クリスとフレイア
時を知らせる鐘の音がきこえたとき、彼女はクリスの顔を見た。これより小一時間ほど前、純白の
クリスは主に向けてにっこりとする。
ワイト家は敬虔なヴァルハルワ教徒の家だ。彼らは祈りの時間を最も大事にするし、食事や就寝の前だけではなく、聖堂から鐘の音がきこえるその前にはもう着席している。幼いクリスは両親に
ワイト家が没落すると同時に、クリスは両親の元から引き離された。けれども祈りの時間はそれまでと何ら変わりなくつづき、そうしていまのクリスも聖職者の法衣に身を包んでいる。フレイアが物言いたげな目をするのも当然だろう。
「次は、露天商をのぞいてみましょうか?」
彼女はただうなずいた。
噴水広場では母子が焼き立てパンを頬張っている。娘たちはお喋りに花を咲かせて、老爺はうつらうつらと居眠りをしている。巡回をする騎士はまばらなもので、しかしここは王都マイアである。弱者や旅行者を狙って盗みを働く愚か者などいるはずもなく、いたって平和で穏やかな午後の時間が流れている。
北の国とずっと長く戦争をつづけているようにも見えないし、内乱をしていたとも思えない。それこそ、あの古の獣がすぐそこに現れていたのも、幻であったかのように。
クリスは幼い日の記憶の糸をたどってみたものの、この華やかで美しい都の情景がどうやっても思い出せなかった。
明るい声で呼び込みをしている商人たち、南から来た伝道師はほとんど素通りされているのに、それでも布教活動を行う。母親におつかいを頼まれたちいさい兄弟たちは手を繋いで歩いているし、一足早く仕事を終えた大工仲間たちは昼間から大衆食堂で一杯引っ掛ける。こうした光景は王都マイアの日常なのに、どうして忘れてしまったのだろう。それとも、敬虔な教徒の家の子として日々の勤めに忙しく、邸と大聖堂の繰り返しであったのか。クリスは微笑する。彼女もそれに気がついたようだ。
「クリスは、ここには来たくなかった?」
そう見えていたのかもしれない。けれど、彼女と出会ったのもまた、この地なのだ。
「いいえ。そうではありません。でもね、フレイア様。故郷というものがそれぞれ人にはあるのでしたら、私にとってそれはラ・ガーディアでありフォルネなのです」
フォルネの王女は瞬いた。
出会うはずのなかった二人と言ってもいい。ワイト家が没落しなければ、王女は血の繋がった実の両親に厭われなければ、その偶然が二人を引き会わせた。
クリスは預けられた親戚の家で、両親が迎えに来てくれるのをずっと待っていた。叔父が少年のクリスを女の子のように扱い、夜伽娘の真似事をしようとも耐えつづけて、それでもとうとうあの家から逃げ出した。
行く当てのない少年を、彼よりもっとちいさい少女が拾う。気まぐれなどではなかった。クリスはそう思っていて、また彼女を信じている。少女がフォルネの姫君だと知ったのは、ラ・ガーディアに入ってからだ。
「でも、私は覚えてるよ。ここで、あなたを見つけた」
彼女は花のようだ。大切に庭園で育てられた繊細で優美な花とはちがう。山野で自由に咲いて、美しい色で人の目を喜ばせる可憐な王女。けれども、王室で大事に育てられるはずの彼女に与えられたのは、愛情などではなかった。
フレイアの傍付きの騎士は、クリスに皆まで打ち明ける前に死んだ。毒殺だった。おなじ食事を取っていたフレイアはすこし熱を出しただけで、その頃には彼女に毒は効かなくなっていた。
当時王子だったルイナスが実妹を守るためだったのだろう。
隣国ウルーグにカナーン地方、それからイレスダート。フレイアは幼い頃から各地を転々としていた。王女を守るはずの騎士団は動かずに、王女の味方は誰もいなかった。
愚かな女だったのだ。ルイナスは母親を語るときに、いつもそう言う。蒲公英色の髪、
母親が伏したあとも、フレイアに安息の日は遠かった。
