戦場に赴くもの
進軍が開始されたときに、空は再び重たい雲に覆われていた。ルダの王城に残った魔導師たちは、いまも祈りの塔にて己の魔力をささげているのだろう。
そのうちに空から雪が降ってきた。
イレスダートは雨季を迎える頃で、北方に位置するルダは長雨こそ降らないものの、やはり季節は夏へと移り変わる時期だ。
ルダの魔導師たちがいかに優秀だといっても、人間の魔力によって作り出された不自然なものはそう長くはつづかない。じきに雪は止み、それは敵の進軍の妨げにはならないのだと皆は言う。魔力を使いつづければ精神の疲労はそれだけ激しく、また体力の消耗も早い。無理な力を酷使することは、やがてその人の寿命をおなじだけ奪っていくのだ。だからもう、ルダは本当に限界なのだろう。
レナードは本隊よりもやや後方の歩兵部隊に配置されていた。
主要な街道などでは雪はとっくに溶けていたが、しかしそこからすこし逸れたところに積もった雪が残っている。
一年以上前に初陣を終えたレナードだ。
とはいえ、ここまで大規模な争いに参列したのはたった二度である。ラ・ガーディアでのウルーグとイスカとの戦いでは、怪我をしたため参戦できずに残された。その次のグランのたたかいは、まだ記憶に新しい。天空を翔る竜とそれを操る騎士たち、レナードは竜騎士たちの背に縋りついていただけではない。ちゃんと剣を持って、勇敢な騎士たちと一緒に戦ったのだ。
そろそろ前線を任されてもいい頃じゃないか。
子どもっぽい声をレナードは呑み込む。たしかに騎士として主のすぐ傍で戦いたい気持ちは嘘ではなかったが、人には定められた役割というものがあることだって理解している。どうにも落ち着かないのは、ここがイレスダートだからかもしれない。アストレアを離れてから一年とすこし、皆もきっとおなじ思いでいるはずだ。
進軍はつづく。しばらく無言でいたが、そのうちに会話がきこえてくる。昨日差し入れに貰ったタルトが美味しかったとか、妹夫婦に子どもが生まれたから次の休暇に会いに行くだとか、髪が伸びてきたからそのまま伸ばそうか切ろうか迷っているだとか。とても戦場へと向かう声にはきこえなかった。そうしたひそひそ話は他でもしているのか、いろんな話が勝手にレナードの耳に入ってくる。だからこれは盗み聞きなんかじゃない。
あまりに大きな会話だと上官からこっぴどく叱られてしまうので、皆はちょっと声を潜めている。本当は上官たちにもきこえていて、だけど咎めないのはそれくらい許されてもいいと考えているからだ。
彼らはここで死ぬわけではない。たたかいに行くのだ。
他愛もないことばかり話しているのはちゃんと帰ってくるという証で、誰もこれが最後だなんて思っていなかった。
彼らはどこにも逃げ場がない。これが北のルドラスとの戦いであれば、きっと南からイレスダートの他の公国が助けに来てくれる。しかし、そうではない。相手はマイアの騎士だ。
誰も助けに来てくれないし、何よりルダがマイアの敵なのだ。仔細を知らないレナードには何が悪くて何が悪で、何が良くて何が正義かなどわからない。知っていたとしても、きっと正しい判断なんて不可能だ。
だから、そういうむずかしいことは、考えるべき人がそうしたらいいと思う。レナードは騎士だけど、ちゃんとした人間だった。意思のない人形などまっぴらごめんである。
また会話がはじまった。今度はレナードのすぐうしろからだった。
年の頃はレナードとそう変わらない、笑うとえくぼができる少年みたいな騎士だ。もうひとりも小柄で、子どものように見える。訓練のときも積み荷をしているときも、ふたりはずっと一緒だったので兄弟だとばかりに思っていたがちがうようで、食事のときにふたりが幼なじみなのだと教えてもらった。酸っぱくて固い黒パンと、水みたいに薄い葡萄酒で彼らは乾杯をする。正直者のレナードは感想を思わず顔に出し、けれども彼らはレナードの肩をたたいて笑っていた。
しばらく寝食をともにすれば情が湧くのは自然だろう。
ラ・ガーディアでもグランでもそうだった。往年の騎士たちは驕り高ぶったりせずに、しかし身体の至るところにある傷痕は名誉の証だと言う。壮年の騎士たちは戦争に慣れているからか、しっかり落ち着いている。少年たちはやや不安そうに視線を行ったり来たりさせて、だけど年長者たちが少年騎士を守ってくれる。このふたりにはその心配は要らなさそうだ。でも、結婚をしていなければ恋も知らない少年たちだった。誰だって死なせたくはない。
戻ったらまた不味い黒パンと葡萄酒で、それから
はじめにした天の唸りを、レナードはきき逃していたのだろう。
鉛色の雲の合間からひかりが見えた。まばゆい閃光へと変わったそのときに、大地は揺れていた。
