オリシスの午後

 城下街の朝は早い。

 東の空が明るくなる頃には活気のよい声が響き渡り、街は眠りから覚める。

 市場には彩り豊かで新鮮な野菜や果物が並び、焼き立てパンのいいにおいが漂ってくる店は、昼を待たずに完売すると言う。ロースト肉を売る店もあれば特産の茶葉を売る店、または独自の製法で編んだ衣服や履物を並べる店もある。

 屋台へと列をなす者、談笑をしている女性たち、腰の曲がった老人に手を添えて歩く子どもも、立ち止まっては物をねだる子にちょっと叱りながらも買い与えている親子の姿も、どの顔も幸福に満ちている。子どもたちが笑い声をあげて駆けてゆく。何度かその小さい身体にぶつかりながら、ブレイヴはゆっくりと街を歩いていた。

 王都マイアでもこうした露店は多く、めずらしいものではなかった。それでもオリシスの人々の表情はとても自然で、生き生きとしている。王都から遠く離れているせいなのだろうか。ここには戦争の色など、ひとつも見えなかった。

 従者の申し出を断ったのは一人になる時間がほしかったからだ。きっとそのうちに、行方をくらませた聖騎士の情報がこのオリシスにも入ってくるだろう。アルウェンはブレイヴを守ってくれると、そう約束してくれたけれど、しかしここは祖国アストレアとはちがう。許された時間のなかで考えたいこともたくさんある。

「そこのおにいさん!」

 大柄の女性に声をかけられて、ブレイヴの足は止まった。

「どうだい? 食べてみないかい?」

 屈託のない笑顔に誘われて近付いてみれば、手を差し出す前にひょいと飛んできた。落とさないようにと両手で受け止めたはいいものの、ブレイヴは次の反応に困ってしまう。女店主はいますぐに食べなよと、そう言う目顔をする。手のひらにちょうど収まるくらいの赤く実った果実は、かじれば口いっぱいに甘さが広がった。よく熟していて美味しい。

「おにいさん、男前だからね。無料タダであげるよ。持って行きな」

 銅貨を取り出そうとしたブレイヴに女店主は片目をつむって見せた。大きな唇からのぞく白い歯がとても健康的で、おまけにもうひとつくれるほど気前がいいらしい。ブレイヴがちゃんとお礼を言うよりも前に、女店主はもう次の客を見つけて声をかけていた。それからまたすこし歩いたところで、今度は短躯たんくの老人に呼び止められた。銀細工や宝石をあしらえた装飾品は若い娘に人気だからと、恋人への土産にと勧めてくる。残念ながらそんな人はいないのでブレイヴはやんわりと断ったのだが、それならば故郷の家族にどうかと言ってみたり、次にはブレイヴの左耳を指さしてにんまりとする。何ごとかとブレイヴはやや首を傾げるものの、お洒落好きな兄さんにはぴったりの耳飾りがあると、老店主は勝手に見繕いはじめた。腰が曲がっていて杖がなくては歩けないような老人でも、びっくりするくらいに商魂たくましいようだ。

 ブレイヴはこれにも辞謝する。

 左耳に付けている石榴石ガーネットのピアスは、以前幼なじみにもらったものだ。聖騎士の称号を下賜かしされたときのお祝いだと、レオナは自分のことのようにうれしそうに笑っていた。お礼はちゃんと告げたけれど、そのときのお返しとして何か装飾品を贈るのも悪くはない。しかし、銀細工へと伸ばしかけたブレイヴの手は止まる。視界の端にとらえた緑色の髪の毛は、このオリシスでは見かけない色だった。老店主にやはり買わないことを告げて、ブレイヴは彼のうしろ姿を追う。背中越しに老人の罵声がきこえても振り返らずに、人の波に彼が消えてしまう前に追いつきたかった。けれども、雑踏のなかではどんどん引き離されていく。

「クライド!」

 思いのほか大きな声だったらしい。周りからの視線がちょっと痛い。とはいえ、彼の足を止めるには成功したようで、クライドはちゃんとブレイヴを待ってくれていた。

「……何か用か?」

 にべもなく、それでいて迷惑そうな顔をしているのは、クライドも人々の注目を浴びたせいかもしれない。ブレイヴは苦笑する。

「ごめん、急に呼び止めてしまって。話したいことがあったんだ、きみに」

 怪訝そうに見つめるクライドの視線はブレイヴの手元へと移る。右手には食べかけの、反対にはまだ綺麗な果実がある。

「えっと、ひとつどうかな? 貰いものだけど……」

「いらない。俺もおなじものを貰った」

 彼はそう言うと、短いため息を吐いた。












「イレスダートは豊かな国だな」

 彼の声は何気ない一言だったが、ブレイヴはどう反応するべきかをちょっと迷った。

 たしかにイレスダートの、それも南へとゆけば行くほど沃土よくどに恵まれた国が多くなる。北の貧しい国とはちがって飢えることもないから、人々もおおらかでやさしい。

「いい国だな」

 クライドはそう言い添えた。遠くを見つめる翠玉石エメラルド色の瞳が、どこかさびしそうにも見えるのはなぜだろう。彼の容貌は砂漠の民ユングナハルの旅人だとわかるものの、もしかしたら長いあいだ故郷には帰っていないのかもしれない。つい値踏みするような目をしてしまって、ブレイヴは視線を外す。異国の剣士に対して同世代の者として、あるいは人として、クライドに興味を持ったのは本当だ。その出会いが偶然ではなく必然だったのかどうかなど、いまは関係がない。