王妃に嘘事を吹き込まれつづけたせいか、王宮の騎士や侍女たちはフレイアを忌人のように見る。凶手がフレイアの部屋に侵入したのも一度や二度ではなく、身を守るには自分自身が剣を持つしかなかった。そのうちに彼女は人を殺すことを躊躇わなくなる。感情が欠落したわけではない。でも、彼女は死をひどく恐れていて、死ぬのがこわいと泣くのだ。それをルイナスからきいたとき、クリスは己の贖罪ではなく、はじめて他者のために祈った。
クリスはずっとフレイアの傍にいる。
旅をするのも彼女の気が赴くままに、目的などほとんどないように等しかった。それでも、冬になる前に彼女はフォルネへと戻る。フレイアの母親が亡くなったのは、冬のはじめの寒い日だった。
イレスダートの夏が終わる前に、彼女は西へ行くと言うだろうか。
そういう話まで彼にしたのかどうか。クリスはちゃんと覚えていない。異国の剣士は口下手なのに人の話は最後まできいてくれる。それに、フレイアを守ってくれた。
「めずらしいものでもありましたか?」
彼はクリスと話すとき、視線をすぐ他所へとやる。偶然だと思う。けれども、彼はそこに通りかかり、そうしてクリスと目が合った。
「別に、そんなんじゃない」
クライドが王都に訪れたのはこれがはじめてだとはきいたが、それにしては表情がない。クリスは思わず笑ってしまった。
「でも、こうした時間も必要でしょう? 旅にはそれなりに準備が要りますし、砂漠ともなればなおさらに」
ふた呼吸のあと、彼はため息をした。
「俺はあそこの生まれだ。大層な荷物など要らない」
「邪魔になる、ですか?」
返答はなく、彼はふたたび目を逸らした。露天に群がる人々をどこか眩しそうに、それでいて懐かしそうに見ている。けれどもクライドは王都やそこに住まう人に関係がないし、きっといま彼の目に映っているのは別の情景だ。
「公子に別れを伝えなくてもよろしいのですか?」
「待ってみたが、会えなかった。それはあんたたちもおなじじゃないか」
「さあ? いつまでここに留まるかどうかは、フレイア様の気分次第ですから」
目配せするとクリスの主はただうなずいた。いつもならばそろそろ退屈しそうな頃なのに、彼のこともじっと見つめている。
「世話になった。……そう伝えてくれ」
それくらい自分で言えばいいのに。でも、彼はもう行ってしまった。クリスの袖を彼女の手が掴んでいる。自己主張に乏しいフレイアが、何か言いたいときにする仕草だ。
「私、あの人にまだお礼、言ってない」
守ってあげてください。勝手に交わした約束だったかもしれない。けれど、クリスは彼に感謝をする。
「五つの鐘が鳴る頃に、噴水広場で待ち合わせましょう。私は、先ほどのお店でもうすこし薬草を買い足してきます。たくさん使ってしまったので、アステアさんにもお返ししないと」
「うん。クリスは迷子にならないでね」
クライドの背中はすでに雑踏のなかへと溶けてしまったけれど、彼女は人を見つけるのが上手い。一度通った道はちゃんと覚えているので迷わなければ、彼女を拐かす者だって、この王都にはいない。それに、むしろこの先を案じるべきなのはクリス本人だ。
いつ、付けられていたのだろうか。
いや、それならばフレイアがとっくに気が付いているはずで、さっきまではクライドがいた。だからきっと、彼らがクリスを見つけたのも偶然なのだろう。
白金の髪、薄藍の瞳。一人は若く、もう一人はそれなりに歳を重ねた初老の男だったが、いずれも見目麗しい容貌をしていた。金髪はイレスダートでもめずらしくはない。しかし、彼らはおなじ共通点を持っていて、一族を見分けるその色を持っている。没落し、離散した者たちは同族をけっして見逃したりはしない。
「ワイト家の者だな?」
男はクリスにそう囁いた。
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