第207話

 音が消えた。


 車のロードノイズも通行人の足音も、鳥や虫の鳴き声もすべての音がその場からなくなる。


 ぼろぼろの丹波と鬼の形相の矢野がむかいあう。


 矢野は羽織っていた上着を脱いだ。右の拳を硬くにぎる。


「待っ……」


 待って――


 私はそういおうとして口をひらいた。


 それが合図になった。


「ああああああっ」


 矢野が叫ぶ。拳を振りあげる。


「んんんっ……」


 丹波もつぶれたような声でうなる。無理やりあげた腕を引く。こちらも拳をきつくにぎっていた。


 ふたりの身体が急速に近づく。


 おたがいの拳は顔の位置まで伸びてきている。そして、そんなふたりの顔の距離は五十センチかそこらしかない。


 私は目をつぶってしまいそうになるのを、ぐっとこらえた。


 矢野の拳が丹波の顔面を狙う。


 丹波の拳が矢野の顔面を狙う。


 ぶつかった。


 そう思った。


 が。


 結果は違った。


 ぶつからなかった。


 どちらの拳も。


 そのまえに丹波が体勢を崩したからだ。

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