どうせ間に合わない

 入れ違いに出て行った医者はコンスタンツの目を見なかった。

 コンスタンツは侍従をそこでさがらせる。眠っているのならばいい、けれども公爵ではないヘルムートの姿を見せるわけにはいかない。医者のあの様子ならばまたひどく暴れたのだろう。コンスタンツは深い息を吐いた。

 寝台で眠るヘルムートは病人に等しかった。

 叛乱軍との戦いに敗れて、森を彷徨っていたヘルムートを見つけたのは彼の麾下きかだ。黒騎士ヘルムートの纏う軍服は血の色に染まっていたと言うが、しかし生傷はどこにも見当たらなかった。

 戦場へと戻ろうとする公爵を、麾下の騎士が必死に止めたのも理由がある。誰かが治したであろう傷が癒えたとしても、ひどい高熱でとても戦える状態ではなかったのだ。彼を突き動かすのは騎士の矜持きょうじだったのかもしれないし、あるいは意地だったのかもしれない。ヘルムートの信ずるものはただひとつ、それはイレスダートの王だけだ。

 夫はこんなに弱い人だったのだろうか。 

 小棚に常設されている薬の数を見てコンスタンツは思う。傷は癒えているはずなのに痛みを訴える。辛抱強い人だから痛みに耐えることはできても、体力の回復を待たずに無理をするものだからまた熱をぶり返す。譫妄せんもうがつづけば身体は弱る一方で、それでも彼は戦場へと戻ろうとする。手が付けられないほどに暴れて、医者は違法な薬の処置をし、無理やりに眠らされたヘルムートは幾日もそのままで、たまに目を覚ましたかと思えば、廃人のようにただ空を見つめるばかりだ。

 部屋の空気を入れ替えよう。コンスタンツは窓を開け、澄み渡る青空を眺めた。

 イレスダートは夏を迎えているが、ムスタールではまだ雨が残っている。昨晩も激しい雨が降りつづいて、敬虔なヴァルハルワ信者たちは神の怒りだと恐れる。ちょうど一年前、ムスタールでは記録的な大雨に見舞われた。山間の集落では家屋が崩壊し、作物の収穫にも影響が出た。いまでも信者たちはこぞって大聖堂へと赴き、神へと祈りを欠かさない。コンスタンツは彼らを憐れに思わない。それが、ヴァルハルワ信者たちの日常だからだ。

 明日もまた雨が降ればいい。それは、呪いの言葉のようにコンスタンツの唇から溢れる。大雨が邪魔をして公爵の出陣を妨げる。晴れの日には無理をしたせいで身体が動かせなくなる。コンスタンツは枢機卿を父に持つヴァルハルワ教徒ではあるもの、神を信じてはいなかった。けれどこうも思う。彼を止めているのは神の意思ではないのか、と。

 いつから悲観的な考えになったのだろう。

 コンスタンツはまたひとつ息を吐く。外庭からは子どもの声がきこえてきた。午餐ごさんの前のこの時間は、子どもたちにとっての息抜きだった。息子たちに公爵の姿を見せてはいなかったが、上の子は聡い子どもだ。きっと気がついていて、それでも弟を不安にさせないようにと努めている。だからコンスタンツも、子どもたちの前では母親であらねばならない。

 ヘルムートの呻く声がきこえる。また、うなされているのだろうか。ムスタールの男は謹直きんちょくなたちであるものの、彼は特にそうだった。

 婚約者として彼の前に立ったときも婚礼の日にも、彼はほとんど笑わなかったと、コンスタンツはそう記憶している。子どもらが生まれたそのときには目を細めていたけれど、息子たちに微笑む姿は多くはなかった。真面目で不器用で、でも強い人。ところが、この姿はなんだろう。彼から剣を奪ってしまえばこんなにも変わり果ててしまうのか。どちらが本当のヘルムートなのかと、コンスタンツは思う。騎士として、人として、あまりに、脆い。

 外庭を駆ける侍従の姿が見えた。来客はすべて断っていたが、おそらく彼らがまた来たのだろう。公爵への伺候しこうは名目上として、彼らは黒騎士に圧力を掛けているのだ。

 コンスタンツは机上を見た。羊皮紙の山が公爵を待っていた。無理を押して公務をつづけようとするものの、一向に減ってはいない。そのどこかに、元老院の寄越した書状が挟まっているはずだ。

 最初に届いた書状をコンスタンツは読んだ。次に届いた書状は封蝋ふうろうを切る前に捨てた。

 元老院は王の名を語りて、黒騎士ヘルムートを戦場へと戻そうとする。王命とあらば、彼はでもそれを果たそうとする。彼にとって王は絶対であり、抗うことのできない存在だからだ。

 ヘルムートが目蓋を開けた。上体を起こそうとするのでコンスタンツは止める。

「私は、どのくらい眠っていた?」

「二日です」

 そうか、と。ちいさく零してヘルムートは肩の力を抜いた。こんな簡単な嘘でも通じるくらいに彼は弱っている。

「すまないが、軍師をここに呼んでほしい。明朝には経つ。その準備は滞りなく、」

「先ほど、王都からの使者がお見えになりました」

 彼の声を途中で遮り、コンスタンツは偽りの言葉を吐く。

「わたくしは国王陛下の声を預かっております」

「陛下は、私に何と?」

「とにかくお身体を気遣われておりました。閣下の回復を何より願っていらっしゃると」

 ヘルムートは黙り込んだ。国王アナクレオンを敬慕けいぼする彼ならば、逆らう声などしまい。だが――。

「我が身を案じてくださる陛下のお心に、甘えるわけにはいかない。コンスタンツ、悪いが代筆を頼まれてくれないか? 私は、手が震えて書けない」

「王命に背かれるのですか?」

 純粋で無垢な子どものような目を、ヘルムートはコンスタンツに向けている。

率爾そつじながら、国王陛下をこれ以上失望させることは、騎士の行いとしていかがなものかと」

「では……、私は何をすればいい?」

「いまは、身体を休めてくださいませ。麾下も宰相も諸侯らも、それから子どもたちも。皆が閣下を案じております。叛乱軍は白騎士団にお任せすればよろしいのです。イレスダートには、聖騎士フランツ・エルマン様がいらっしゃるではありませんか?」

 幼子をあやすようにコンスタンツは言う。ヘルムートはふたたび目蓋を閉じた。

 そうだ。王都マイアには王の盾がいる。叛乱軍を王都へは近づけさせないし、他の公国も動き出しているはずだ。彼が、動く必要などないのだ。それに――。

 どうせ間に合わない。コンスタンツの声は、眠るヘルムートには届かなかっただろう。 

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