ひめさま

 朝の陽射しをいっぱいに浴びて育った花を摘み取る。

 ほんのりとした甘い香りだがくどさはなく、やさしい香りが鼻腔に広がる。摘み取ったらそれはすぐに花粉を取り除き、花弁を一枚一枚千切って子房と分ける。まだ新鮮なうちに薬品に付けて半日ほど釜にかけ、瓶詰めにすれば夏が過ぎて秋が過ぎ、冬になる頃にそれはようやく香水として出来上がる。また、花をそのままの形で何日か乾燥させてポプリにしたり、根に茎や葉の部分は薬草として使われたりとさまざまだ。

 リアの花。この地方にしか咲かない花は、アストレアの重要な産業物のひとつでもあった。

 アストレアの女性たちは皆がたくましい。朝から夕方まで元気に働いて、重たい瓶を運ぶのも自分たちだけでやる。そんな彼女たちのたのしみは、お茶の時間だ。お昼休みの他にも、朝と夕方の前にはちゃんと休憩をする。淹れ立ての香茶と焼き菓子は、皆がきゃあきゃあ言って盛りあがっているうちに、ぜんぶ綺麗になくなっている。だけど、彼女たちの仕事はいつも丁寧だった。手先の動きは器用だし、繊細な作業でもあっというまに片付けてしまうのだから、魔法みたいだとレオナはいつも思う。

 作業場はいつも明るい声で賑わっている。

 アストレアに来てから半月、レオナは一日の半分をここで過ごしていた。与えられた仕事はまず根っこから花を引き抜く。次に土を落として、花が傷まないように茎から千切る。その繰り返しだ。単純な作業に思えて、これがなかなかむずかしい。けれども、すこしずつ慣れてきた。そう。レオナにとって働くということは、はじめてではなかったからだ。

 修道院に預けられていた五年のあいだ、身の回りを含めて自分のことはすべて一人で行った。それから、掃除や洗濯に、料理だって交代で協力し合う。しかしそれは、自分が生きてゆくための必要な仕事だ。

 ここは、ちがう。お手伝いというほどに簡単ではないし、なにより責任が伴う。レオナが失敗をしてしまえば、そこはもう使いものにはならなくなってしまう。強く意識するようになったのは、レオナが銀貨を受け取ったときだ。レオナははじめ、まじろいでいた。労働者に与えられる銀貨の枚数も、その価値も、ちゃんと理解していなかったのだ。でも、彼女たちはそのお金で生活をする。給金を受け取るのはひと月に一度だけ、どの顔もすごく明るくて嬉しそうだった。従者がそっと耳打ちしてくれなければ、きっといまもその意味がわからなかっただろう。子どものおこづかいなんかじゃない。これは、彼女たちが生きていくためのお金だ。

 だから、レオナは戸惑ってしまっていた。

 自分がこれを受け取っていいとは思わなかったし、手にしたところでどうしたらいいのか。とにかく迷うのだ。そんなレオナにエレノアは言う。そういうことでしたら、わたくしがすべて預かります、と。幼なじみは苦笑していたけれど、なにも言わなかった。きっと最初は心配してくれていたようにも思う。けれど、アストレアの城主はエレノアで、レオナを守ってくれるのもその人だ。抗議するなんて誰にもできない。 

 たぶん、王都にいれば一生関わることがなかっただろう。

 もちろん、彼女たちにもレオナの身分は隠しているから、誰も王女がここで働いているのは知らずにいる。白の王宮では、前代未聞などと騒ぎ立てる声もあるかもしれない。兄は、どうだろうか。レオナはちょっと考える。ギル兄さまならば、笑ってくれるはずだ。 

 レオナ自身、戸惑いはした。それでもすぐに慣れた。黙々と行う作業は嫌いではなかったし、周りの女性がやさしくてあたたかいのだ。決して楽なことばかりではなかったけれど、なによりもたのしかった。それに、こうしていれば嫌なことを考えないで済む。王都も、兄のことも。忘れるべきではなくとも、そこから心を離すための時間は必要だ。

