第4章 揺れる心 つながる心

(1) ダンススニーカー




 外はいい天気で、白味の強い朝の日差しが部屋の中を照射していた。井川家の月曜の朝はいつも少し忙しい。ゴミ出しもあるし、週明けで患者さんが多いのでいつもより早めに診察の準備を始めないといけない。

 母親がバタバタしている間、制服に着替えたさくらは猫に朝食のカリカリと小袋に入った猫用クッキーを与えていた。食事に夢中になっている猫をなでながら、さくらは母親に話しかけた。


 「あのね、お母さん。今日、帰りに美咲ちゃんと、ダンススニーカー買に行くから。遅くなる、と思う」

 「そうなの? お金は? 足りる?」

 「おこずかいとか、お年玉とか、貯めてあるから」

 「わかったわ。ちょっと待ってなさい」


 母親はエプロンをキッチンの壁にかけ、キッチンカウンター脇の電話台の引き出しを開けた。中から白い封筒を取り出すと、それをもってさくらの前に歩いてきた。さくらが気が付いて立ち上がると、母親はそれを渡した。中身を見ると1万円札が1枚入っていた。


 「お、お母さん!? 」

 「いいからいいから。それでそのスニーカー買っておいで」


 母親は優しそうな、穏やかな顔でさくらに話しかけた。


 「さくらが初めて仕事をしたお祝いよ。それに、いつも家の事任せているからそのお礼もね」

 「……」


 さくらが戸惑っていると、母親は少し大げさに笑って見せた。


 「しかし、さくらがねぇ……自分から何かをはじめるなんて、お母さんうれしいわ」

 「大げさ……」


 でも、ありがとう。さくらは少し照れながらそう答えた。



          **



 午前中の風は涼しかったのに、夏を目前に空もウォーミングアップを始めたのか、あちこちの道路で陽炎が揺れていた。


 美咲とさくらは学校の放課後、掃除当番を済ませてから電車に乗っていつもの通勤ルートを進んだ。だが、今日はパーク最寄の一つ手前にあたる羽後牛島駅で降りた。ボタンを押して電車のドアを開けたとき、むっとするような熱を帯びた空気を肌で感じた。羽後牛島のホームは昨年終わった近代化事業によってきれいになっている。真ん中の階段から地下の改札口に降りるとエアコンが効いていて涼しかった。2つある自動改札の片方を順番に進んで、広くなった新しい地下コンコースに貼られた周辺地図を見る。美咲がえーと……と指をさして目的の場所を探す。


 「広森さん、ラジオのアンテナが、とかいってたよね」


 広森はメモに目印のラジオのアンテナは「一番上にお皿が乗ってて、紐みたいのが三角形に……」といって絵に描いていてくれていた。さくらも隣で地図を見ると、地元ラジオ局の送信所なる場所が駐車場のど真ん中にあるショッピングセンターをみつけた。


 「ここ、じゃない、かな?」


 美咲がメモを読み直してお店の名前を調べると、どうやら正解らしい。


 「そうみたいだね。よし、そんなに遠くなさそうだし! 頑張って歩こう!」


 そういって歩き出すと、さくらが立ち止まっている。


 「どうしたの? 歩くの嫌? トレーナーさんも体力付けないとっていってたよ~」

 「……美咲ちゃん、そっち、反対、だよ?」 


 美咲は、じゃあ、こっち! とくるりと向きを変えて歩き出した。



 40分ほどたって、美咲とさくらは目的のショッピングセンターにたどり着いた。直線距離を地図で見たとき、美咲もさくらも「そんなに遠くない」と判断していたが大間違いだった。地図ではわかりにくかったが川があり、途中の細い道路もわかりにくく実際の距離は2kmちかくあった。


 スマホでなんども地図を確認しながら住宅地を進み、南側の細い道から裏側の駐車場の坂を上ってすぐの場所に目的のスポーツショップはあった。駐車場のずっと向こうには大きな道路があり、見慣れたパーク行きのホテルシャトルバスが通過して行った。それを見た美咲が苦虫を半分ほど噛み潰したような顔をしていた。


 「……バスで来ればよかったね」

 「でも、どのバスに、乗ればいいのか、わからないし」


 全国展開しているスポーツ量販店の中に入り、エントランスの壁に貼られた店内案内図を見てみるがいまいちよくわからない。さくらにとってはスポーツ量販店に来ることも、友達と2人で買い物に来るのも久しく経験がないことだった。

