第二二話

 直後、一体の怨人が上空から飛来していることにリッチェは気付いた。

 精神的な緩急は激しかった事、術式を受け取った直後である事、編隊の調整に意識が取られていた事が重なり、完全にその個体を見落としていた。



 直径三〇メートル程度の肉塊だと思われたそれは、重力によって加速し一行の頭上まで急接近すると、折りたたんでいた手の平を広げる。

 まるで雪花のように六つの手の平が広げられ、その手の平と甲には巨大な眼球が露出している。手首の結合部分には巨大な口が付属していた。

 まるで網のように広がる怨人は直径は一〇〇メートルにも及ぶ勢いだ。



 そしてなおも一行を逃がすまいと降下している。


 ――マズイ!


 リッチェの脳裏にそんな感情が溢れた。 

 飛来する肉塊の大きさなら、気付いた段階では避けられる算段だった。だがそれがこれほど大きく変形するとは想定していなかった。



 リッチェの脳裏に最悪の光景が過ぎる最中、魔法術式は瞬く間に構築されると、瞬間的に収束し、背後から放たれた。

 その攻撃はその怨人の一翼を吹き飛ばし襲撃網に穴を開ける。


 リッチェが振り返ると、虚ろな瞳で魔法を放ったテサロの姿があった。



「しっか……と、前を……さい」



 テサロは叱責の言葉もままならず、ゆっくりと瞳は閉じられる。

 ヴァルルーツに抱えられた体は力なく横になり、先ほどまで魔法を行使していた腕は垂れ下がっていた。



『大丈夫、気を失っただけだよ』



 嫌な想像が脳裏を過ぎった。

 しかし先回その思考に先手を打ち教えてくれるミグによって、リッチェの動揺は安堵に変わる。



『でもこれ以上援護は出来ない。注意して』



 事実、あの魔法がなければ危なかった。

 そしてそれが自分の未熟さ故だと痛感している。


 そして次がないことも。


 リッチェは肝に銘じ、いっそう気を引き締める。



「少し西にずれています。修正しましょう」



 周囲に今すぐ脅威となる怨人が見当たらないことを確認し、至誠は声をかける。


 方向がずれたのは今の襲撃の結果だが、その事にリッチェは気付いていなかった。そもそも現在の方角が分からない。



「あの星が北極星です。あれを基準にしてください」



 至誠は北極星を指さし、方角を示す。

 それにより北がどちらかは分かったが、リッチェに星の違いがほとんど分からない。


 狼狽えた言葉をもらしていると、至誠はリッチェの手を引き寄せ体を近づける。



「あれです。あの一番光ってるやつ」



 視線に合わせて指し示してもらうことで、ようやく北極星を理解した。



「また分からなくなったら言って下さい」



 至誠はリッチェの体からは離れつつ、それと――と、問いかける。



「今どのくらいの速度が出ているか分かりますか?」



 リッチェは新たに魔法陣を展開させると、すぐに結果を伝える。



「えっと……一〇〇ルク七八メートル毎秒くらいです」



 秒速七八メートル。

 分速四六八〇メートル。

 時速約二八〇キロメートル。


 すなわち、新幹線と同程度だとイメージする。


 これなら一〇〇〇キロメートルの道のりだと約三時間半で踏破できる計算だ。



 しかし懸念がある。



 真北へ北上すれば、計算上は神託の地の西端をかすめる。

 しかしそれは経度の計算が正しかったときの場合だ。


 観測誤差が一度毎に一一一キロメートル変わる事になる。


 現在はやや東寄りの北――北微東から北北東方面を目指している。その角度はおおよそ東へ一〇度程度だ。


 正接タンジェント一〇度の値は覚えて居らず、関数電卓もスマホもない現状では計算が出来ない。


 だがもし、三〇度東へ向かわなければならない程西にずれていた場合は面倒なことになる。


 仮に、一〇〇〇キロメートル北上するのと、三〇度東へ進む場合の直線距離を計算してみる。


 正接タンジェント三〇度は、ルート三分の一。


 ルート三は一.七三二〇五〇八人並みにおごれや


 暗算しやすいように小数点第二未満を切り捨ての一.七三とする。


 そこから一割ることの一.七三で、およそ〇.五七八。


 これを一〇〇〇倍すると五七八。



 すなわち北極星に対し三〇度東向きに進めば、五七八キロメートル東の地点に到達する。



 その方が確実に神託の地領内に到達出来るだろう。

 そしてその場合の直線距離は、三平方の定理を用いて約一一五五キロメートルだと分かる。



 差し引き一五五キロメートルを許容できるかが問題だ。



 何せ切羽詰まっている。一刻も早く不浄の地を脱出できるにこしたことはない。


 そもそも約一〇〇〇キロメートルという数字も不確定要素を多分に含んでいる。



 緯度も一度計り間違えている毎に一一一キロメートルの誤差だ。


 近くなるならいい。

 だが遠のく場合は、さらに正接三〇度分の直線距離が加算される。


 緯度が三度遠のいた場合を試算すると、一五〇〇キロメートルとなった。



 ――当初の一.五倍だ。



 その距離を時速二八〇キロメートルで飛行した場合、五時間二〇分ほどになる。


 さらに距離が離れていた場合はマズイ。


 日の出と共に北極星は見えなくなる。

 そうなれば太陽を基準に飛ばなくてはならなくなるが、長時間太陽を直視する事は避けたい。その点は魔法や鬼道で何とかなるかも知れないが、高度を計れるミグが治療で手が離せないかも知れない。