彼らは鬨の声をあげる。イレスダートの北部に位置するルダはそもそも気候の変動が激しいために、こうした落雷はめずらしくはない。しかし、これはそうではなかった。レナードは歩兵部隊よりも、もっと後方を見る。後方を守るのはルダの精鋭たち、魔道士の部隊だ。指揮を執るのはルダの公女アイリスと、他にも何人か要人たちが控えている。その一人は、レナードもよく知っているひとだ。あれは、彼女が放った魔力だった。
レナードは自分の腕が震えているのを認めた。緊張がそうさせたのではなく、ただおそろしかったのだ。
人は雷をおそれる生きものだ。まず、あの轟音が恐ろしい。空を走る光を認めたとき、稲妻はもう大地へと落ちていた。
誰かに背中をたたかれていた。
振り返れば最初に雑談をはじめた騎士だった。艶のない頬は荒れていて、目尻には皺が見える。黒髪には白髪が目立ち、それなりの苦労を感じさせる。なるほど。お喋り好きな年頃だ。黒髪の騎士はレナードに安心しろと言う。俺たちの勝ちだ、とも。
イレスダートの王女が旗頭となりこの戦いに参列するというのだから、それは彼らにこの上ない勇気を与えた。
彼らは彼女を白の聖女と謳い、勝利をもたらす女神さながらに讃える。賛同を求められたときに、レナードはちょっと笑って濁すしかなかった。たしかに彼女は王家の姫君だ。特異な力を受け継ぐ人というのも知っている。でも、レナードがずっと一緒に旅をしたその人は、普通の人間となんら変わりのない人だった。
公子と話しているときは本当にしあわせそうに見える。すこし年下の者たちと接するときには姉のような話し方になるし、レナードにだって高圧的な物言いなんてしなかった。それどころか友達であってほしいのだと言う。でも、怒るとちょっとこわい。ノエルとの口論ならともかく、ルテキアと喧嘩したあとはじろっと睨まれた。
いっそ、彼らにぜんぶ知ってほしい気もする。
黒髪の騎士はレナードを置いて行ってしまい、少年騎士たちの姿もなかった。前方ではすでに戦闘がはじまっていたようだ。針葉樹の森に潜んでいた伏兵部隊とぶつかったのだろう。足止めにはちょうどいい。レナードは大地を蹴る。彼らとゆっくり話をするのは、また次の機会だ。
腕のなかで我が子は穏やかな寝息を立てている。
笑っていたかと思えばむずがったり泣いたり、幼子の表情はとにかくころころと変わる。我が子をあやすマリアベルの手つきはちょっと危なっかしいけれど、これでもずっと慣れた方だ。乳母も侍女たちも大袈裟で、ときどきこっそりと涙ぐんでいる。
本当は片時だって離れたくはなかった。
お腹を痛めて産んだ子だから当然の感情だ。王家に嫁いでから何年も子を授からなかったマリアベルは、ずいぶんと心ない言葉を浴びせられた。でも、他に帰るところも逃げるところもなかったマリアベルは、ただ耐えるしかなかった。
ようやくマリアベルのところに来てくれたバルトを、心から愛おしく思う。
自分の手でちゃんと育てたいと考える反面、マリアベルの体力が付いていかない現実がもどかしくてならない。貴人の家に生まれた子だって、何もかも乳母と教育係に任せきりではないだろう。しっかりしなければ。いつも自分を叱咤するのに、マリアベルの心はどうしても途中でくじけてしまう。
しかし、このところのマリアベルはすこし心が落ち着いていた。
精神的に安定した日がつづけば、身体の不調も良くなってくる。きっと、義理の妹が毎日のように顔を見せてくれるおかげだ。レオナは侍女たちのように、いつもマリアベルの顔色を窺っていなかったし、本当の笑顔を向けてくれる。やさしい娘だと、そう思う。バルト王子も叔母である彼女にすっかり懐いたように見えた。
しかし、レオナはぱったりと姿を見せなくなってしまった。
ひどい癇癪を起こしてしまった日をマリアベルは覚えている。制御できない自身の感情をそのまま彼女にぶつけてしまった。ちゃんと謝りたくても、なかなか勇気が持てずに時間だけが過ぎてしまっていた。何もなかったかのようにレオナが接してくれたから、マリアベルはそんな彼女に甘えていたのだ。
マリアベルはいま、ルダが危機的状況にあることを知らない。
光のほとんど入らない暗い部屋に閉じ籠もってばかり、王妃に悪い噂が届かないようにと、周囲の者たちはとにかく気を遣っていたのかもしれない。本当に駄目な人間で、至らない王妃だ。すこし元気になったマリアベルは自分と向き合う時間ができた。ほとんど付きっきりだった侍女たちにも自由を与えると、マリアベル自身も誰にも干渉されない一人になる時間がほしくなった。
とはいえ、マリアベルの行動範囲といえばさして広くはなく、ルダの城内でも離れの塔とちいさな庭園だけが許された場所だった。
