断章 Ⅱ

 ゆるゆるとした足どりながら案内人は、剣匠の目的地である大伽藍へと確実に向かっている。それこそ最初から心得ていたかのようだ。

 いや、多分。知っていて姿を現したのに違いない。

 彼の欲望のぞみ、彼の悲願ねがい

 心の底から魂かけての願望である。そのためならば己の身など惜しくはない。

 つまり、この剣匠も一個の狂人なのだった。

 都市の中心である大天蓋を備えた伽藍は、建築というものにさほど興味のない剣匠であっても無関心ではいられぬものだ。

神の聖なる叡智の神殿アヤ=ソフィア〟にも匹敵する壮麗な建築物は、千差万別の色鮮やかなモザイクに彩られ、華麗な唐草模様や精緻極まる幾何学模様の種々で装飾されており、洋燈からもれる熱を感じさせぬ淡い光に浮かび上がる威容は、この驚異の都市の心臓たるに相応しかった。

 また、それらの華麗なる装飾は、外側だけでなく内部の隅々にいたるまで徹底され、見る者にいっそ魔術的な酩酊感をもたらすほどである。まさに神は細部に宿るだ。

 半円のアーチがいくつも連なる回廊をくぐり抜け、ようやくたどり着いた先で剣匠が目にしたのは、大天蓋の真下に広がる空間に屹立する柱にも似た『何か』である。

 ソレは一見漆黒の石柱のようにも見えた。が、単なる石というには不可思議な素材でできた直方体である。表面はどこまでも滑らかで、磨き抜かれた鏡のように周囲を反射しつつも、どういうわけか向こう側が透けて見える。かと言って、水晶や硝子の類でもない。ましてや空洞でもない。むしろ過剰なほどの密度と確かな質量をもって存在していた。

 ある意味ソレはこの都市の中心に穿たれた楔そのものだ。

「これは……」

「さてさて、貴方さまの求める答えは見つかりましょうか」

 案内人に促され、直方体へと近づいてみると、平らに見えた表面が微かに波打っているのが分かる。まるで金属でできた水のようだ。

 うっすらと浮かび上がった燐光が描くのは、様々な直線や曲線、あるいは点で構成された無数の記号である。縦横と乱雑かつ無秩序に明滅し、流れては消えてゆくそれらはアラビア文字であり、ヒエログリフであり、漢字であり、サンスクリットであり、アルファベットであり……この宇宙においてかつて存在し、またこれから現れるであろうありとあらゆる文明における文字であった。

 やがて、それらの記号は剣匠にも馴染みある文字に切り替わった。

 たった二つの文字。

 記号であり文字でもある数字。世にいうアラビア数字における0と1である。しかし、なぜ同じ数字ばかりが並ぶのか。疑問はつきなかったが、自身には理解しえぬ理由であろうと剣匠は考えるのをやめた。

 と、光が消える。

 そこにはがあった。

 何処かで何者かの翼が羽ばたく音がする。深淵よりもなお濃い闇の奥で、燃え上がる三つの目が閃いては消えた。

 静寂の彼方から時間と空間を揺るがす悍ましい咆哮が轟く。

 その瞬間、直方体の内部から突き出された触腕の先、巨大な鉤爪が剣匠の左目を抉り取った。

 同時に己の脳髄に探し求めていた禁断の知識が叩き込まれる。かの〝アル=アジフ〟の一葉。そこに記された技法わざこそ、剣匠が求めていたもの。

 絶叫なのか狂笑なのか区別のつかぬ、いや、こうなってはそのどちらでもあるのだろう哄笑が響く。

「やった、やった……やったぞ!」

 残された方の眼を爛々と輝かせ、剣匠は笑い続ける。

「俺は手に入れた!」

 歓喜の声を上げる剣匠にとって、今はその身を苛む苦痛すら気にならぬものであるらしい。むしろ激痛があるゆえにこそ、これが現実であると自覚させてくれるありがたいものだとさえ考えていた。

「お客人は運が良い」

 いつの間にか鉤爪は消え去っており、目の前にあった柱もただの石の塊と化していた。暗闇に光る文字も浮かんではおらず、ましてその表面が水面のように波立つこともない。

「本当に運が良い」

 案内人の口角が不自然なほど大きく上がる。それはまるで宙に浮かぶ三日月のようだった。



 





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