聖者の行進

クレイン家

 今日からは朝寝坊は絶対にできないと、心に決めていたのにいきなり失敗をした。

 厩舎きゅうしゃの前にはもう先客がいて、レオナの顔を見るなりちょっと笑っていた。これはもしかしたら騎士なりの気遣いなのかもしれない。ごめんなさいと繰り返すレオナに、ノエルはいつもの笑みを見せてくれる。

「ちょっとくらい寝坊したって、べつに怒ったりしませんよ。……たぶん、悪いのは公子だし」

「えっ……?」

 最後の方がよくきき取れなかったので、レオナはきょとんとする。ノエルは口笛を吹きながら厩舎へと入って行った。慌ててレオナも追い掛けたものの、ずらりと並んだ馬たちに圧倒されてしまう。

「大丈夫ですよ。こいつらみんな、大人しいですから」

「目を見ただけで、わかるの?」

「まあ、特技と言えばそれくらいなので」

 謙遜だと、レオナは思わず笑う。けれど、そのくらいの余裕があるほうがノエルらしい。あくまでこれは懲罰だ。勝手に野営地を抜け出した王女と、手を貸した弓騎士。現場はあとから大騒ぎとなっただろうし、ルテキアにもたくさん心配を掛けてしまった。傍付きはまだこの砦に到着していなかったものの、あとでちゃんと謝ろうとレオナは思う。そしてレオナもノエルも、何のお咎めなしというわけにはいかないのだ。 

 扈従こじゅう馬丁ばていが控えている騎士ならばそれに任せるが、いまはとにかく人手を要する事態だ。

 ノエル一人だけが罰せられるのはおかしい。そう、名乗り出たレオナに幼なじみはちょっと笑って、軍師セルジュも渋面を作っていた。もしかしたら想定内だと考えていたのかもしれない。

 桶を抱えるようにして水汲み場に行き、戻って丁寧に馬の背に刷子ブラシを当ててゆく。一頭が終わればまた水を汲んで、レオナが終わる頃にはノエルはその三倍は進んでいた。ずいぶんと手慣れている。そういえば、騎士は動物が好きだと以前言っていたのを思い出した。

 大人しい馬もいれば気性の荒い馬もいて、そういうときにどうすればいいのかをレオナは知っていた。名前がわかる子ならば呼んであげるのもいい。何度もおなじ場所を梳いているうちに馬はすこしだけレオナに心を開いてくれるのだ。耳元がなんだかくすぐったくなって、見上げてみれば白馬がレオナを催促していた。いつの間にか手が止まっていたようだ。

「そういえば、アステアももうすっかり馬に馴れたみたいですよ」

「まあ、よかったわ。ずいぶんと、がんばっていたから」

 乗馬を習ったのは西のウルーグだ。エディとエリス、それからシオン。友人たちの顔を思い出す。良い先生が付いていてくれたおかげで、レオナはひと月も掛からずに馬に乗れるようになった。しかし、おなじ時期に教わった魔道士の少年は長いこと苦労していた。相性もあるのだと、ウルーグの姉弟が励ましてくれなかったら心が折れていたかもしれない。ああ見えてアステアはなかなかの負けず嫌いなのだ。

 朝食の時間に間に合ったのはよかったとはいえ、けっきょくほとんどノエル一人でこの仕事を終えてしまった。明日はもうちょっと早起きしなくてはと、レオナがため息を落としかけたそのときに、視界の隅に一人の男の姿を認めた。 

「もし、貴女方は氷狼騎士団の方ですかな?」

 はじめはここの関係者だと思ったが、そうではなさそうだ。騎士と貴人に見える娘の二人組。厩舎に似合わない組み合わせに男は戸惑っているらしい。

「いいえ、わたしたちは……、」

 応えようとしたレオナをノエルは遮る。警戒するのも無理はない。旅行者か巡礼者か。どちらにしても厩舎に迷い込むのは不自然だ。それも、こんな早朝に。

 男の髪の毛や頬は年相応の老いが見られるが老爺と呼ぶのは早すぎる。しゃんと背筋も伸びているし男の装いは貴人のそれだ。

「ああ……、では叛乱軍の方たちですね」

「答える義務はない」

 ノエルの背に庇われているレオナに男の顔は見えなかったが、しかし男の声色は落ち着いているようにもきこえる。否定とも肯定とも取れない騎士の言葉にも気色ばむことなく、それで充分だという挙措きょそをする。