 数年に1度の大事業を前に、どうしようか悩んで「美咲ちゃ……」と呼びかけようと右を向いた先には美咲はいなかった。

 レジの脇で男性の店員さんと何か話した後、店員さんは奥のオフィスに何かをいっていた。すぐに髪の長い若いお姉さんが出てきて、美咲がさくらにおいでおいでと手を振った。

 

 さくらは美咲と一緒にお姉さんに連れられて店の奥へと案内される。


 「ひょっとしてアーニメントのダンサーさんですか?」


 とお姉さんは尋ねてきた。

 美咲はなんだかうれしそうに答えていた。


 「いやーダンサーとはちょっと違うんですけどぉ、なんでわかったんですか? やっぱりオーラとか出るのかなぁ」


 お姉さんはくすくす笑って真相を語った。


 「このお店でダンススニーカーを探す方はほとんどキャストさんですよ」


 実をいうと、お姉さんも以前オーディションを受けていたそうで、残念ながら当時は不採用となってしまったそうだ。このお店でダンス関連の商品を扱ったのもちょうどその頃で、問い合わせが多かったことから取り扱いが決まったということだった。

 

 お店の奥のトレッキング関連とテニス・バスケットボール関連の陳列の間に、あまり量は多くないもののダンス関連用品の取り扱いがある。ダンススニーカーなんて履いたこともない二人のためにお姉さんがいろいろアドバイスしてくれた。


  実際に履いてみて、爪先立ちしてみてください

  指先がきつくないですか? 多少余裕がある方がいいですよ

  普通の靴とは靴底が違うので、歩いてみて痛かったりしないか試してみてね

 

 さくらはいずみから「足首をグキッてしたくないなら、ハイカットにしておきなよ」といわれていたのを思い出して、お姉さんに聞いた。棚からいくつか候補を二人に渡してくれた。

 

 アドバイスに従って、さくらも美咲といっしょにいろいろ履いてみる。

 3回目に棚を見たとき、黒地にブルーのラインの入ったものを見つけた。

 もともと青い色が好きなさくらは、それを履いてみる。

 軽くジャンプすると、履き心地がよく、爪先立ちしても痛くもきつくもない。

 これ、いいな、いくらだろう? 


 棚の値段をみると14000円だった。


 母親からもらった1万円と自分の貯金を足せば余裕で買える。そう思ったさくらは、これにしようと決めた。美咲はどうしてるだろう、と思って左で腰をかがめてスニーカーを履いているのに気が付いて視線を向けた。

 同じようなスニーカーの色違いを履いていた美咲は、これいいなぁ、とつぶやいていた。さくらは、きまった? と声をかけた。

 美咲は履いていたスニーカーを脱いで


 「これがいいと思ったんだけど、やっぱりいいヤツは高いねぇ」


 とちょっと残念そうだった。

 美咲が棚に戻す時、さくらはそのスニーカーの値札が9800円だと気が付いた。そのままその隣にある、同じように黒地にイエロー帯のスニーカーを手に取った。美咲はしゃがんでそれを履きながら「さくらはきまったの?」と聞いた。


 うん、と返事すると、そっかーと答え、すくっと立ち上がった。


 そして、何度かジャンプするとさくらにどう? 似合う? と尋ねた。

 さくらが黄色は美咲ちゃんらしくて似合うと思う、というと、美咲はいつもの笑顔を見せた。


 「よーし、じゃあ、これに決めちゃおう」


 さくらが改めて値札を確認すると、その値段は5700円(税別)だった。


 「さくらはどれにしたの?」

 「え!? えっと、これ……」


 棚に置いてある展示品を指差した。


 「へー、これかぁ。さくらは青が好きなの?」

 「う、うん」

 「意外だけど、似合いそうじゃん」


 値段ははっきりわかったはずなのに、美咲はその点には何も言わず、上機嫌そうだった。さくらは、自分が意識しすぎなんじゃないか、とも思った。しかし、自分が母子家庭とはいえ経済的な面では美咲より恵まれているという事実に今更ながら思い至った。美咲の家は公務員の家庭だし、別段お金に困っているわけではない。ごく普通の中流家庭であり、美咲もその点に何の不満もない。さくらはそこまでの事情を知っているわけではない。だからなのか、自分が躊躇なく友達のものの2倍以上の値段の商品を選んだことに何となく後ろめたさを感じた。


