナイトクリンナップと呼ばれる作業服姿の男性キャストが残水処理の手順をみんなに説明していた。
客席には夜中に降った雨水がたっぷり残っていて、つばさが声に出さず「むー…」と唸っていた。
客席はただ拭くのではなく雨で緩んでささくれや割れ、釘などの飛び出しがないかを確認しながら行う事、水を含んだダスタータオルはバケツか植栽などの濡れて困らない場所で絞る事、ゲストがいるときは絞るところを見せない事などの説明を受けた。
みんな言われた通りに作業を進めていく。慣れてないせいでもたついているが、人数が多いので普段より早く作業が進んでいく。
こまちとつばさが汗ばんだ顔を並べてベンチを拭いていた。いつのまにか二人が競争みたいになっていて、田澤が「競争じゃないんだから」とたしなめていた。そのSTARの様子を見て、美咲とさくらが顔を見合わせてクスリと笑った。さくらが美咲に作業を続けながら声をかけた。
「これで、この前より、お客さん増える、かな?」
「そうだねー。ベンチに座れれば見てくれる人も増える気がするよー」
広森がバケツにダスタータオルを絞っていると、こまちがそれをじーっとみていた。
「どうしたの? こまちちゃん?」
しばらく眺めていたこまちが、ぴゃーっと表情を変えて一言、妙に楽しそうに声を上げた。
「女子力!」
「ええ!?」
たぶん、褒められたんだろうと思った広森が、「あ、ありがとう…?」と返事をすると、むふふんと嬉しそうに田澤たちのもとに戻っていった。
しばらくすると、カートに乗った花の苗が届けられた。
カラフルな亜熱帯を思わせる花々で、指導役のキャストが植栽の植え替えをすること説明した。客席周辺のプランターのしおれた花を交換するということで、藤森とさくらが手伝うことになった。2人が植え替えるのはペチュニアの一種らしく2種類の花が咲いていた。
さくらが「これ、何色って、いうんだろう?」とつぶやくと、藤森がワインベルベットだと教えてくれた。なんでも藤森のお母さんがペチュニアが好きで毎年育てているのだという。
「りさちゃん、すごいね。私、そういう女の子っぽいこと、全然、しらないし」
さくらがそう感心すると、藤森が「そんなことないですよー」とずいぶんと恥ずかしがっていた。そのせいなのか、藤森が植木鉢に山盛りに土をざくざく積み上げてさくらがあわてて止めていた。
ステージ回りの作業が終わると、指導役のキャストがみんなを集めて声をかけた。
「おかげで時間に余裕ができました。これで、もっと細かい修繕に時間を使えます。ありがとうございました」
美咲が音頭を取る形で、みんなで「いつもありがとうございます」と頭を下げた。指導役のキャストはちょっと照れくさそうにしていた。さくらが、周りを見渡してSVを探すと姿が見えない。美咲に所在を尋ねたが「んー? ……」と首をかしげていた。
そこに、クリンナップ・アーティストのコスチュームを着た、大学生くらいのお姉さんがやってきた。みんなの姿を確認したあと、「アンバサダーのみなさんですよね?」と尋ねた。みんながそれぞれ「そうでーす」とか「はい」とか返事すると、お姉さんは「おはようございます」と挨拶を返した。
お姉さんが言うには、SVはステージの修繕を手伝っていて、客席の清掃が終わったらメンバーを連れて行ってほしい、といっていたというだった。
ようするに手伝え、ということだと理解した広森がうなずいた。
「今度はレストルームの清掃をお手伝いするんですね」
「はい。……アンバサダーの方にさせるのは気が引けるんですが……」
「いえ、同じキャストですし、ね?」
みんなの方をみると、さくらと藤森はうんうん、うなずいていたが、美咲が視線を逸らした。こまちとつばさが「トイレかぁ」と少し残念そうな顔をしたので、田澤が両手で2人の頭を軽くたたいて「文句言わないの」と母親のようにたしなめていた。美咲はそのレストルームが以前いずみが「臭いがダメ」といっていたレストルームだと気がついた。
「あれ、いずみんのいってたトイレだ」
「汚れてるの、かな?」
さくらとひそひそ話していると、田澤が何かに気が付いた。
「……男性用のもするの?」
みんなが「あ…」と固まったのを見て、お姉さんが苦笑いしていた。
レストルームの前でみんなが固まってどうするか相談していた。
お姉さんがいうには、普段は先に男性用をきれいにしてから個室の多い女性用を清掃しているそうで、男性用はそんなに手をかけていないとのことだった。
「開園中は、男性用のレストルームには女の子はちょっと入りずらいしね」
お姉さんは女性用だけ清掃してもいい、男性用は私たちでやるから、と提案してくれた。だが、それはそれで悪い気もする。どうしようかみんな悩んでいると、思い切ってつばさが中に入るといいだした。
「男用のトイレとか入ったことないし」