「やはり、聖騎士殿はイレスダートに戻られていた。……いや、失礼をした。我々は彼に、聖騎士殿に会いに来たのです。どうかお取り次ぎください」

 いったい何者なのだろう。イレスダートの聖騎士は三人、そのなかで男はレオナの幼なじみを指している。詮索するレオナに前で男は言った。

「私は、クレイン家の者です」  











 応接室には沈黙が居座っている。

 初老の男はカウチに腰を沈めて、従卒が用意した香茶を味わっている。自らをクレイン家の者だと名乗った男だ。挙措は上流貴族らしく実に優雅で、男の声が偽りであるとは疑わせなかった。

 ただし、必ずしも男を歓迎しているとは限らない。男と向かい合って座るのはブレイヴと横にはそのロベルトが、セルジュとロベルトの扈従こじゅうはうしろに控えている。一人に対してこちらは大人数だが、男はそれを気にした素振りをみせず、また同行者たちの姿もここにはなかった。

 時刻は九つの鐘が鳴った頃で、他の者たちは男を残して聖堂へと行ってしまった。

 クレイン家はイレスダートでも有数の貴族である。それと同時に敬虔なヴァルハルワ教徒の家系だということも、広く知られていた。

 男は並べられた焼き菓子にまでは手を付けなかったが、それでもこの時間をたのしんでいるかのようにも見えた。隣からはあきらかな苛立ちが伝わってくる。彼は昨日ほとんど眠っていないのだろう。もともと辛抱強いたちでもなければ短気を隠したりしない人だ。そこに疲労が重なれば当然かもしれないが、男の目的が見えないので待つしかなく、それがより彼を不快にさせている。

「私に用件があるのだと、そう伺ったのですが?」

 男はようやく茶器を長机へと置いた。

「ええ。そのとおりです。私は聖騎士殿に会いに来たのです」

 人好きのする笑みには敵意はおろか、嫌悪や欺瞞ぎまんといったものも見えない。時が時でなければブレイヴもおなじ笑みで返していた。

「もちろん、私だけではありません。クレイン家は皆、貴方たちに味方をするつもりでおります」

「私たちは叛乱軍です」

「存じております。最終的に決めたのはフレデリカさまですが、とはいえ私どもの意思は貴方たちとおなじところにあると、そう思って頂きたいのです」

 ブレイヴとロベルトは顔を見合わせる。出てきた名前がまったくの想定外とは言わないが、それでもこれに彼女フレデリカが関わっているなどとは思わなかった。

「ちょっと待ってください」

 口を挟んだのはロベルトだ。話の意図がつかめずに困惑するのはブレイヴも同様に、もっと仔細が知りたかった。クレイン家の男は瞬きをひとつする。いまの言葉だけでなぜ足りないのかとでも言うように。

「借りがあるでしょう? 聖騎士殿もお若い将軍殿にも」

 今度はこちらがまじろぐ番だった。

 男の声が急に驕慢きょうまんじみたようにも感じる。けれどもやはり、男の主張は正しいのかもしれない。記憶を無理にたどらなくともブレイヴにはたしかに覚えがあった。クレイン家とフレデリカという女性と、このふたつの単語を結びつけるには六年の時を遡る必要がある。

「いや、失礼をしました。何も脅迫しているのではないのです。そもそも、これはクレイン侯爵の遺志であることをまず伝えるべきでした」

「しかし、侯爵は」

「ええ。亡くなっております。あれから一年と経たぬ内に」

 不幸な事故だったと、男の唇がそう動く。けれども目はそれを認めてはいないとばかりに愁傷と怨嗟の両方をのぞかせる。六年前といえばブレイヴとロベルトが士官学校を卒業したばかりの頃だ。騎士の場所は何も戦場だけが仕事ではないので、貴人の家に身を置くこともある。フレデリカという女性と出会ったのがそこだ。

 ブレイヴは友の横顔をのぞく。上手く感情を隠しているようでも、見られたくはない過去を勝手に他人に見られているような、そんな複雑な表情をしている。二人はそこでたくさんのものを失った。人間としての心、騎士としての誇り、正しさ、そして友を。

「私はお二人をよく覚えておりますよ。まだ若い、それから頼りない少年の騎士を。しかし、その目は死んではいなかった。だからでしょうね。クレイン侯爵は若い騎士たちに未来を託した」

 クレイン侯爵が亡くなったのは、ブレイヴたちが要因だったとそういう口吻こうふんをする。

 たしかに、あの頃の王都マイアは荒れていた言ってもいい。行われるはずだった休戦条約もなくなり、前王アズウェルは北の地で崩御する。王家の第二子であるソニア王女は失踪し、その悲しみと怒りのなかでアナクレオンは即位した。王都は国王派と元老院派で分断されて、そこに貴人たちが積極的に関与しようとする。つまり、六年前にブレイヴたちが介入したあの事件で命を落とした者は皆、マイアの犠牲者なのだ。

