過去と罪①
大通りを真っ直ぐ進むとそのうちに教会が見えてくる。そこからゆるやかな坂道を上って行き、路地裏へと入れば細道がつづく。擦れちがう人もほとんどいなくなったのは、教会の鐘の音が止んだからだ。
そういえばと、ブレイヴは思い出す。オリシス公は敬虔なヴァルハルワ教徒ではなかったのかもしれない。それでも、アルウェンは
「良い眺めだろう? ここからオリシスの城下街が一望できる」
アルウェンはブレイヴが来るのを待ってくれたらしい。彼は微笑し、それから左手に持っていた花束を石碑へと捧げた。カンパニュラの花だった。
アルウェンは祈りの
「オリシスの街は美しいですね」
見え透いたお世辞などではなかったから、アルウェンも笑みで返してくれる。イレスダートは良い国だ。異国から来た剣士はこの街を見てそう言った。ブレイヴもおなじことを思う。
雨上がりのにおいがする。街路樹も花園も綺麗に手入れされていて、夏が近づくにつれてその色彩は豊かになる。規則正しい間隔で建てられた青藍色の三角屋根の家が並んでいる。洗濯女が出てきておつかいを頼まれた幼い兄弟と挨拶を交わしている。馴染みの顔らしく、洗濯女はエプロンのポケットからお菓子を取り出した。弟は大喜びをして兄はちゃんとお礼を言ってから坂道を下って行く。兄弟と反対を行く
午後のゆったりとした時間ならば、店主も紛いものを薦めたりはしない。
恋人への贈りものならば懐中時計を、世話になった知人には硝子の茶器を、もうすぐ誕生日を迎える友達には鏡など、目移りするものばかりだ。次に露天市場に行くときにはこの時間が良い。そう教えてくれたのはアルウェンだった。オリシス公はときどき城を抜け出すそうで、けれども彼の妻テレーゼへのお土産は忘れない。行きつけの花屋があるのだろう。ああ、そうだ。カンパニュラの花言葉は感謝だ。
「ところで、君にはひとつ苦情を言わねばならない。なに、身構えることもないが、しかしアストレアの軍師は薄情な男のようだからな」
臣下の不始末は主が責任を負わねばならない。それは当然だ。ブレイヴはもうすこし背筋をちゃんと伸ばす。ここが、どういう場所かもわかっている。
「申しわけありません、彼は……」
「セルジュはまだ戻っていないのか? アストレアにも?」
ブレイヴはうなずきで返す。急に居心地が悪くなってきた。たぶんアルウェンは責めるつもりで言っているのではない。でも、ブレイヴはアストレアの軍師の居場所を知らないし、教えてほしいくらいだった。思考がそのまま顔に出ていたのかもしれない。アルウェンは苦笑する。
「私は怒っているのではないのだよ。失敗をしない軍師などいないからね。彼はまだ若かったし、なにより責任を一人で負うことはない。だからこそ、私は彼を許した」
「存じております」
けれども、オリシス公は自分自身を許せてはいない。だからひと月に一度、自分の足でこの場所へと来る。
「人は過ちを犯す生きものだ。しかし、過去は変えられなくともやり直すことはできる」
まるで自分に言いきかせているみたいだ。ブレイヴはしっかりアルウェンの瞳を見つめる。この人は強い。自分の弱さも過ちもぜんぶ認めているし、声にすることだってなにひとつ躊躇わない。
人は、どこまで許されるのだろうかとブレイヴは思う。戦争において絶対という言葉など存在しないのだ。そう、アルウェンは以前言っていた。そうしてそのとおりになった。大敗を喫したオリシス公は戦場で戦えない身体となり、普通の生活をするにも支障をきたしている。でも、彼はまだ騎士だ。それなのに白の王宮はアルウェンを騎士とは認めずに王都から、国王アナクレオンから遠ざける。オリシスはイレスダートが公国のひとつ、北東のイドニアやムスタールに次ぐ大国である。しかし、国の存亡をかけたあの軍事会議の末席にも、アルウェンの姿はなかった。それが、すべて。
「そんな目をするものではないよ、ブレイヴ。私はもうテレーゼを泣かせるようなことはしない。その前にロアが私を止めるだろうし、それにシャルロットもいる」
信じてもいいのだろうか。いま、どういう表情でいるべきなのかブレイヴはわからなくなる。アストレアの軍師のように逃げればいい。けれどもアルウェンはどこにも行けない。彼が失ったのは剣だけではなく、アルウェンを信じて戦ったオリシスの騎士たち、残された家族や友人にオリシス公はいまも償いつづけている。
「私はね、運命というものを信じない。だが人は、時にその言葉に縋ってしまう。そういう
「わかります。私も、おなじでしたから」
声にするべきかを迷った。失ったものの重さがちがうと言われれば、それまでかもしれない。しかし、過去をひどく後悔することがあるのはブレイヴもそうだ。
「恩人か。……いや、君の教官だったな」
「はい。ですが、あの人は私たちの友でした。一度もそう呼ぶことは叶いませんでしたが……」
「負い目があるからか? 君はやはり真面目すぎる。そうやって自分を苦しめていて、騎士が帰ってくるわけでもないだろう? そんなものを望むような人間だったのか? 彼は」
いいえ、と。否定を紡ぐための声がうまく出てこない。皆まで語らずともアルウェンはきっと知っている。士官学校を卒業してもブレイヴはアストレアに戻らずに王都に留まっていた。とある伯爵のところで世話になり、偶然に再会したのがかつての教官ともう一人の友だった。いや、偶然にしては出来すぎている。あれは四年前、アナクレオンが即位してしばらく王都マイアは荒れていた。
「国王派と元老院派か。どちらに味方するのが得策か。王都の大貴族たちは
風がすこし出てきた。今日はとてもよく晴れていて寒くはなかったが、アルウェンは左腕をしきりに触っている。いまも治ってはいない傷が痛むのだろう。
「それにはヴァルハルワ教も絡んでいるな。陛下は教会を殊に嫌っているから、敬虔な信者が不安に思うのも当然だろう」
「国王派の貴人たちも恐れていました。けれども、それは誤解です。陛下が信仰を奪うなどけっして、」
「とはいえ、君は彼らの動きを知るために諸侯に近づいた。そうだろう?」
ブレイヴは首肯する。そして、そこには先に騎士がいた。目的はブレイヴとおなじ、貴人たちを監視するためだ。
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