三章 微笑みと、約束と、笑顔と

オリシス公爵アルウェン

ウルスラの不安

 明け方から降り出した雨は、午後を過ぎても止む気配はなかった。

 鉛色をした重い雲が空を覆っている。陽光は遠くとも風がないせいか、蒸し暑く感じる。ときどき、地を打つような激しい雨が降ったかと思えば、しばらくすれば小雨へと変わる。晴れ間もないような天気ばかりがつづくこの時期は毎年のことだ。

 イレスダートは雨期を迎えている。

 北の城塞都市ガレリアより南東へと、王都マイアよりもやや北にランツェス公国がある。ランツェスは年間を通してみればそう雨量は多い方ではないものの、やはりこの時期ばかりは別だ。陰鬱な気分にさせる雨の季節が終われば、やがてイレスダートに夏が訪れる。次の軍事会議はその頃だときいていた。あの日からもう四ヶ月だ。次回もまた、自分は末席にいるのだろう。

「にいさま」

 長い回廊には途切れなく雨の音が響いている。しかし、たしかにきこえたその声に、彼は足を止めた。

「ディアス兄さま」

 どうやら妹は駆けてきたらしい。肩で息を整えて、声を紡ぐまでに時間が要るようだ。

「お前がそんなに急ぐなど、めずらしいな」

「だって、兄さまをずっと捜していたんですもの」

 ディアスを見あげる妹は頬を膨らませていた。六つ下のウルスラは十六歳になったばかりだ。十の年で修道院へと入り、ランツェスへと戻ってきたのは春先だった。しばらく離れていたこともあり、年頃の娘らしい落ち着きを見せていたのに、兄の前では幼い表情もする。

「それは悪かった。父上に呼ばれていたからな」

 城内はけっして狭くないために、入れ違いになったのかもしれない。妹は苦笑した。

「きいています。……王都に、行くのですね」

 けれど、ウルスラは直接父親からきいたわけでもなければ、部屋に入ったわけでもない。おおよそ、侍女のおしゃべりを偶然耳にしたのだろう。

 頬に張り付いた栗毛を煩わしそうに払う。そこだけ見れば父親とおなじ色だが、目元や鼻筋など似ている要素は見当たらない。ディアス同様に妹も母親似で、ディアスの赤銅色の髪の毛もまた母親譲りだった。二人はたしかに父も母もおなじとする兄妹だが、そうではない者もいる。長兄は母のちがういわゆる異母兄弟であり、そして正室の子だ。

 ウルスラが父親の部屋の扉をたたかなかった理由はそれだ。

 ディアスとて、ぶんわきまえているつもりだ。ランツェスの嫡子は兄ホルストで、ディアスは兄の影に徹することに努めている。周囲は恣意しい的に騒ぎ立てるものの、ディアスには迷惑でしかない。己はイレスダートが騎士の一人。それだけだ。

 そして、ウルスラはもっと自分をわかっている。

 普段から大人しい気質の少女だ。強い自己主張など見せずに、周りの意見には素直に従う。それが、実の父親ならばなおのことで、もっとも妹はそれよりも父親におびえているようにも見える。環境がそうさせてしまったのだろうか。母親は妹がまだほんの幼子の時分じぶんに亡くなっていて、実際に妹をここまで育てたのは乳母と修道院だ。

「いつ、経つのですか?」

 けれど、この日の妹は別だった。憂いと不安を含んだその目は、ディアスに行くなと訴えている。

「明朝だ」

「急なのですね」

「ああ。だが、王命には従わなければならない」

「そう、ですね。でも……」

 言い淀み、そこで視線が逸らされる。何を怒っているのだろうと、ディアスは思う。

「お前が心配するようなことは何もない」

「わかっています。でも、ホルスト兄さまも、ガレリアに行ってしまいました」

 それもまた王命だ。だが、あの城塞都市に行くようにと命じられたのは、幼なじみだった。わずか三ヶ月の期間で後任としてディアスの兄は呼ばれた。何か起こったのか。いや、何をしでかしたのか。ディアスが懸念するのはそこだ。

 もしかしたら、アナクレオンは最初からそのつもりだったのかもしれない。しかし、そのせいでランツェスが代償とさせられるなら、たしかに面白くはない事態だ。ディアスの兄はひどい癇癪を起こしたし、父親とも激しい口論をした。けれども、けっきょくガレリアに行くしかなかった。ランツェスはイレスダートが公国のひとつだからだ。