つばさは、踏ん切りをつけたのか、とぉーっ と口にしながら中に入っていった。その背中を見送りつつ、こまちと田澤が顔を見合わせていた。
そして、田澤が中を指差して言った。
「……みんなでやろっか?」
中に入るとすでに、化粧台のあるエリアの床をモップで水拭きしているクリンナップ・アーティストがいた。そのキャストはコスチュームのベレー帽をかぶっているが、後ろでまとめた髪で女性だとわかった。
もともと施設自体はきれいに作られているので、水できれいに磨かれていると清潔感がが出てくる。洗面台もきれいにされていて鏡もピカピカだった。
よく見ると、洗面台を清掃しているもう一人の女性キャストがいるのに気が付いた。どうやらこの二人がこのレストルームを磨き上げたらしい。
とても「遊園地の公衆トイレ」には見えない。
「きれーだなぁ……」
つばさがしみじみとつぶやくと、床を磨いていたそのキャストがモップを止めて、つばさの方に顔を向けた。
「そりゃそうよ。1時間近く徹底的に掃除したんだから」
「おはよう、つばさちゃん」
「おわぁ いずみん!?」
つばさが大きな声を出して、あとから入ってきたみんなを驚かせた。
こまちが二人の姿を見て、ぴゃーと声をあげた。
「まいちゃん!」
「みんな、おつかれさま」
「おつか!」
舞はちょっと恥ずかしそうに小さく手を上げていたが、隣のいずみが得意そうに「ふふふん」と笑っていた。自分たちとは違い、クリンナップ・アーティストのコスチュームを着ているのを見て、美咲がうらやましそうな声をだした。
「えー!! なに、そのコスチューム!」
「どうよ。やっぱり掃除は気分よくやらないと。このコス、結構好きなんだよねぇ」
美咲がいいなーいいなーと口にしながら、いずみのコスチュームをしげしげと眺めていた。さくらはその様子をぽかんとしばらく見ていたが、やがて、当然ともいえる疑問が浮かんだ。
「どうして、いずみちゃんが、ここに?」
「前からずーっと気になってたのよね。変なにおいもしてたしさ、芳香剤の臭いでごまかしてるのが気に入らなかったし」
みんなの後についてきたお姉さんが
「あはは……トイレの清掃は後回しになりがちで……」
と釈明していた。舞がはっとして「すみません、すみません、文句とかじゃないです」と弁明していた。ただ、いずみの表情はべつに文句をいうとかそういうものではなかった。いずみはお姉さんに向かって少し笑顔を作って見せた。
「本当は、お姉さんたちもあの臭い苦手だったでしょ」
「えへへ……正直にいえば……いかにもお手洗いって感じするもんね」
「私たちはこうやって手伝うだけで済むけど、お姉さんたちは毎日なんだよね」
さくらがいずみが以前ゲスト対応した時のことに気が付いて、あっと声を出さずに口を開いた。その時、お姉さんが芳香剤の臭いがダメで…みたいなことをいっていた。それをいずみが横目で見ていたことも。
気にしてないようでちゃんと覚えていたんだ。
ゲストも当然だけど毎日ここを清掃するキャストだってそれは嫌だよね。だからいずみちゃんはここを清掃することを提案したんだ、とさくらは思った。
「……そうだよね。お姉さんたちは、毎日、だもんね」
さくらがいずみに視線を向けると、いずみは視線を逸らした。
「ま、毎日あの臭いだとキツイかな、って思っただけだし」
お姉さんもどうやら理解したらしく、2人の視線を受けていずみはますます顔を赤くした。小さくコホンと咳払いしてから、気を取り直して口を開いた。
「ここは私と舞が仕上げるから、みんなはこのキャストさんと女子の方をお願いね」
「いずみん、意外とノリノリだね」
「いいじゃない! 気分よ気分!」
美咲がいたずらっ子の表情を浮かべているのを、いずみは視線をそらして表面上はスルーした。いったん表に出て女性用に移動していると、さくらが空を見上げていた。
さっきより雲の色が濃く、風も強くなっている気がする。
美咲に声をかけられて、すこし外を気にしながら一緒にレストルームに入っていった。お姉さんの指導を受けて、いずみと舞以外のメンバーは女性用レストルームの化粧台やベビーベッド周辺のクリンナップ作業を進めていった。個室や床はすでにナイト・クリンナップのキャストが掃除を終わらせていて、みんなはそれ以外の場所を掃除することになった。
特に普段軽く清掃するだけの鏡や洗面台の周辺を丁寧に磨き、最後に入り口正面の台にある花瓶の花を交換して作業は終了した。
SVがいずみと舞を連れて女性用レストルームにやってくると、きれいになった化粧台周辺を見てずいぶんと驚いていた。
「すごいわね、これならゲストも気分がいいはずよ」
みんな、互いに顔を見合わせて満足そうな表情を浮かべた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます