(2) ちいさな不安
舞と藤森は、昨日のトレーニングでみんなについていけない振りが何か所かあったこともあり、ダンスの基本から教え直してもらっていた。
トレーナーは腰に手を当てながら、二人の動きを見ていた。ここで教えられているダンスは、基本的にはジャズダンスの流れをくむもののテーマパーク独特のものだった。学校では習うのはヒップホップで、ここで教わるものとは動きが微妙に違う。だから、体育で習った程度のダンス経験ではあまり意味はない。
もちろん初心者相手なのだから、いきなり本格的なものを教えるわけはなくステップや回転なども簡単なものが中心ではある。だが、ジャズダンスの経験のないメンバーにとってはなかなか厳しいものがあった。
メンバーのうち経験者はいずみと広森だけで、いずみにいわせると、
"私はたまたまジャズダンスの経験があるからうまく見えるのであって、逆にヒップホップは好きじゃない。まあ、できるけど"
とのことだし、広森も
"リズムに乗るダンスの動きはすぐには慣れない"
と言っていた。
だから未経験者ならできなくてもしかたない、気にするな、というのが二人の意見だった。そうはいうのだけれど、舞や藤森からしてみれば未経験者のはずのこまちやつばさは初回から一発で決めていたわけで、どうしても危機感を持たずにはいられなかった。
もっとも自信がないのは美咲もさくらも同じだった。ついていけない、わけではない。だが美咲はオーディションの段階で盛大にすっ転んでいたし、決してほめられるようなものではない。さくらは、まあ、「普通」だろう。自分自身でもそう評していたし、こまちにも「普通!」と言われていた。いや、こまち的にはこれは決して否定的な意味ではないだろうが。
何度目かのエイトカントを数えた後、トレーナーが手を叩いて二人を止めた。
「はい、いったん休憩。乱れてきたわよ?」
舞と藤森は顔を汗だらけにし、ゼイゼイ呼吸しながら「はい」と答えた。トレーナーが「ちょっとオフィスにいってくるから」と言い残すと、廊下に出ていった。舞と藤森はその場に座り込んだ。
天井を見上げて、しみじみ舞はつぶやいた。
「わたし、才能ないのかなぁ……」
藤森が首をぶんぶん横に振って否定した。
「そんなことないですよ! 私より上手じゃないですか」
「そうかなぁ……」
――首筋に冷たいものが走った。
猫がしっぽを踏まれたような、変な声が響いた。
「え!? なに!?」
あわてて振り向くと、"リフレッシュドリンク"のペットボトルを2つ持った美咲が腰をかがめていた。
「美咲ちゃん!? OFF日じゃないの?」
「えへへー さくらもいるよ?」
美咲の後ろに遠慮しがちに立っているさくらが見えた。
「ごめん、ね。脅かしちゃった、ね?」
ぽかんとさくらの顔を見ていると、そっと美咲がペットボトルを差し出してきた。
「はい、これ。頑張ってるって聞いたから、これ、差し入れ」
「え!? いいの!? あ……ありがとう」
藤森さんにもー、と美咲がもう一本を藤森に渡すと、藤森もお礼をいって受け取った。舞は、美咲とさくらがトレーニングウェアを着ていることに気が付いた。
「二人とも、トレーニングウェアだね?」
美咲がたはは、と笑った。
「うん。私たちも混ぜてもらおうかってさくらがね。それもいいかなって」
「だめ、かな? 邪魔、かな?」
舞はふたりの顔をまじまじと眺めた。
「二人とも、別に下手じゃなかったでしょ? さくらちゃん、失敗してなかったし」
美咲が髪をかいて昨日のことをバツが悪そうに弁解し始めた。
「失敗したとは思ってなかったんだけど、なんかへっぽこな動きだったし、ね……」
さくらも舞の顔をみて、正直に思ったところを話した。
「あのね、私も……、正直いうとね、何か所も、間違ってたし。ちゃんとできたって実感、なかったんだ」
舞ちゃんが頑張ってるなら、私たちも頑張らないとって二人で話したんだよ、美咲はそう舞に教えた。美咲が
「やっぱり、邪魔だった?」
と聞くと、藤森も舞も首を全力で振って
「そんなことない! 」
と否定した。
さくらと美咲の顔をみて、舞は、うれしそうに、そして、ちょっだけと照れながらうなずいた。
「うん。一緒に練習しよ? みんなでやれば、きっと楽しいよ」
――いい覚悟だ。見直したぞ、舞!
へ? とみんながドアの方をみると、トレーナーさんが腰に手を当てて、なにやら満足げな顔をしていた。
「いいぞ、美咲、さくら。そういうことなら2人とも大歓迎だ」
右手にもった資料をライフルのように丸めて、それを美咲たちに向け突き出した。
「よし、アイソレーションからだ。その後、課題曲を頭から。ほら、始める!」
数分後、体の硬い美咲と舞の悲鳴が廊下にまで響いていった。
21時を過ぎて家に帰ってきたさくらは、カバンの中に入れたスマホがブルブル震えているのに気が付いた。靴を脱ぎながらスマホを片手に持って、電話に出る。
相手は母親だった。
リビングのドアを開け、右手で壁をまさぐりながら明りのスイッチを入れる。
母親はスニーカーを買いに行けたかどうか気にしていたようだった。この後しばらく電話に出れないから。そう伝えてきた。
『で、どうだった? ちゃんと買えた? 』
「うん。買えたよ。美咲ちゃんと、いっしょに……」
『そう、それならよかったわ。じゃあ、頑張んなさいね』
「……お母さんも、お仕事、頑張って」
はいはい、といって母親は電話を切った。
薄暗い夜間救急の誰もいない待合室の隅で、母親は携帯をたたんでそっと外を見た。窓に映った自分の顔が、妙に「母親」をしていることに気が付いて小さく笑った。自分の知らない間に、娘は少しだけ成長していたらしい。それが実感できたことが小さな幸せだった。関係者用のドアが開いて、男性医師が声をかけてきた。
「井川先生すみません。さっきの患者さんのブルスト、もう一回見てもらえますか?」
あ、はーい、と返事をして母親は白衣をひるがえし診察室に戻っていった。
さくらと羽後いずみで別れた後、美咲はさくらに遅れること30分ほどで自宅に戻った。飯島家は土崎の自衛隊通りから少し裏通りに入った新興住宅地の一角にある。有名住宅メーカーが建てた戸建住宅の黒いドアを開けて玄関に入った。ローファーを脱いで、父親の半長靴の隣に並べる。ただいまぁ、と声をかけて居間に入る。
父親はテレビを見ながらビールを飲んでいた。
おう、おかえり、と父親が声をかけた。
それに母親も気が付いておかえり、おそかったねと口にした。
ダイニングのテーブルにはラップをかぶせた夕食が並び、美咲が手を洗う間に母親は鍋を火にかけて夕食を温めなおしていた。手を拭きながら美咲がダイニングに戻ると、母親が美咲にスニーカーを買えたのか尋ねた。
「うん、買えたよ。もうあっちに置いてきちゃったけど。あ、写真とってあるよ」
スマホを取り出そうと制服のスカートのポケットに手を入れた。
その時、美咲を一回り小さくしたような妹が後ろから抱きついてきた。
「お姉ちゃん、おかえり~! 今日もお仕事だったの?」
「今日は自主トレで……、あ、お母さん、これだよ」
母親は差し出されたスマホの画面を見ながら「へんなスニーカーねぇ」とつぶやいた。妹が母の周りでぴょんぴょん跳ねながらその画面をみる。
「お姉ちゃん、なにこの靴?」
「これはダンスに使うの」
「いーなぁー」
私もほしい! という妹に、母親はあんたは関係ないでしょといってダメだしする。母親がダメとわかると、妹は父親にわたしもダンスやりたいーと抱きつく。父親は妹に、おまえこの前は銃剣道やるっていってただろ? と興味が長続きしないことをあれこれ指摘していいくるめようとしていた。
妹が父親とべったりしているのを横目でみながら、母親は「これで、あってるの?」と美咲に尋ねる。
「そうだよ、本格的でしょ?」
そういうと、いつもの笑顔を母親に向けた。
「大事に履かないとねェ」
さくらにいったことと、真逆の事を美咲はいった。
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