 そもそも一〇〇〇キロメートルも進めば天気も変わる事は十分にある。太陽が曇天に隠れていない保証はどこにもない。


 それに最終的には街明かりを探しだし、そこへ進行方向を修正するのが好ましい。だが昼になってしまうとそれも難しくなるだろう。 


 怨人の性質も不明瞭ばかりだ。もし昼夜で動きが変わるようなら不測の事態が発生しやすくなる。


 いや、そもそもの話、飛行は魔法で行っている。

 魔法にはマナが必要だと言っていた。

 そしてマナは体内で生成されるとも。


 つまりは有限だ。


 化け物の跋扈するこの地でいつまでも正常な精神状態でいられる保証はない。



 特に、当初の想定よりも飛行時間が長引けば、この理論の信頼性そのものが揺らぎ、精神的にも物理的にも空中分解しかねない。



 ――無駄な飛行は出来ない。




「リッチェさん、予定を修正します。真北に向かいましょう」


「えっ、は、はい!」



 そう声を上げる至誠の真意をリッチェは理解出来なかったが、唯一の道標である彼が言うのだからと肯定する。



「このまま飛行した場合、四時間弱で抜け出せると思いますが、計算の誤差を考慮して±一時間で想定しておいてください」


「わっ、分かりました!」



 飛行時間を多めに見積もった上で、前後することを予め伝えておく。それによって、不浄の地の脱出に手間取っても多少の精神的余裕が確保出来るだろう。


 そう考えての言葉に対し、リッチェは目を丸くする。



「どうしました?」



 自分の理論が間違っていただろうかと、至誠は首を傾げた。



「い、いえ。凄いと思いまして――」


「そんな事はないですよ。魔法が使える方がよっぽど凄いです」



 そう返すと、リッチェはわずかばかり頬を赤らめ視線を前へ戻す。



「ところで魔法にはマナが必要だったと思いますけど、五時間もの間飛ぶことについては大丈夫そうですか?」


「それは、はい。マナの生成速度と保有量には自信があります」


 術式構築はまだまだですが――と小声で自虐する様子が至誠の耳にも届いた。


「飛行速度はこれが限界なんですか?」


「いえ。もっと出すことはできます。ただ速度が上がるほど、回避に取れる猶予が減るので、私の実力ではこれくらいが最適だと思います」


 怨人は跳躍し襲ってくる固体もあれば、上空から飛来する固体も居る。

 特に地上から跳躍する固体は靄で隠れていることもあり、こちらの速度が上がるほど衝突の危険性が高まる。


 ――気付けば化け物の口の中なんて事態はお断りだ。


「高度をもっと上げるのはどうでしょう」


 現在は地上三百メートルほどを飛行している。

 せめて地上からの跳躍が届かない高さまで昇れれば精神的に楽になるだろう。


「そうですね――」


 リッチェはテサロから引き継いだのは飛翔魔法だけではない。

 その速度と高度もテサロと同じ状態を維持していた。

 それが最適なのだろうと無意識に判断していたが、高度を上げるべきかも知れないと考える。

 

 しかし、それをミグが否定する。


『いや――』




 ミグは治療の手を緩めながら、高度は取るべきではない理由について教えてくれる。



『怨人は棲む領域によって大まかな特徴がある。結論から言えば、高度を上げるほど素速い固体が増える。そうなると回避しても追いつかれるから攻撃しなくちゃならない』



 だが問題はそれだけでは無い。



『怨人は怨人以外の生物を感知して敵対行動をとる。けどそれは目視によることが判明している。けど魔法や鬼道は違う。大がかりな術式を使うほど、広範囲の怨人に察知される』


 すなわち、攻撃は極力避けるべきだが、高度を取れば攻撃せざるを得ない固体が増えると言う事だ。

 明らかに目視出来ないであろう靄の中からも的確に襲ってくるのは、一行が飛翔魔法や鬼道による治療術式を展開している為だ。


 もっとも、飛翔も治療も止めるわけにはいかないので、これは必要経費となる。



『さらに避けるべきは、怨人を殺すこと。これによってさらに広範囲の怨人に察知されてしまう』



 テサロが逃げに徹し、最後の攻撃でも突破口を作るだけの部位破壊に留めた理由はそこだ。


 テサロほどにもなれば怨人一体を倒す事はそう難しいことではない。だが攻撃に用いる高出力魔法と、怨人を殺害することによって受ける怨人の波状襲来は、いずれ押し切られるだろう。



『遠征調査の時はこの習性を利用して、陛下や殿下が余所で暴れて一帯の怨人を引きつけている間に探索するんだけどね』



 だが現状では絶対に避けるべきだとミグは告げる。



「分かりました。では高度と速度はこのままで。三時間ほどしたら北東方面へ転進します。その後、街明かりを探して正確な地点を探します」



 至誠の判断は賭けだ。


 北への距離が足りない場合と、東への距離が足りない場合が考えられる。

 そのため、ある程度北上した後に北東へ転進するのがもっとも無駄が少なく、両方をカバーできると考えた。



 もっとも、そもそも根底が狂っている場合は見当違いで破綻した論理なのだが、それを口にしてはいけないと理解していた。



 希望を口にする以上は、最後までそれを信じて突き進むしかない。





 そして至誠の方針に異議は上がらず、方針が決定する。


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