 この話をいまさら持ち出す者など誰もいない。ブレイヴもまた自分の心のなかだけに仕舞い込み、けれども一度だけ、オリシスのアルウェンの前で吐露したのはブレイヴの弱さからだった。

「顔をあげてください。恨み辛みを申しあげるつもりではないのです。生前のクレイン侯爵はこうおっしゃいました。何かあったときはアストレアの聖騎士殿を頼るようにと。いまがまさにそのときなのでしょう」

 ブレイヴはまだ声を返せずにいる。それだけでは判断するに足らないのだ。男はただブレイヴを見つめつづけていたが、そのうちに失望のため息がおりた。

「私の声が信用なりませんか?」

「そうではありません。しかし、先も申しあげたとおり、私は叛逆者です」

「承知の上でここまで来たのですよ? ここで追い返すおつもりですか?」

 要所を省いて勝手に話を進めるのはこの男の癖なのだろうか。どうにも呑み込みの悪い反応を見せるブレイヴに、男の物言いが横柄になってくる。

「あなたたちが味方をする利点がない」

 横からはっきり言ったのはロベルトだ。男は一瞬だけ目を大きくして、それからまた元の笑みに戻った。

「利点はあります。クレイン家はとうに白の王宮を見限っています。侯爵はマイアに殺されたのですから当然でしょう」

「殺された?」

「なるほど。聖騎士殿は何もご存じなかったのですね。これは失礼いたしました」

 男の声音も、柔和な笑みからも偽りや演技は見えずに、どうりで話がうまく繋がらないはずだ。そもそもクレイン侯爵の死因は病死とされていた。そこには事件性となるものは隠されてはいなかったと、ブレイヴも記憶している。しかし、男はブレイヴの思考を否定するように首を横に振る。

「いいえ。たしかに、侯爵の件だけならば私たちも疑わなかったでしょう。ですが、そうではないのです。クレイン侯爵には、兄妹の他に従兄弟や叔父といった血縁者がいました。それがどういうわけか病や事故で若くして亡くなりました。これを不自然と考えるのが普通です。ええ。そうです。クレイン家は白の王宮にとって邪魔になったのです」

 そこで息を吐いてから男は再び茶器に唇を当てた。このまま男の声を鵜呑みにするにはあまりに信憑性に欠けるとしても、それなりに同情はする。

「あなたは、ちがうのですか?」

「私は傍系の者ですから爵位は継げません。嫡子はフレデリカさまのお子だけです」

 すこし話が読めてきた。クレイン家は協力関係にありたいのだ。叛乱軍に味方する代わりにまだ幼い子らを保護してほしいのだと訴えている。それこそ、クレイン侯爵が過去にブレイヴたちを助けたように。

「あるいは、もうひとつ。イリアをクレイン家に返してほしいのです」

「イリア? ルーファス・クレインですか?」

 ブレイヴはきき返す。これは、失念していた。クレイン家に連なる者はもうひとりがいた。イリア・ルーファス・クレイン。王女の傍付きだった騎士だ。

「ええ。イリアは何も知りません。兄は病死したものだと思っています。イリアは王女の傍付きでですから、白の王宮もこれまで手が出せませんでした。しかし、いまは状況が変わっています。ムスタールに行ったはずのイリアからは何の連絡もありませんし、こちらから接触もできません。おそらくは囚われているのでしょう」

 にわかには信じがたい話だ。ブレイヴは開きかけた唇を閉じる。騎士はあのとき、ムスタールにて協力者がいると言っていた。それはおなじクレイン家ではなかったのか。

「残念なことにクレイン家にも元老院派がいましてね。よからぬことを企んでいたのでしょう。それも死んでしまっては、問い詰めることもできませんが」

「死んだというのは?」

「あれは私の再従兄弟でしてね。王命は突然で、用意した王女の身替わりは私の姪でした」

 過去形で話すことから、その娘もすでに他界しているのだろう。

 ロベルトが無遠慮な嘆息をする。彼の頭は許容範囲をこえているのかもしれない。ブレイヴも混乱している。

「ああ、話が逸れました。つまり、私たちはあなたにイリアを救ってほしいのです」

 言葉尻は丁寧でやわらかくとも嫌とは言わせない。そういう目を男はしている。

「もちろん、あなた方にも利点はあります。クレイン家の影響はそれなりにあるでしょうし、そのうちに賛同者も現れるでしょう。何もせずとも兵力は増えます。それに我々は身ひとつでここに来たわけではありません。糧食も充分に備えております」

 そこまで言って男はにこりとした。偽りのない本当の笑みだった。

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