悪い報告②
大聖堂の礼拝堂には聖イシュタニアの像がある。
敬虔なるヴァルハルワ教徒たちは聖イシュタニアの前で膝をつき、そうして解言の言葉を繰り返す。信徒とはちがうブレイヴは、食事の前や就寝時の祈りの言葉は唱えるような習慣はなく、けれども彼らのように祈りを欠かすことのない生き方を選べばよかったのかと、そう思う。急に自分を笑ってやりたくもなった。そんなものは、守れなかったものの言いわけだ。
ディアスとオスカー、二人が去った大聖堂にブレイヴとレオナは残っている。規則正しく並べられた椅子に彼女は腰掛けて、ただぼんやりとイシュタニアの像を眺めている。
「帰ろう、レオナ」
ブレイヴは幼なじみの前に跪く。レオナの
「はやく戻らないと。ルテキアもロッテも、心配してる」
初春の季節は昼間はあたたかくとも、夜になれば冬に戻ったみたいに冷える。外套を着込んでこなかったので、思ったとおり幼なじみの手は冷えきっていた。両手で彼女の手を包み込む。やっと、目が合った。
「そんなのは嘘だって、そう言ってはくれないのね?」
縋るような目でレオナはブレイヴを見る。いまさら偽りを声に出したとしても幼なじみはもっと傷つくだけで、でもレオナは自分が傷つきたいからそんな言葉をブレイヴに求めている。こんなときに気の利いた声ひとつを落とせない自分が嫌になる。
世界にふたりだけみたいだ。神聖なる大聖堂のにおい、夜の
「どうして、なの?」
ぽつり、と。声と同時に幼なじみの目から透明な雫が落ちた。
「どうしてわたしは、こんなところに、いるの?」
純真たる子どもさながらの目で、幼なじみはブレイヴを見つめている。
「ギル兄さまは、いつもひとりで戦っていた。わかったいたのに、どうして、わたしは……」
両の手に顔を埋めて泣く幼なじみに、なにをしてやれるだろう。ガレリア、アストレア、オリシス、そしてサリタ。ずっと逃げつづけてきたブレイヴは西へと向かうことを決めた。その先はグランだ。間違っていたのなら、どこからなんてわからない。イレスダートに留まり、王都へ戻る手段を模索した方がよかったのか。そうすればいくつもの悲劇を避けられたかもしれない。結果論だ。ブレイヴはちゃんとわかっている。それなのに、幼なじみに対してなんの言葉も持てない。
「ねえ、言って? ギル兄さまは無事って。そう、言って?」
「アナクレオン陛下は、」
まだ頭が混乱している。きっと彼女もそうだ。理解の追いつかないことだらけで、なにを真実だと認めればいいのだろうか。オスカー・パウエルは嘘を言わない。ディアスを連れ戻すための虚言にしては度が過ぎているし、そうしたたちの人間には見えなかった。だからあれはすべて真実だ。ムスタール公爵ヘルムート。かつてブレイヴの教官だった黒騎士が、その手を大逆の血に染めたなどと信じられなかったとしても。
「どうして、言ってくれないの?」
それは、彼女がいつも求めていた声だ。
「どうして、こたえては、くれないの?」
懇願するように、甘く、おちる。
「いつもみたいに、笑っても、くれない。だいじょうぶだよって、それすらも……」
せめて彼女がこれ以上震えなくてもいいようにと、ブレイヴは幼なじみを抱きしめる。清冽な花のにおいがする。レオナがいつも好んで付けていた香油を最初に選んだのは彼女の兄だ。
「かえりたい」
ブレイヴの胸のなかで、また幼なじみは泣く。
「帰りたい」
「うん」
「かえり、たいの」
「うん。レオナ。……わかってる」
「帰りたい。帰りたいよ、ブレイヴ。わたし、わたしは……、かえりたかったの」
途切れ途切れで、頼りなく落ちるそのちいさな声は。世界にたったひとつ落とされた、彼女のほんとうの心が紡いだ願いだったのだろう。
「レオナ」
行きたくなんてなかった。
オリシスの庭園、アナベルの花が咲くその前で幼なじみは言った。ガレリアに行くのがこわかった。アストレアでもオリシスでも不安なままだった。そう言って泣く幼なじみは昔と変わらない王女のまま、だからブレイヴは早く幼なじみを王都に戻してやりたかった。
生まれた場所へ、育った場所へ。そこに本当の自由がなくなったとしても、あの場所が彼女のあるべきところなのだ。一緒に帰りたかった。そう繰り返しながら泣く幼なじみをブレイヴは離さない。もしかしたら帰りたかったのは自分だったのかもしれないと、ブレイヴは思った。
「イレスダートへ。王都マイアに戻ろう。連れて帰る。かならず、きみを連れて帰る。だから、一緒に」
どれだけ回り道をしたとしても、力を手に入れるためには手段を選ばない。ラ・ガーディア、そしてグラン。イレスダートで味方が作れないならば、他国に頼ればいい。すべては幼なじみを王都に帰すためだ。それからアストレアも取り戻す。遠いなと、ブレイヴは思う。オスカーがディアスを迎えに来て当然だ。遠い上にその旅路には果てがない。だとしても、この歩みを止めるわけにはいかない。
「一緒に帰ろう、レオナ」
この手がどれだけ汚れたとしても、構わない。
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