断章 Ⅰ

 東に向かって黙々と歩いていた男は、気怠そうに顔を上げて空を見た。

 晴れているとはいえ今宵は朔のために月は見えず、その光をあてにすることはできない。その代わりと言っては何だが、男の頭上には満天の星空が広がっていた。

 蒼黒の天幕てんまくにびっしりと宝石を散らしたかのような夜空は、思わず〝降るような〟という使い古された定型句を浮かべてしまうほど。殊に星々の光が密集して帯となり砂漠の天穹そらを横断している様は、息を呑むほどに美しくも妖しく神々の世界を垣間見る心地にさせた。

「……天の川ナハル・アル・ハリーブ

 星々の光を受けた彼の足下から延びる影。

 天地の下に己独りしかいないような感覚は、どこまでも研ぎ澄まされてゆき、あの空の彼方にまで拡がっていくかのようだ。

 この砂漠の何処かにいる賢者らも、こうした体験を得たいがために、荒地で孤独な瞑想に耽るのだろうか。

「美しいな。そう思わないか?」

 人語を解するはずもない駱駝相手に、何を言っているのかと思わないでもないが、〝何もない場所アッ=ルブア=ル=ハーリー〟を何日も彷徨っていれば、自然とこうなるというものだ。

 昼は灼熱、夜は極寒。

 見渡す限りの砂の海に覆われた大地は、おそらくこの地上で最も人間が生きにくい土地である。いかな砂漠の民といえども、都市生活に慣れた身には厳しい環境であることに違いはない。

 男は星の導きに従って、故郷のある北の地に向かって視線を走らせた。

 世界で最も古くから人が住み続ける都市であり、今なお繁栄し続けるディマシュク・アッシャーム、ローマ《ルーム》人からはダマスカスと呼ばれる都である。男は鍛冶を生業としている身であり、かの地でも名の知れた剣匠であった。

 そのような男が一人ルブアルハリに足を踏み入れたのは、いかなる理由があってのものなのか?

 余人には窺い知れぬものであろうが、男自身にとってはこれほど明確なものはなかった。

「千柱の都市イレムか……本当にあるのだろうか」

 アド最後の暴君シャダッドが築いたという伝説の都。

 そこに彼の求めるものがある。


「ありますとも」


 唐突な応え。

 喫驚した剣匠が慌てて周囲を見回した。

 確かに誰もいなかったはず。

 今、この時まで、確かに他者の姿などなかった。

 だが。


「ほら……そこに」


 長身痩躯の影が差す。

 砂漠の中にあるには異様なほどの軽装の男が指し示す彼方には、宮殿らしき巨大な円蓋建築を中心に無数の光塔が林立する壮麗な町の姿があった。

 呆然とする剣匠に向かって、影の男は豪奢な長衣の裾を翻しながら近づいてくる。星明りがあるとはいえ、さすがに男の顔までは判然とはしない。

 かの暴君は鬼神と共に都を作ったという。

 忽然と現れた男は、鬼神なのであろうか。それとも暴君そのひとなのか。いずれにせよ、只人ではありえなかった。

「入りたくないのですか?」

「あ、あなたは……」

「この町の案内人です」

 それにしては男の服装は豪華に過ぎたし、それなりに丁寧な口調を心がけているようだったが、態度は素っ気なく、また威風堂々としすぎていた。

「ついてきなさい」

 誘われるがまま、案内人と称する男についてゆく。

 道すがら様々な建物や通りの由来を説明し、関連した雑多な知識を開陳してみせる様は、確かに案内人と称するだけのことはあった。

 〝千柱の〟と形容されるイレムの町の最大の特徴は、大きさや高さに多少の差はあれど競い合うように建つ円い柱のような塔の群れだ。かのアレクサンドリアアル=イスカンダリーヤや〝黄金の〟と称されるコンスタンティノープルコンスタンティニエでさえ、これほどの威容は誇るまいと思える。

 しかし、決定的な差があった。

 人の匂いがしないのだ。生活臭というものがなく、かつて誰かが暮らしていたという痕跡すらない。遺跡というには真新しく、都市というには不自然な、ここはまるで時の停止した一個の巨大な墓のようだった。

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