 褐色の肌がめずらしいのか、子どもが寄ってきてはじろじろとクライドを見つめていた。はじめこそ相手にしなかったものの、それも次第に煩わしくなったのか、彼は持っていた果物をやるかわりにあっちに行けと追い払った。ブレイヴも彼を真似して子どもらに果物を渡す。知らない人に物をもらってはいけませんだなんて、アストレア同様にこのオリシスでも教わっていないようだ。

「子どもが苦手なのか?」

「そういうわけじゃない」

 クライドは渋面をする。彼はそう口数の多いたちではなく、けれどもちゃんと受け答えはしてくれる。ブレイヴは右手に残った果実を頬張った。彼と話をする時間を望んだものの、なにから話せばいいのか。どう声にすればいいのか。

「よかったな。アルウェン公はあんたの助けになってくれるようだ」

 ところが、彼の方から先に切り出してくれたので、ブレイヴは思わずまじろいだ。

「きみと、アルウェン様の関係を教えてくれる気になったのか?」

「大した繋がりはない。日銭を稼ぐために傭兵の仕事もする」

 国を預かる公爵と異国の剣士との馴れ初めは、つまりはそういうことらしい。これ以上追求したところで彼はこたえてくれないだろう。ブレイヴは苦笑する。公爵の妹ロアと自分を引き合わせたのはクライドで、その礼をしたいと言うアルウェンの声に従って彼はオリシスまで同行した。無愛想で他者に関心がなさそうに見えても意外に律儀な人なのだと、ブレイヴは彼の一面をひとつ知った。

「だが、せっかくの機会だ。しばらくオリシスに留まろうと思う」

 どうやらクライドはこの国が気に入ったらしい。ブレイヴは微笑する。こんなときでなかったら、アストレアにも来てほしいと思った。淡水魚のソテーは絶品だから異国人の舌も唸らせるはずだ。アストレアの葡萄酒もオリシスに負けないくらい自慢の一品で、鴨肉や鶏肉料理にもよく合う。ふとっちょの料理長は旅人のためにたくさんのパンを焼いてくれるだろう。他にも挙げれば切りがないくらいだ。けれど、彼の声はブレイヴを現実へ戻させる。

「それで? あんたたちは、これからどうするんだ?」

 ブレイヴには待つことしかできないが、しかしクライドはその先を言っている。

「アルウェン公はたしかにあんたたちを守ってくれる。だが、王都はそうじゃない。白の王宮はあんたを疑っているから絶対にマイアには近づけさせないし、あんたの声は王には届かない」

 イレスダート人でもない彼がここまで内情を知っているなんて、情報屋はやはり金さえ積めばなんでも教えてくれるようだ。そうだとしても、彼はすこし誤解をしている。

「アルウェン様の手紙は、もしかしたら白の王宮には届かないのかもしれない。けれど、アナクレオン陛下はきっとすべてを、知っているのだと思う」

「じゃあ、尚更だ。それなら、なぜ王はもっと早くにあんたを助けてくれない?」

「いまは、白の王宮内で元老院の力が強すぎるんだ。奴らは平気で陛下の目を掻い潜る」

「詭弁だな。あんたはただ王を信じているからそう言うんだ。騎士とは皆そういう生きものか? 俺には理解できない」

 理解しろとは言わない。しかし、主君を愚弄するような物言いはさすがに不快に思う。遠巻きに眺めていた子どもたちが散っていくのが見えた。母親たちが迎えに来たのかもしれない。あるいは、喧嘩の最中に見えたのか。ブレイヴは嘆息する。大丈夫だ。周りを見るくらいには頭はちゃんと冷えている。

「そういうものなんだ、騎士は。俺だけじゃない。聖騎士だけが、特別なんじゃない」

「へえ、なるほどね。騎士なんてただ頭が固いやつか、馬鹿のどっちかだと思っていたが、両方とはね」

「正直だな。きみは」

「そっくりそのまま返してやる。それから、忠告もしてやる。馬鹿正直な奴ほど早死にするんだ」

 ブレイヴは肩をすくめて見せる。

「忠告ありがとう。でも、俺は悪運の強い方なんだ」

 そうでなかったら、きっとここにはいない。そうだ。ブレイヴはずっと守られてきた。彼女の力に助けられなければ、ブレイヴを逃してくれた騎士がいなければ、志半ばで果てていた。いつだって何かを代償にして生きてきた。

「もう行く。……あんたと話していたら、疲れた」

 クライドはブレイヴを置いて去ってしまったが、嫌われたわけではなさそうだ。異国の剣士が背負う大剣は自分を守るためにあるのだろう。ブレイヴの剣はちがう。他者のために剣を持つ。疑ったことなど一度もなければ、その先には王がいて、彼女がいる。騎士とはそういう生きものだ。ブレイヴは口のなかで繰り返す。

 イレスダートには唯一の王がいる。王とは民を導く者であり、統治する者である。騎士にとって絶対の存在だ。歴史のなかには様々な王がいたが、アナクレオンというひとは指導者であっても独裁者ではない。ブレイヴはそう信じているし、疑ったりもしない。それなのに、クライドの声をすべて否定できないのはなぜか。その理由が見つからない。堂々巡りだな。ブレイヴは認める。こたえを求めようとしているのに、どこかで見ないふりをしている自分がいる。

 重く湿った空気のせいか蒸し暑く、じっとしているだけで汗を感じた。降ったり止んだりと落ち着かない日ばかりでも、気分が晴れないのは天候のせいではなく、未来を信じようとしないからだ。そして、イレスダートに次の季節が訪れる。それまでにこたえを出せるだろうか。いや、見つけなければならない。ブレイヴは雑踏のなかをふたたび歩き出す。己の未熟さを反省するくらいの時間ならば、きっと従者も認めてくれるはずだ。 

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