第95話

 私はせめてもの抵抗で、顔をまっすぐうえにあげた。


 吐きかけられた唾液と、矢野のくちびるの感触だけでも流してくれればいいと思った。


 それだけでもいくぶんましになる。


 私の感覚は、どこかやはり麻痺している。


 顔面に雨のシャワーを浴びながら奥歯をぐっとかみしめた。


 誰もこないこんな場所で泣いてしまえば、きっと涙はとまらなくなるだろう。一度感情があふれたら、二度と抑えられなくなる。それとも孤独の海のなか泣けば溶けて泡になって消えてしまえるのだろうか。くだらないおとぎ話の空想に逃げたくなる自分自身に腹が立った。


 不意に気配を感じた。


 間断ない雨粒の音に混じって重い金属音がきこえた。


 私は音のほうに顔をむける。


 雨でびしょ濡れた顔では思うように目があけられない。必然的に薄目になる。


 私は顔をまっすぐ正面にむけた。


 視線の先では屋上の扉がひらかれている。


 明かりはないが、扉のシルエットでそれがわかった。


 そして、その扉から誰かがでてきた。


 男の人だ。


 細身の体型。


 手足が長い。


 ビニール傘を頭のうえでひらいている。


 そのしたにあるのは金色の髪。


 丹波だった。


 いまさらになって、丹波が屋上にやってきた。

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