「そうだな。兄上が大人しくしているとは思えない」

「私は、そういうことを言っているのではないのです」

「怒るな。兄上はイレスダートのために命を懸けたりはしない」

「ですが……、」

「お前は自分の心配をしていればいい。俺がいないあいだに縁談が決まったら、はっきり断れ」

「そんなの、できっこありません」

 ウルスラは自分を守るみたいに胸の前で手を当てた。ディアスは微笑する。すこし意地悪を言いすぎたようだ。

「簡単だ。わかりました、と。言わなければいい」

 けれど、妹は父親の前でそれすら言えない。ウルスラが成人するまであと二年があるものの、ディアスの父は勝手に話を進めるだろう。それもまた、貴族の娘ならばそれも己の運命のひとつだと、受け入れるしかない。ましてや公爵家の娘なのだから、けっきょく最後はディアスもウルスラも父の声に従うしかないのだ。

「にいさまは、意地悪です」

 そういう顔をして、父の前で泣けばいいのにとディアスは思う。妹は父親の前で感情のすべてを吐露するだろう。兄たちを案じて、自分の行く末を嘆く。それでも、父親の心は動かずに、そうしてまた妹は泣く。

「……ガレリアに行くのが、俺であればよかったんだ」

 そうすれば、幼なじみは愁いに沈むこともなかった。ディアスの兄が短気を起こすこともなければ、ウルスラを一人にせずに済んだ。それに、と。ディアスはそのつづきを口のなかで止める。ディアスには、ブレイヴとレオナという二人の幼なじみの他にも忘れてはならない人がいる。そうだ。消えた王女を捜せばいい。レオナは姉のソニアが生きていると信じているし、ディアスも疑わない。守ってほしいのだと、あのとき彼女は言った。その約束だって、きっと果たせる。

「にいさま……?」 

 沈黙が長すぎたようだ。それは、逃避にしかならない。自分はいつもどこかで諦めているのだと思う。

「いや、お前の言うとおりだ」

 しかし、あの日のディアスはたしかに幼なじみを責める声をした。自分は聖騎士だからと使命を受け入れ、王命を疑わない幼なじみに怒りもしたし呆れもした。王都に残る聖騎士が王の盾ならば、ブレイヴは王の剣として前線で戦う。そうして、死ぬ。それが、白の王宮の描いた脚本だ。

「そんな顔をするな。お前が考えているようなことにはならない」

 ディアスは思考を現在いまへと戻す。どれだけ言葉を残したところで、ウルスラの不安は消えないだろう。だから、妹はあの日のディアスとおなじ声をする。近しい者だからこそ、過度なくらいに案じるのは当然で、猜疑は沙汰さたをくだした者へと向けられる。それでも、やはり己の感情を殺すしかなくなる。王命は絶対だ。なによりも、白の王宮にはけっして逆らえない。 

「俺はすぐに帰って来る。それに、レオナにももう一度会ってくる」

 ウルスラの瞬きの回数が増えた。出した名前は正解だったらしい。

「レオナ姉さまは、お元気かしら?」

 妹は幼なじみを慕っている。王女も公女も、修道院では皆が等しく一人の人間として扱われるからだ。もっとも、ウルスラがレオナに抱くのは友情よりも憧憬どうけいの念が強い。たしかに、二人の境遇は似ている。側室の子であり末子もまたおなじく、公の舞台からは遠ざけられていても政治の駒としては利用される。胸に宿るこの想いが同情ではないことを、ディアスは知っていた。だが、そこまでだ。ディアスが彼女たちにしてやれることなど、何もない。

「また、お会いしたい」

 こぼれるような笑みを見せるウルスラに、もっと早く幼なじみの名を出せばよかったのだと、すこしだけ後悔をした。妹を喜ばせるためだけの声など、意味のないこともディアスは知っている。それでも――。

「この次に王都に行くときには、お前も連れて行ってやる。その方が、レオナも喜ぶ」

「ほんとうに……? 約束です。にいさま」

 これは、口約束でなければ夢や希望ともちがう。純真だった少年の時分はとうに過ぎていて、しかし自由でいられるわずかな時間だけでも、許されていいはずだ。そう、こいねがうのは愚かだろうか。ディアスは己に問う。こたえなど、ずっと前に気がついていたのだとしても。

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