レオナとマリアベル
幼子の顔はどれだけ眺めていても飽きないと、レオナは思う。
それが血の繋がった甥っ子ならばなおのこと、レオナがその血色の良い頬を突いてみるたびに彼はきゃっきゃと愛らしい声で笑う。
瞳の
口元や鼻筋なども父親とよく似ている。
他にもそっくりだと感じるところはたくさんで、いつまでも彼を見ていたくなるしその成長を追いつづけたくもなる。乳母や教育係によると、日に日に表情が豊かになっていくというのだから、どんなささいな話にもレオナは笑みで返す。同時に胸が切なくもなった。
ルダで生まれた王子、しかし彼のあるべき場所は王都マイアだ。
我が子が生まれたというのに、まだその腕で一度も抱いてはいない兄のところに、早く連れて行ってやりたい。ルダに迫る騎士団などには渡さないし、彼は堂々と負うと王都に戻るべきだと、レオナはそう思うのだ。
けれども、幼い王子がいるべきなのは母親の腕のなかが先だ。
産後の肥立ちが良くないらしく、王妃マリアベルは一日伏せっていたりと、ほとんど部屋に籠もりきりの状態だった。王妃の傍付きたちが、機嫌の良い日を見計らって会わせてくれるというので、レオナはその日を緊張しながら待った。義理の姉と会うのは数えるほどだった。
歳はたしかレオナの四つ上、オリシスのテレーゼがそうだったように、マリアベルも幼少の頃から王家に嫁ぐことが決まっていた人だ。政略結婚に愛など必要なければ、彼女に求められたのは丈夫な跡継ぎを生むことだけだった。それほど身体の強くなかったマリアベルはなかなか子どもを授からずに、白の王宮では肩身の狭い思いをしていたのかもしれない。
ようやく待ち望んだ子が生まれる。それなのに、マリアベルは王都から引き離されてこのルダへと送られてしまった。夏はたしかに過ごしやすいが、しかし冬の寒さは王都とは比較にならない辺境の地だ。レオナはそのときから、兄が何を考えているのかわからなかったし、詮索しようにも自らも幼なじみのところに行くようにと命じられて、それきりだ。
やがて、彼はレオナの腕のなかで眠ってしまった。
いつまでも眺めていたい。母親ならばもっと強く望んでいるはずなのに、とレオナは詮なきことばかり考えてしまう。半年も過ぎればそろそろ体調も整ってくるだろう。それなのに、マリアベルの具合は良くなったり悪くなったりの繰り返し、心の不調も関わっているのかもしれない。今日は比較的機嫌も良いというのなら、ひさしぶりの会話をたのしもう。レオナは侍女に案内されて、マリアベルの部屋を訪れる。昼間だというのにずいぶんと薄暗く、マリアベルはカウチに腰掛けてぼうっとしていた。
「マリアベル、ねえさま」
あらかじめレオナが来ることも、侍女からきかされていたと思う。でも、マリアベルは呼ばれてはじめてレオナの存在を認めた。
「レオナ……さま?」
虚ろな瞳はちゃんとレオナを映しているだろうか。
侍女は香茶を用意してから部屋を出て行った。すぐ傍に控えていますので、何かあったら読んでください。そう、目顔で伝えてくれる。レオナはまずカウチに座ってマリアベルと向かい合った。
「はい、ねえさま。わたしは、ここにいます」
義理姉と最後に会ったのはいつだろうか。少なくとも一年は前で、しかしこんなにも痩せていなかったように思う。もともと色白だった人だが病人みたいに青白い頬をしている。長い金髪は結わずにそのまま背に流しているし、
「やっと、お会いすることができました」
本当はもっと早く彼女のところに行きたかった。レオナの近しい身内と言えば兄のアナクレオンとマリアベル、それから生まれたばかりの王子くらいだ。ソニアを忘れたわけではなかったものの、望んで会えるのはマリアベルと甥っ子だった。レオナは、自分がマリアベルの淋しさを埋められるようになりたかったのだ。
「お可哀想に。貴女も、捨てられたのね」
だからこそ、彼女が発した声にレオナは目を
「わたくしたちには、居場所なんてどこにもないのだわ」
それは、呪詛のように。静かに、冷たく、落とされる。しかし、どこか他人事のようにもきこえたのは、彼女がそれだけ絶望していたからかもしれない。誤解をしていてもおかしくはない。身重という、一番慎重になるべきときに王都から離されてしまったのだ。マリアベルは抗議の声など持たない。ただ、王の声に従うだけだ。
「いいえ、ねえさま。それはちがうの。どうか、わたしの声をきいてください」
レオナはマリアベルの目をしっかりと見る。
「兄上は、わたしたちを守ってくださっていたのです」
「まもる? 何を、言っているの?」
