孤独に生きた者の末路①
玉座を守っているのは少年王ミハイルだ。
頭上に戴くはずの王冠も
はるか西の聖王国イレスダート、ヴァルハルワ教会の本処ムスタール公国より聖なる使者がやってくるのは、戴冠式から半年後である。いったい誰が厄介なしきたりを決めたのか。ミハイルは玉座に腰掛けていても、王冠を戴くことも王錫を手にすることも許されてはいなかった。
だからこそ、少年は焦っていたのだろう。
傾き掛けているサラザールはいつ崩壊してもおかしくない国だった。華美を好み放埒な生活をたのしんできた歴代の王と自分はちがう。少年はそう繰り返していた。
しかしミハイルもまた囚われている一人なのだ。ラ・ガーディアの始祖たち、その末弟であるサラザルは他の兄弟たちへの劣等感に苦しんだという。堅牢で美しい王城を造りあげながらも満足することはなかったのかもしれない。そうした気質は子や孫へと受け継がれていき、サラザールを戴く王たちはいつからか諦観を抱く。政治を省みず
玉座に腰掛ける少年の横顔をイシュタリカは見る。
理想ばかりを謳う少年王には苛々させられたものの、彼女はミハイルという人間が嫌いではなかった。こうして少年の傍らに立っているのはきっと同情心からだろうと、彼女は思う。サラザールを守ってきた騎士団はリンデルという将軍を失って、著しく士気がさがっていた。王族や諸侯らは真っ先に逃げ出した。残った文官や侍従たちは少年王に脱出を促したが少年は従わず、そうして見捨てられた少年王はただ玉座を守るだけだ。
なぜ、ここまで少年は玉座にこだわりつづけるのか、イシュタリカには理解できない。少年王の傍らにはイシュタリカと、二人の処刑人が控えている。叛乱軍が王の間へと突入しても戦うつもりはなく、混乱に乗じてサラザールを捨てるつもりだ。この聡い少年はイシュタリカの胸の内など読んでいるはずで、最初からその力を当てにしていない。見届けさせようとしているのか。憐れな少年に残っているのはまるで意味のない矜持だけだ。
先ほどまで騒がしかった回廊が静かになった。
いま一度、イシュタリカは少年王の横顔を見た。怯えているようには見えないし、反対に諦めているようにも見えない。この少年はいったいどうするつもりなのだろう。叛乱軍の指導者はかつて城勤めをしていたガゼルという騎士だ。ガゼルは老王に妻女を奪われた過去を持つ男で、サラザール王家を憎んでいる。ミハイルが命乞いをしようとも許すとは思えないし、それならば最初から反旗を翻したりしないはずだ。少年王と叛乱軍の指導者、敵対する者たちの会話に興味を持ちつつも、この少年と一緒に心中するつもりもないイシュタリカである。
さて、どんな声をしてここから去るべきか。思案するイシュタリカの
「お前の目的はなんだ?」
イシュタリカはまじろぐ。もう他には味方など残っていないミハイルだ。裏切り、逃亡、見捨てられた少年王がいまさら何を知りたがるのか、イシュタリカにはわからない。
「お祖父さまが見初めた愛妾の一人。だが、お前がただ偶然に、このサラザールに流れ着いたとは思えない」
「まあ。そんな推理をなさって、私の何を知りたいのかしら?」
「望みどおりになっただろう? この国はまもなく終わる」
「南のイレスダートと北のルドラス。双方で行われるはずだった和平条約は夢物語で終わった」
急に話題が逸れたように感じる。イシュタリカは小首を傾げて、そのまま惚けてしまおうかと思った。少年がくつくつと笑っている。
「お前の国だろう? 知らないとは言わせない。いまだに終わらない戦争を収めようとして、ある王女と王子が引き合わされた。王女はまもなく十九歳、王子は十三歳の子ども。敵国の二人は政略の道具として使われ、その婚約は
イシュタリカの笑みが消える。虚言を吐くならば最後まできいてやってもいいと、そう思ったからだ。
「ところが、どちらも現実とはならなかった。城塞都市ガレリアを越えて北国へと足を踏み入れたイレスダートの要人たち、調印式のために南へとおりていたルドラスの要人たち。嵐に見舞われた両陣営は壊滅、イレスダートの王並びに麾下たちは敵国の大地で命を落とし、王女はそこから消息を絶った。ルドラスもまたおなじく、王女を迎えに来ていた王子をそこで失った」
よくもまあ、遠く離れた東の聖王国をここまで調べたものだ。イシュタリカは聡明なこの少年王をすこしばかり見直した。ミハイルの声はまだつづく。
「なぜ、そこから両国の戦争へと加速しなかったと思う? 答えは簡単だ。その婚約は極秘だったからだ。消えたイレスダートの王女はまだいい。だが、ルドラスの王子の死は隠さなければならなかったし、そこに王子が来ていたという事実も消さなければいけない」
「……開戦を声高に訴える者たちを退けたのは、イレスダートの王でしょう?」
「それもあるだろうな。かのアナクレオン王は賢王と名高い方だ。それにルドラス側にしても都合が良かった。王子の死は痛手となったが、強攻策を要した者たちの罪も免れる」
「ずいぶんと詳しいこと。イレスダートでさえ一部の人間しか知らないような情報を、どうやって手に入れたのかしら?」
「簡単だ。情報屋は金貨さえ握らせれば、こんな遠い西の果てにも届けてくれるからな」
そこでようやくイシュタリカは笑みを取り戻した。賢しらな子どもだ。そこまで知っていて、これ以上何を知りたいと言うのだろう。ミハイルの灰青色の瞳がイシュタリカを射貫く。陽光の下では青に見えた瞳が、いまはほの暗い灰色に変わっている。
「わからないのが消えた王女だ。イレスダートにも戻れず、孤独に彷徨う女が何を求めているのか。僕が知りたいのはそこだ。お前は以前、僕に言ったな。あそこにはもう戻れないと。だが、多くを望まなければどこにだって行ける。自由は外の世界にいくらでもあるのだから」
作っていた笑みが醜く歪んだのが自分でもわかる。ああ、そうか。この少年は生まれながらの王者だ。自分の孤独を理解していて、けれども他者から蔑まれるのを許しはしない。イシュタリカにしても似たようなものだ。同情や
「だからこそ、僕にはわからない。イシュタリカ。手に入れたいのなら、サラザールでなくとも、」
どうやってこのよく回る口を黙らせようか。イシュタリカが思案したその刹那だった。彼らは詠唱もなしに瞬時に魔力を具現化させることができる。空間に作られていた無数の氷の刃が一斉に放たれた。為す術もなくイシュタリカはそれを見ていた。玉座の王へと、氷の刃が突き刺さるそのさまを。
「なにも殺さなくとも……」
イシュタリカはつぶやく。見開かれた灰青の瞳、ミハイルの眼が最後に映したのは彼女の姿だ。処刑人たちは人ならざる存在であり、二人は人の言葉を皆まで理解してはいなかった。ただ、彼へと繋がることを恐れたのだろう。取るに足らない人間の子どもの声であっても、彼らにとって王は絶対だ。
彼の言うとおりにしておくべきだったのかもしれない。イシュタリカはかわいそうな子どもを見て、やはりこの胸に宿る感情は同情だと思った。ミハイルは彼女のことを何もわかってはいなかった。そう、彼女にとって目的などただの手段でしかないのだ。彼が彼女に与えてくれる唯一、だからイシュタリカはサラザールもルドラスも、イレスダートでさえもどうだっていい。
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