第5話

 西日に照らされた境内に人の気配は絶えてなく、ただ寂寞せきばくとした空間が広がっているのみ。波の音すらひそやかであるにも関わらず、いとけない童子童女の歌声が何処からか聞こえてくる。


   遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん

   遊ぶ子供の声聞けば 我が身さへこそ揺るがるれ


 昼と夜とが入り混じり、彼方かなた此方こなたの境界線さえもあやふやになる薄明の世界。

 黄昏に沈みゆくなか、無心に歌う幼い子供の声だけが響く。

 


「───ま?」


 誰そ彼は。


「お侍さま?」

 振り向いた綱の目の前に女が一人。

「申し訳ございません、驚かせてしまいましたか?」

 若い、妙齢の女だ。どこぞの貴族に仕える女房でもあろうか。切袴きりばかま壺装束つぼしょうぞく、薄物の被衣かずきという格好は、よくある一般的な女人の外歩き姿だ。寺社参詣や市などで見かけることも少なくない。

 ましてや、ここは住吉社の境内。見かけない方がおかしいというもの。

「いや……いかがなさった」

 努めて何気ないふうを装ってはいたものの、いまだ身体中の毛穴という毛穴が開いたままなのは、うつつならざる異界を垣間見たせいか。

「もしや渡辺さまに所縁ゆかりあるお方ではございませんか?」

 女が大事そうに抱えた袋の中身は、その形からして琵琶だろうことが知れる。一瞬、遊女あそびめかとも思ったが、身形みなりは良いもののありがちな派手さはなく、浮わついたところも見受けられない。その所作も洗練されており、じつに卑しからぬ風情の女性にょしょうだ。

 うなづいてみせると、見るからに安堵した様子で女は息をつく。

「よかった。津守のご隠居さまをお訪ねでいらしたのですね」

「その通りだが……貴女あなたは?」

「失礼いたしました。わたくし菟原で庵を営んでおりました法師道満どうまんが孫でございます。翠鳥みどりとお呼びくださいませ」

 津守翁から依頼された護衛の対象本人である。まさかここで行き逢うとは思わなかった。

「こちらこそ失礼を。某は渡辺綱と申します」

「まあ」

 翠鳥と名乗った女が声を上げる。

「ご当主でいらしたなんて。まさか、ご隠居さま……」

「ええ。貴女を京までお送りするよう頼まれました」

「そんな、お忙しいでしょうに」

「構いませぬ。滝口のお役目のこともあり、普段から京と川尻を往き来しておりますので。近いとはいえ、何かと物騒な世の中です。ましてや最近は京の治安も良くない」

 綱の言葉に翠鳥が美しい眉を顰めた。

「それほどでございますか」

「あまり言いたくはありませんが。それに一昨々年さきおととしほどではないにしろ、いまだ疱瘡もがさも流行っております。ご隠居の心配ももっともかと」

 五月さつきから流行り始めた疫病は、この夏、猖獗しょうけつを極め、京師けいし中を席捲せっけんしていた。身分の上下や男女老少、一切斟酌しんしゃくすることなく、皆々に等しく襲いかかったのだ。

 そもそもの話、都の治安が良くないのも未だ政情が完全には安定していないからで、原因はといえば中関白なかのかんぱく藤原道隆みちたかが疫病で亡くなったことにある。長徳の変を起こした中関白家の兄弟も一度は左遷され、太宰府と出雲に追いやられていたが、すでに去年の内に京へと戻ってきている。無論、左大臣藤原道長が政権を握っている今、そう簡単に復職などかなうわけもない。

 ただ、伊周これちか隆家たかいえも未だ二十代だ。今上の寵愛深い妹の皇后が皇子を産み奉れば、いささかなりとも盛り返すことは可能だろう。何しろ左大臣が入内させようとしている娘は、十歳になるやならずといった年齢でしかない。

「正直言って、いま上洛するのはお勧めいたしかねます」

「……それでも。それでも京に行かねばなりません」

 きっぱりと彼女は言った。

「わたくしは知りたいのです。こう申してはなんですが、我が祖父はこの日本ひのもとでも一、二を争うほどの術者でございました。その祖父が常々口にしておりました言葉がございます」

 被衣の下のかんばせは固い決意に満ち、その双眸は落ちる夕日を反射して爛々と輝いている。

「真理をきわめたいのだと」

 それはほとんど誓約うけいのようだった。

「故に、わたくしは知りたい。どうして祖父が死んだのか。なぜ死なねばならなかったのか。なにゆえにあのような死を迎えたのか。わたくしは知りたいのです」

「そのために京へゆくとおっしゃるのか」

「はい。都には祖父を超える唯一人の御方がいらっしゃるとお聞きしております。古今随一の陰陽の道の達人が」

 夕闇の中、子供たちの笑い声が風に乗って聞こえる。

 微かに、ひそやかに。

 それは託宣たくせんのようでもあり、確かな予兆きざしでもあったのだ。

 


 

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