無垢な子どもの目をしながら、それでもマリアベルはレオナの声を否定する。侍女たちがすぐにマリアベルに会わせなかった理由がよくわかった。言葉を慎重に選ばなければ、彼女はこのまま心を閉ざしてしまう。
「国を、イレスダートをまもるためです。……いいえ、わたしたちを」
それは、レオナが信じてやまないことだった。
不安はある。けれど、それを声にすれば兄を疑っているのとおなじだ。兄は間違えたりはしないと、レオナは何度も口のなかで繰り返す。
最後にアナクレオンと会ったのは王都マイアの大聖堂だった。兄はレオナに言った。その目で見てその耳できくべきだと、たしかにそう告げたのだ。
いま頃になってやっと、兄の心がよくわかる。
あれは、北の敵国ルドラスと城塞都市ガレリアだけではなく、もっと大きなものを、すなわちせかいをその目で見なさいという意味だったのだ。
白の王宮という限られた狭い場所だけがレオナの世界だった。けれどもそこから一歩外へと踏み出せば、いろいろなものが見えてくる。戦争なんてどこか遠くで起きているだけの、レオナとは直接関わりのないのだと、現実を見ようとはしなかった。幼なじみが前線に送られたときだっておなじだ。別の誰かが、レオナの知らないような誰かが、代わればいいのだとずっとそんなことばかりを思っていた。
イレスダートだけではなかった。ラ・ガーディアにグラン、レオナはすべてを見てきた。
「かえりましょう? マイアに。戻らなければならないのです。わたしたちは」
そして、レオナは幼なじみとともにイレスダートへと戻って来たのだ。
王都マイアはもう遠くはない。このルダから王都にまで帰るのだって、馬車をゆっくりゆっくり進ませても、ひと月あればたどり着ける。
何者にも邪魔はさせない。王都からの迎えなんて必要ないし、レオナは幼なじみと一緒にマイアに戻るつもりだ。それにはまず、マイアの軍勢からルダを守らなければならない。
「きいてください、ねえさま。わたしは、これまで守られてばかりでした。わたしが弱いばっかりに、兄上を支えることができませんでした。でも……、そんなわたしを助けてくれるひとはたくさんいました。いまはもう、わたしはひとりではありません」
そこで一度呼吸を整える。長い旅だった。それが昨日のことのように思い出せる。
「わたしには、守りたいものがたくさんあります。だから、わたしもまた戦います。そして、マイアへと。今度こそは、兄上をお助けしたいのです」
「でも、あの方は」
「待っています。兄上は、わたしたちを」
兄を一人きりで戦わせたりはしない。いま、イレスダートで起きている混乱は、絡み合った複雑な糸がそうしているだけだ。けれど、王がもしも誤った道を行くというのならば、正しいところへと導かなければならない。妹として、
「ですから、おねがいです。ねえさまもどうか一緒に。わたしたちに、力を貸してください」
「……わたくしに、何をしろとおっしゃるの?」
マリアベルは黙って最後まできいてくれた。しかし、それはどこか自分には関係のないことのように、きいていたのかもしれない。力を貸してほしい。訴えたレオナに、王妃は何かを疑うような表情をする。
正直に言うべきだ。レオナは覚悟を決める。やさしい声だけが優しさじゃない。彼女はイレスダートの王妃である。守られてばかりの存在でいるのはここまでだ。
「あなたの声を持って、説得をして頂きたいのです」
「説得?」
「はい。いま、このルダにマイアの騎士団が迫っています。彼らを率いるのはオルグレム将軍。ねえさまの、伯父上です」
緊張で声が震えないようにするのも大変だし、喉もカラカラになった。侍女が淹れてくれた香茶にも手を付けずに、レオナはただマリアベルの反応を待つ。彼女はちゃんときいてくれている。少なくともいま何が起こっているのか、理解してくれているはずだ。
「どうか……、マリアベルねえさまの声で、彼らを止めて頂きたいのです。まずは剣を収め、ルダから退くようにと」
「やめて!」
悲鳴のような声に遮られた。突然マリアベルは震えだして、それから両手で耳を塞いだ。いけない、癇癪がはじまるとレオナの手に負えなくなる。
「ねえさま、まって。どうか、最後まできいて」
「ききたくないわ。わたくしに、何ができるというのです? わたくしはただの女です。王から捨てられた惨めな女なのよ? わたくしには何もない。あなたとはちがう!」
落ち着かせようと、伸ばしたレオナの手は思い切り振り解かれた。マリアベルの目がレオナを睨み据えている。
「ね、ねえさま。おねがいです。わたしは、」
「やめて、何もききたくないわ!」
「マリアベルねえさま……!」
「返して、わたくしの子を返して! バルト、あのこだけがわたくしのすべてだった。それなのにあなたたちは、わたくしからバルトを奪ってしまうのね!」