 いま、アストレアには公爵がいない。代わりを務めているのはエレノアだ。多忙なはずの幼なじみの母親は、朝になるとまずレオナの部屋の扉をたたく。二回目のノックで反応がなければ返事を待たずに勝手に入ってくるものだから、レオナは最初びっくりしてしまった。そう。レオナは初日からしっかりと叱られてしまったのだ。けれどもエレノアは、顔を洗ってもまだ眠たそうにするレオナの髪を結ってくれる。そのうちに幼なじみも合流して、三人一緒に朝ごはんを食べる。料理長自慢の焼きたてパンを頬張って、あつあつの玉葱のスープも本当に美味しい。野菜もしっかり食べるのですよ。エレノアはレオナとブレイヴと両方に言うものだから、二人そろって返事をする。そうして微笑むエレノアは城主ではなく、母親の顔だった。

 おかあさまって、皆こういうひとなのかしら?

 レオナは自分の母親のことを思う。やさしく、うつくしいひとだった。けれど、どこかさびしそうな横顔がレオナは忘れられない。レオナは側室の子で、しかし母親は王家の傍系に当たる良家の娘だ。それだけ竜の血が濃くなるのを恐れたのだろうか。白の王宮、特に元老院は母を忌むべき存在として扱った。だからレオナは白の王宮の別塔で暮らして、母親と会える時間も限られていた。まだ幼い時分であっても、周りから嫌われていることくらいレオナは知っていたから、母親と会えないさびしさも耐えるしかなかった。一人きりではなかったのも、母のちがう兄や姉がいてくれたからで、幼なじみたちもいたからだ。

 でも、かあさまはずっとひとりだった。

 弱いひとではなかったと思う。ただ、狭いせかいでしか生きられなかった者は、心を閉ざしてしまうのかもしれない。孤独はそれだけ人を変えてしまう。母がレオナに残してくれたのは、右の手にある指環だけだ。

「さ、ひめさま。次はこっちをおねがいね」

 大きな籠のなかには花の部分だけが詰め込まれている。お昼休みから小一時間、単調な作業にちょっと眠たくなっていたレオナは、一気に目が覚めた。 

「これはまだ早いのでは?」

「なに言ってるの、ルテキア。あんたも一緒にやるんだから、大丈夫だよ」

 喧嘩がはじまってしまうのではないかと、レオナは心配になる。ルテキアと呼ばれた娘はアストレアの騎士だ。騎士の家に生まれた彼女がその道を選ぶのは自然で、やはりアストレアにも女の騎士はたくさんいる。成人してからはエレノアに仕えるようになり、歳もレオナと離れていないことから、エレノアはレオナの傍付きに彼女を選んだ。つまり、ルーファスの代わりだ。

 傍付きって、笑ってはいけないきまりでもあるみたい。レオナはそう思う。年頃の娘だというのに、ルテキアもまたほとんど表情を動かさない。それでいて、物言いははっきりしているので、人によってはそれが冷たい印象にも感じられる。ただし、ここでは年長者の方が強いらしい。  

「最初はゆっくりでいいからね。ルテキアは、ちゃんとひめさまに教えてあげてね」

 ひめさま。というのは、ここでのレオナの渾名あだなだった。

 誰も本当のレオナを知らないはずなのに、一人が呼びはじめればすぐに広がった。可愛らしいちいさなひめさま。もっとはじめは、花嫁さまと呼ぶ人だっていた。公子がようやく花嫁を連れて帰ったのだと、城のなかは大騒ぎ。そのうちに皆が信じてしまったのかもしれない。レオナは慌てて否定をする。事実と異なることを言われるのは心苦しい。幼なじみには決められた相手がいなかったので、皆はそれはがっかりしていた。でも、嘘を吐くよりはずっといい。本当にそうだったならばよかったのになんて、レオナは誰にも言えなかった。

「それじゃあ、そっちは任せたからね」

 ルテキアの反論を待たずに、ああ忙しい忙しいと残して去ってしまった。しばらく惚けていたレオナはおそるおそるルテキアを見た。 

「あ、あの……。わたし、どうすればよいのかしら?」

「仕方ありません。すこしむずかしいかもしれませんが、二人でやってみましょう」

 ルテキアは肩でちいさく息を吐いた。これにはなかなか覚悟がいるらしい。レオナも深呼吸をする。

「まず、この花びらを一枚ずつ千切るのですが……」

「一枚ずつ……」

 ゆっくりゆっくりと。花びらの余計な部分を千切らないように、細心の注意を込めて。妙に腕に力が入っているルテキアといっしょに、レオナも見よう見まねでそれにつづく。

「こうして……、あっ!」

 一枚、二枚、三枚目まではよかった。しかし、ルテキアは花弁を引き裂いてしまった。声に釣られて、レオナもまたおなじように失敗する。

「む、むずかしいのね。意外と」

「そ、そうですね。もう一度」

 慎重になるほど二人の顔は固くなっていく。次は失敗できない。繊細で、集中力の要る作業だ。一枚、また一枚と、空の籠のなかに入れていく。ここまでは順調だった。

「ああっ!」

 声をあげたのはルテキアだ。やっぱり花弁は破れていた。レオナはルテキアをちらっと見る。さすがに二度目となれば、偶然ではなくこれは確信できる。騎士がレオナと目を合わせないのがその証拠だ。

 良家の子女ならば、それらしい挙措きょそを教え込まれる。挨拶にはじまり、話し方、教養もすべて。ルテキアはきっと最初から騎士だったのだ。その手は刺繍をするために使うのではなくて、剣を持つために使う。

「ねえ……。ルテキアはもしかして、手先があんまり、」

「申し訳ございませんっ!」

 信じられないくらいに大きな声だった。騎士は勢い良く頭をさげて、そのままでいる。顔をのぞき込もうにも青髪に隠れて見えずに、けれど赤面しているのだろう。ルテキアの耳は赤かった。

「ふふふっ!」

「ひ、ひめさまっ!」

 思わず笑ってしまった。騎士の仮面を外せば本来のルテキアが見えてくる。

「ごめんなさいね。でも、わたしもそうなの。あんまり器用な方じゃなくって」

「はあ」

「ふふふ。どちらかというとね、不器用なの。だからいっしょ、ね?」

「ええ……」

「そう。だから、ね。おそろいなの。よかった」

「お、おそろい、ですか……」

 笑ってほしいのに、騎士は生返事しかしてくれない。レオナはリアの花を取り、もう一度試してみる。やっぱりおなじところで失敗した。

「ちっとも良くはありませんよ」

 二人は同時に後ろを向く。声の主は、もちろんエレノアだ。

「まったく、あなたたちは。真面目にがんばっていると見に来てみれば、」

「ご、誤解です! エレノア様。私たちは、」

「ええ、見ておりましたとも。不器用を理由に失敗するところをね」

 どうやらエレノアはすごく怒っているらしい。腰に手を当てて仁王立ち。ルテキアの声なんて一蹴されてしまった。

「いいですか? アストレアの娘は出来て当たり前なのですよ? これではあなたたちは、到底お嫁になどいけませんよ」

「エ、エレノアさま。あの、わたし……」

「言ったでしょう、レオナ。わたくしのことは、と呼びなさいと」

「お、おかあさま……」

「そう。よろしい」

 こんな風に叱られたことなんて数えるくらいだ。だから、レオナは素直にそれに従う。笑った顔は幼なじみに似ているけれど、怒った顔はちょっとこわい。レオナはエレノアを刺激しないようにと気をつける。小細工などきっと通用しない相手だ。

「わたくしが教えてあげます。二人とも、もう一度やってごらんなさいな」

「エレノアさま、しかし……お忙しいのでは、」

「わたくしのことなど気にしないの! さあ、もたもたしないで。これも花嫁修業ですよ」

「はい」

 母親には絶対に勝てない。レオナとルテキアはそろっておなじ声をする。花嫁修業などと、その言葉にときめく余裕なんてなかった。本当に、アストレアの女性たちはたくましい。レオナはそれを再認識するのだった。

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