ガレリア脱出①

 その色をたとえるなら、何が一番似合うのだろう。

 どこまでもつづく蒼穹のように、あるいは静かな海のように。けれどもフードから滑り落ちる長い髪の毛はそのどれよりも清冽であり、うつくしい色だった。そして、目と目が合う。眼窩に埋め込まれた蒼の色もまた純粋で、青玉石サファイアを思わせる。かの宝石には慈愛や高潔などの意味があるそうだが、彼女にはその言葉がぴったりだ。しかし、青の瞳は不安とおそれを隠しきれずに、ふっくらとしたやわらかそうな唇は何かを紡ぎかけて止まる。ブレイヴは瞬きを繰り返していた。夢や幻などではなかった。見間違えるはずもなかった。清麗な佳人はブレイヴを見つめている。麗しの姫君。幼なじみの彼女は、たしかにそこにいる。

「レオナ……、どうして……?」

 彼女の名を呼んでしまったのは余裕がなかったからだ。王女の傍付きは片言へんげんをきき逃さずに、目顔でブレイヴを戒める。しかし、ブレイヴの視線は幼なじみから離れない。

「兄上が、あなたのところに行くようにって、それで……」

 皆まで言わないのは傍付きに止められているせいなのか、それとも彼女自身がまだこの状況を受け入れていないためか。

「陛下が、でも、それは……」

 これは王命ではない。王女の騎士は最初にブレイヴにそう伝えた。それでも、ブレイヴは信じられないものを見る目をする。頭で理解をしようとしても心が追いつかない。

「わからないの。ギルにいさまは、それだけしか言ってくださらなかった。だから、わたし……」

 幼なじみを落ち着かせるための言葉を作らなければならないのに、ブレイヴの唇は上手く動かない。どうして彼女がこんなところにいなければならないのだろう。ここはイレスダートの北の城塞で敵国ルドラスにほど近く、幼なじみは白の王宮というもっとも安全な場所にいるべきひとだ。ブレイヴは呼吸を深くする。思考をそこで止めなくてはならない。レオナは王家の末子で、イレスダートを守護する竜の末裔であったとしても、その身に特別な力を宿しているただひとりだったとしても、そんなものは関係がないのだ。

 アナクレオンが王になる前のことを、ブレイヴはよく知っている。彼は生まれながらに王であり、しかし王としての顔よりも王子としての顔よりも、兄としての顔をしていたことを覚えている。レオナに許された場所は限られていて、白の王宮からややはずれた別塔と庭園だけだった。妹のために時間を作っていたアナクレオンの表情はやさしく、公爵家の子であるブレイヴやディアスに対してもそれはおなじだった。彼は母の異なる妹でも大事にする人で、彼女のちいさな我が儘にだって叱ったりはしなかった。レオナの守り役だった老騎士や侍女たちには、それは仲の良い兄妹に見えただろう。その関係はいまもつづいていて、だからこそ彼女を王都から引き離すというのなら、それなりの理由と覚悟があるはずだ。そうでなければ納得がいかない。

「公子。この件は、くれぐれも内密にお願いします。それから、我々はすぐにここを発たねばなりません」

 ブレイヴを現実に戻したのは、王女の傍付きの声だ。

「それは、無理です。今日は風が強く雨もまだ止みませんし、私はランドルフ卿に監視されています」

「このままガレリアに留まれと?」

 語毛を強める傍付きにブレイヴは声を止める。

「危険なのはルドラスに限りません。王女に接触する者がいないと、断言できますか?」

 そうだ。ここは、城塞都市ガレリアである。国境のすぐ近くにルドラスの兵が集まっていれば、ここには多くのイレスダートの騎士がいる。それに、王都からの使者にランドルフは気づくだろう。それらすべてを王女レオナに近づけてはならない。無思慮であるのはここまでだ。 

「わかりました。けれど、すこしだけ時間をください。明るい時間の方がかえって危険だ。せめて、風が収まるまでは」

「まるで夜逃げのようですね。……いいでしょう。こちらとしても、目立つことは望みません」

 王女の傍付きは無遠慮に嘆息した。


 









 ガレリア山脈から吹きおろす風はとても冷たくて、ほんのすこしの時間でも身体はすっかり冷えてしまった。

 暖炉では赤が見える。朝晩はもとより、こうした風の強い日には日中の気温もさしてあがらないので、ガレリアに春の訪れは遠いようだ。

「どうぞ。熱いので気をつけてくださいね」

 レオナはカップを受け取る。ガレリアの香茶だろうか。ほんのりと甘い香りがする。

「ちょっとだけ蜂蜜を落としました。きっと、疲れも取れますよ」

 赤髪の青年は屈託のない笑みを見せる。ちゃんと騎士の挙止きょしをするのに、表情も物言いも少年みたいだ。

「俺、こういうの得意なんです。いつもちびが風邪をひいたときに、作っていたから」

「ちび、って?」

「妹です。もうずっと会っていないんですけどね」

 咳払いがしたのはレオナの隣からだ。傍付きは余計な声をするなと警告しているようだが、騎士はきっとわかっていないのだろう。レオナの傍付きにもおなじように香茶を差し出した。

「あの、ブレイヴは……?」

 騎士はちょっと驚いたあとに、にこっと笑った。

「公子はすぐに来ますよ。ジークを捜してるんだと思います」

 ブレイヴが従者を呼んだとき、一番近くにいたのが騎士だった。頼りにしている騎士の一人ようで、幼なじみは赤髪の騎士を残して行ってしまった。

「心配いりません。ここには誰も入れるなって、言ってありますから」

「ありがとう。あの、あなたの名前は?」

「レナードです。ああ、そうだ。よかったら、これもどうぞ」

 赤髪の騎士の騎士は上着のポケットを探る。不織布で包まれていたのはビスケットと胡桃だった。

「まあ。うれしい。お腹が空いていたの」

「よかった。大台所で分けてもらったんです。すこしだけですけどね。また何かあったら呼んでください。すぐ近くにいますから」

 騎士の背中が扉の向こうに消えると、レオナはビスケットと胡桃を傍付きと分け合って食べた。バターをたっぷり使ったビスケットのなかにはナッツも入っていて、とても美味しかった。それなのに、レオナの傍付きの顔は固いままだ。

「ご安心ください。彼は、信用できそうです」

 信頼と言わないあたりが傍付きらしいと、レオナは思った。

「彼、やさしいひとね。それに、わたしはだいじょうぶだから」

 ちゃんと笑えていただろうか。きっと、レオナの強がりなんて傍付きにはお見通しだ。

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