半狂乱となってマリアベルが襲い掛かってきた。
この細い身体のどこにそんな力があったのだろう。マリアベルは力任せにレオナをたたく。金切り声は扉の外にまで届いて、侍女たちが二人掛かりでやっとレオナからマリアベルを引き離した。頬と首と鎖骨、それから腕が痛いと思った。マリアベルは殴りつけるだけではなく、レオナを引っ掻いたりあるいは掴み掛かったりした。
医者が呼ばれて入ってきた。老齢の医者は慣れているのだろう。暴れる王妃に注射器で薬を投与した。レオナはただ呆然とする。イレスダートでは強い薬の処方が禁じられていて、鎮静作用のある薬の多用も認められていなかった。しかし、マリアベルのこの様子では致し方なかったのかもしれない。
時が解決してくれるのを待つしかないと、医者が言った。きっと、マリアベルは次に目覚めたとき、今日のレオナとの会話を覚えていないだろう。くじけずに何度も彼女と向き合えば、いずれ王妃は受け入れてくれる。侍女たちもその日を信じている。でも、それでは遅い。そんな日が来るより先に、ルダはマイアの騎士団によって壊滅する。
「なあに辛気臭い顔してんのよ」
部屋を出てすぐの声がそれだったため、レオナは取り繕う間もなかった。
「やめてよね。こっちまで暗くなるじゃない」
口論の末に殴り合った仲だ。ルダの公女の性格など十分すぎるくらいに知っている。レオナはちょっと笑った。
「そう、見えるの?」
「私は世界で一番かわいそうです、って。そんな顔をしてるわよ」
アイリスの明け透けのない物言いは嫌いじゃない。ふっと力が抜けて座り込みそうになったレオナの横に、アイリスが並ぶ。
「そう……、ね。わたし、自分に何ができるつもりだったんだろう」
ため息を吐くつもりはなかったのに、勝手に出てきてしまった。アイシスの目に自分はどんなに惨めに映っているだろう。卑屈になるのはレオナが弱いせいだ。
「いいのよ、別に。最初から期待なんてしていないから」
頬をたたかれたときよりも、ずっと痛かった。
「ちょっと、やだ。なによ、その顔。やめてよね、これじゃあ私がいじめているみたいじゃないの」
あまりにひどい表情だったらしい。アイリスは自分の発言に悪意が含まれていることも、ちゃんと自覚していたようだ。
「誤解しないでよね」
そう、アイリスは前置きをする。よく見れば、最初に見たときよりもアイリスの目はずっとやさしい色を宿している。
「王妃サマのことよ。あの人、自分で言ってたでしょ? 普通の女だって。まあ、そうでしょうね。あの人は生まれたときから、すでに王家に嫁ぐことが決まっていたそうじゃない? つまり自分の意思なんてものは最初からないの。だいたい、子どもを産んだばかりなのよ? いろいろと不安定になるのも当然じゃないの」
軍議室のアイリスはとにかく辛辣で、強い口調でレオナの兄を罵った。けれど、それはアナクレオンがこの国の王だからだ。すべての責務を負うのは王として当然だと、アナクレオンならそう言う。
「一応、同情しているのよ。マリアベル殿下にはね」
「やさしいのね、アイリスは」
「馬鹿ね。同情だって、そう言ったでしょ」
マリアベルはアナクレオンとはちがう。たしかにマリアベルという人はイレスダートの王妃だ。ただ、彼女は何の力も持たないし、それは以前のレオナもおなじだった。自分にはなにもできない。オリシスで幼なじみに言ってしまった声を、レオナは覚えている。
王妃と王子は保護する対象であると、アイリスはそう思っている。ルダはきっと最後まで戦いつづけるし、二人を見捨てない。
「あなたに、はなしたいことがあったの」
「そ。私にはないわよ」
謝罪する時期を逃してしまった。いまこそその時間だというのに、アイリスは仲直りする機会も与えてくれないらしい。
「口だけのオヒメサマじゃないってわかったから、別にいいわよ」
「……でも、ほんとうはちょっと怒ってる、でしょ? わたしだって、いたかったもの」
「うるさいわねえ」
もしかしたら、きっかけを作りたかったのはアイリスもおなじだったのかもしれない。レオナはくすっと笑う。強いひとだと、思う。己の信念を曲げたりはしなければ、己の正義を疑ったりもしない。アイリスはそういう人だ。
「あなたのことは、ただのオヒメサマだなんて思ってないから。力を持つというなら戦ってもらうわ。ルダのために」
そのつもりだ。これ以上の言葉は要らない。いまはもう、無力さを嘆く必要もない。レオナには、その力がある。
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