日頃から限られた人間だけが出入りする場所だ。それにしては静かだし、いつまで待ってみても義理妹も来てくれない。この日、マリアベルを行動的にしたのは、きっと淋しさからだったのだろう。マリアベルは一人で回廊を歩いてみる。しかし、どれだけ進んでも人の気配はとんとなく、城のなかが空っぽになってしまったみたいだった。
回廊が終われば次は螺旋の階段が見える。そこそこに広い城内であるから底冷えがして、マリアベルは外套を着込んでくるべきだったと後悔する。それに、いまは春ではなかったのかしら? ルダに春の訪れは遅いとはいえ、こんなにいつまでも雪が降るのだろうか。見あげれば灰色の雲が見えたし、空からは白い雪が落ちてくる。
「マリアベル殿下……?」
たしかめるように落ちた声にマリアベルは振り向いた。そこには銀髪の少年がいる。彼は、たしかルダの公子だ。
「お、おひとりですか? だれか、ほかに供の者は、」
「あ、あの、待ってください。わたくしは、ひとりです。すこし、歩いてみたかっただけなの」
だから、ここで騒がれては困る。大きな声を出さないでほしいと、マリアベルの目顔を読み取ったのだろう。アロイスは驚きつつも、うなずいた。
「でも、おひとりというわけにも」
「ええ、そうね……。ですから、あなたが一緒にいてくださらないかしら?」
それはちょっと意地悪な声だったのかもしれない。少年の瞬きが急に増えた。成人を前にした少年でも彼はルダの公子だ。暇を持て余しているわけではないだろう。でも、きっと彼は断れないし、このまま付き合ってくれる。マリアベルはそう確信している。彼が自分と良く似て、他人と話すときにちゃんと目を合わせない人間だと知っていたからだ。
「あの、実は妹を探していたの」
アロイスはまじろいだ。マリアベルの妹たちは二人とも王都マイアにいる。この少年は聡い。遠くにいる妹たちではなく、血の繋がっていない義理の妹を連想したようだ。
「レオナ殿下はすぐには戻らないですよ」
「えっ? どうして?」
「えっと、それは……。外出中だからです。あ、でも、心配は要りませんよ。姉上も一緒だし、聖騎士様だって傍にいます」
「まあ、そんなに大勢でどこに行ったのかしら?」
「それは、あの……」
急にうつむいてしまった少年に、マリアベルはもうすこし近付く。意図せずとも圧を与えていたのかもしれない。アロイスは一歩うしろにさがった。
「鷹狩りです。みなさん、鷹狩りに出掛けたみたいで」
「こんな雪の日に……?」
つまらない嘘を吐くものだと思った。たぶん、少年は他人の前で嘘を重ねるのができない人間なのだろう。
「ねえ、アロイス。あなた、なにかわたくしに隠しているでしょう?」
「い、いや……。そんな、とんでもない」
「わたくしの目を、ちゃんと見て」
「お、王妃様……」
泣きそうな声でアロイスが言う。嫌な予感がする。そうだ、最初にレオナが来てくれたとき、彼女は何を言ったか。
「伯父上が来ているのね?」
レオナはマリアベルの伯父、オルグレムの名前を出した。あの日のマリアベルは途中で気分が悪くなって、そのあとは義理妹にひどい言葉を投げてしまった覚えがある。
何も知らなくてもいいと、侍女たちはそう言う。バルトとともに、こうしてルダに守られていればいいのだと、マリアベルもそう思っていた。
ちがう、と。マリアベルの唇が動く。わたくしは、イレスダートの王妃。なんにも知らないただ震えているだけの女でいて、いいはずがない。
彼女のこえがきこえる。かえらなければならないと、言った。力を貸してほしいのだと、願った。それなのに、自分を守るために拒絶したのはマリアベルだ。無力でかわいそうな女を演じていれば逃げていられると、そう思い込んでいたからだ。
「王妃さま。落ち着いてください。大丈夫です。心配するようなことはなにも、」
「いいえ」
心配は要らないのだと、彼の声を遮る。マリアベルはちゃんと彼の目を見た。そこにあるのは虚勢だった。
「ぜんぶ、話してください。わたくしはもう逃げません」
何も知らないままに、すべてが終わったあとに迎えに来た伯父の前で、感情のない人形みたいにしていられたら、きっと楽だっただろう。
オルグレムはマリアベルをこれからも守ってくれる。けれど、それではマリアベルを守ってくれたルダの人たちを失ってしまう。それこそ背信ではないのか。裏切りは、罪にしかならない。
「それから、連れていってほしいのです。わたくしを。あるべきところへと」
マリアベルは罪を償うだけの勇気も強さも持たない。
大切な人たちを守るだけの声を持っているだろうか。まだ、間に合うというのなら、マリアベルははじめて自分の意思でそれを選ぶ。
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