 ―― 急に恥ずかしくなって手に抱えたスニーカーの箱をぎゅっと抱きしめた。


 さくらの表情からそれを読んだのか、美咲が表情を緩めて、さくらにことさら明るい笑顔を見せた。


 「わたし、動き激しいからさ、履き潰す気でいるんだー。だから安くていいの探してたんだよねー」


 ちょうどいいの見つかってよかったよー、と美咲が顔をほころばせ、お姉さんに会計をお願いする。こちらへどうぞ、とお姉さんが案内してくれた。


 美咲と友達になれてよかった。さくらは心からそう思いながら少し遅れて2人の後を追いかけた。



          **



 買い物を終えて、スーパーに併設されたファストフード店で時間をつぶすことになった。美咲が季節限定のシェークを口にしながら考えていた。


 「よく考えたらさ、オフィス目の前じゃん? このまま一回オフィスによってロッカーに置いてきた方がよくない?」

 「そう、かも…… でも、勤務日じゃないし、いいのかな?」

 「SVに電話してみる」


 美咲はポケットからスマホを取り出すと、電話をSVの携帯に電話をかけた。呼び出し音も少なめに、すぐにSVは出た。美咲はざっくりと事情を説明した。


 「スニーカー買ったから、今からロッカーに置きに行っちゃダメ?」

 『別にいいわよ? ID持ってきてる? 』

 「あります。さくらも……あるって」

 『じゃあ、車で送ってあげるから。ちょうど用事もあったし』

 「え? いいの?」

 『別にいいわよ。目の前にいるんだから』


 へ? と美咲が後ろに聞こえた物音に気が付いて振り向くと、スーパーの買い物袋を持ったSVが立っていた。


 「気が付かなかったの?」

 「いつからいたの?」

 「さっきあんたたちがそれを注文してた時よ」


 美咲はSVが片手に下げた和菓子だとかお茶だとかが入ったスーパーの袋を見た。


 「なんでそんな買い物してるの?」

 「INOUEの本社から役員連中が来るのよ。それで、買いだし」

 「なるほどー」

 「ったく、おじさま、こういうのはお前の得意分野だろ、とか無茶ブリなんかして」


 その格好はどう見ても仕事帰りに買い物をするアラサーOLかなんかだった。さくらはいつもと違うSVの様子がおかしかったらしく、笑いをこらえるような表情だった。


 「SVさん、なんかいつもと、ちがいます、ね」

 「ここは社内じゃないし、プライベートだからね。気にしてられないわ」


 さあ、行くわよ。車は目の前に止めてるから、と、2人を車に先導してゆく。さくらたちは飲み干したシェークの紙コップを、フードコート脇のごみ箱に捨てて後についていった。



 SVが乗ってきた車はいつもの社有車で、後ろの席に美咲とさくらを乗せて駐車場を出発した。 ショッピングセンターとパークは雄物川を挟んですぐ反対側で、川沿いの堤防を進めばすぐ本社ゲートにたどり着く。本社ゲートでセキュリティ・オフィサーにIDカードを提示して、車に乗ったままエンターテイメント棟の駐車場に向かった。ショッピングセンターを出発してものの15分ぐらいだった。

 3人でオフィスに向かうと、城野と久保田がコーヒーメーカーやカップをもって廊下に出るところだった。久保田がさくらたちに気が付いた。


 「おはようござます。今日は高校生組はOFF日なのにみなさんとよくあいますね」

 「誰か来てるんですか?」


 美咲が尋ねると、久保田は穏やかな笑顔を浮かべてうなずいた。


 「藤森さんと安浦浜さんが、今日自主トレに来ているんですよ」

 「まいちん……いえ、安浦浜さんたちがですか?」

 「ええ。トレーナーさんも今なら付き合えるから、と」


 さくらと美咲は顔を見合わせた。昨日別れた時にはそんな話は聞いてなかったからだ。SVは城野たちに買ってきた袋を渡しながら、二人に話しかけた。


 「舞たちも何か思うところがあるんでしょ? 邪魔したら駄目よ?」

 「わかってますって」


 さくらがSVにちょっと遠慮しがちに声をかけた。


 「あの……自主トレって……」

 「ああ、そうね。まだみんなにはいってなかったわね」


 自主トレーニングは、勤務時間以外の時間にダンスや歌唱のレッスンを自主的に行うことで、時給は出ないかわりにレッスン料などは一切かからない。トレーナーさんの時間やトレーニングルームの空き時間が合えば、基本的にいつでもOKなのだ。ただし、当然のことながら出社前に確認しておく必要はあるが。

 ようするに、事前に何らかの方法で了解さえ取っておけばいい、ということらしい。


 「トレーナールームなんてどこでも用意できるし、その気になったらいつでも手配するから」


 久保田が時間です、そろそろ……と促すとSVたちが、会議の手伝いにいくといいオフィスを後にする。


 残された美咲たちは「自主トレかー」と思いながら、ロッカールームに買ったばかりのスニーカーを持って入っていった。

 

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