ウルーグの鷹

ガレリアにて②

 その日は、朝から雨が降っていた。

 夏が終わり、実りの秋がきたとはいえ、北の城塞都市ではそれもわずかなあいだだけ、すぐに長い冬がはじまる。沃土よくどに乏しい北の大地では作物の収穫などほとんど期待できず、ひと月に一度の王都マイアからの支援を待つだけだ。

 雨のせいで冷えるために暖炉にはずっと赤い炎が見える。こんなに早く冬になっては堪らないと、南から来た騎士たちがぼやく。彼らはあたたかな国で生まれ育ったので本当の冬を知らない。このままでは士気がさがると、そう苦言をていした麾下きかをホルストは部屋から追い出した。

 ただでさえ煩わしい雨に、その上天候の悪い日にはひどい頭痛に苦しめられるので、ホルストの機嫌は最悪だった。おやまあ、これは父上の持病をそっくり引き継いだようですなあ。ホルストの守り役の老騎士が言う。幼いときから固陋ころうで口喧しく、公子の自分にも無遠慮な立ち居振る舞いをするこの守り役をホルストは嫌っていた。春が来るより前に感冒かんぼうが原因であっさり逝ったときにはせいせいしたものの、おかげでホルストの傍にいるのは柔弱な麾下だけだ。

 霧が出ているので北塔の兵をもっと増やすべきだと、麾下はそう言った。普段から頭の悪い麾下だとは思っていたが、ここまで馬鹿だとは想定外だった。ガレリアでは霧が良く出る。乳白色の濃い霧は視界のずっと先まで遮るため、敵の動きには注視すべし。目視だけでは叶うまい、指揮官自ら現場へと赴くべし。長々と説教をのたまっていた守り役そっくりな物言いで、麾下はそう進言する。ホルストは拳を振りあげていた。

 西が騒がしいと、報告を受けたのはホルストが頭痛薬を飲もうとしたそのときだった。

 脈動に応じて激しい頭痛がつづいている。薬は今朝処方されたばかりで、新しい薬を渋る医者から無理やりに取りあげた。誰も部屋には入れるなと命じていたはずだが、しかし少年兵がホルストの部屋の扉をたたく。普段はホルストを恐れて近づかないガレリアの少年兵だ。

 報告ならば麾下を通すのが通常でも、麾下はホルストに追い出されたばかり、見つけられなかったのだろう。敵襲と認めるならば一番近い北からだ。ガレリアの兵士はもとより、イレスダートの公国から集まった精鋭の騎士らの多くもそこへと置いている。北の城門が落ちるなどあり得ない。突破されるそのときは、ガレリアが終わる日でもある。

 その最悪の日はこない。

 ホルスト率いるランツェスの炎天騎士団はまだ戦闘の合図すら命じておらず、敵の姿さえ認めていない状態だ。ならば、何を慌てることがあるのか。

 ガレリアの少年兵を殴りつけたい衝動に駆られたものの、ホルストは舌打ちで留める。

 城塞都市の西側はもっとも安全と言われるがために崩れた城壁もそのまま、敷石が外れているのも放置されている。初夏の長雨に耐えられずに崩壊してようやく補修がはじまったところ、大方この雨でまた壊れてしまったのだろう。下敷きになった住民でいるのか、ホルストは大儀そうに起きあがった。

「ひ、火が……! 西の塔から、火の手があがっています!」

「火、だと?」

 西には居住区があり、ガレリアの民や騎士たちの居館もそこだ。大台所もおなじ場所で、出火原因もそれだとしてもこの雨だ。いちいち報告するほどの騒ぎではないのにかかわらず、少年兵はおろおろとしている。

 顔に面皰ニキビ跡を残した少年兵だ。大人たちはでホルストの手を煩わせたりはしないが、他の兵たちが騒いでいる隙にここまで来たらしい。

「み、みんな消火にあたっています。こ、公子さまも、すぐに」

「必要ない。じきに消える」

「で、でも……」

 聖騎士さまなら、すぐ来てくれる。少年兵の唇が動くのをホルストは見た。水の残っていたグラスを少年兵に投げつけた。そのまま馬乗りになって少年兵の顔を殴打する。普段のホルストならばそうしていただろう。しかしこんな子ども一人殺したくらいではホルストの気が収まらない。聖騎士がこのガレリアから消えたいまでも彼らは聖騎士を求めているし、ホルストに期待をする。前指揮官ランドルフの評判は最悪だったからこそ、余計にそうなってしまったのだ。

「俺の麾下を連れてこい」

 額を切ったのだろう。少年兵は水と血の両方を顔から垂らしている。怯えながらも泣き喚きもせずに、少年兵はホルストに一揖いちゆうして部屋から出て行った。されども小一時間が経っても麾下は現れず、少年兵も戻ってこなかった。

 ようやくすこし薬が効いてきたところだったのに、ホルストを眠りから引き摺り出す。今度は炎天騎士団の、ホルストの騎士だった。

「なんだと……?」

 赤髪の騎士が二人、ホルストの前で膝を折っていた。騎士らの方こそ、驚いた表情をしていた。とっくに仔細がホルストにも届いていた、そう思っていたのかもしれない。しかしいつまで経っても命令が伝わってこない、だからここに馳せ参じたと、そういう顔をしている。

 その報告は最悪だった。

 ガレリアの西の城門が崩された。多くのルドラス兵の侵入を許し、居住区は落ちたも同然だと騎士は言った。ホルストは懐から懐中時計を取り出した。時計の針はやはり小一時間しか進んでおらず、混乱する頭で最初の報告を思い出す。少年兵は何を言ったか。

「火は、火事は」

「はっ。いまだ消火活動が行われていますが、とても手が足りず……」

 馬鹿な、と。ホルストは口のなかでつぶやいた。窓硝子をたたくあの音はたしかに雨だ。食料庫にでも燃え移ったなら話はわかるが備蓄のほとんどは南に保管しいたはず、とっくに鎮火していないとおかしい。

率爾そつじながら、あの火は敵の攻撃によるものと」

「なんだと?」

 頭が割れるように痛い。やはり薬の効きが悪い。こめかみを押さえながらホルストはいま一度問う。

「はっ。魔道士を見た者がおります。巨大な炎を操るその姿はまさしく、」

「馬鹿な……!」

 ランツェスにも魔道士はいる。生まれながらに魔力に恵まれた者は剣を持たずに魔の道を選び、それから王都マイアでさらなる力を身に付ける。五年の時を経てランツェスへと帰郷した魔道士たちは挫折し、けれどもその目は輝きに満ち溢れている。白の王宮、名だたる宮廷魔道士に己の力など足元に及ばずとも腐ろうともせず、高みを目指す。魔道士が魔法を発動させるには自身の魔力と自然界の力が必要となり、言うまでもなく天候にも左右される。すなわち、こんな雨の日に炎を操る魔道士など生まれるのは百年に一人くらいだ。

 いや、と。ホルストは爪を噛む。そんな者がいるとしたら魔道士の国ルダ、あるいは――。

「公子。これは憶測ですが、これは外からの攻撃ではなく内側から門を破られたのだと」

「なんだと?」

「魔道士、という表現は正しくないのかもしれません。その者は白い法衣を纏っていたとか」

「しかしながらヴァルハルワ教徒の司祭にも魔法に秀でた者もいます。おそらくは、」

「なぜ、そんな者を中へと通した?」

 応えるよりも前に騎士らは互いに目で会話をする。この城塞都市にルドラス人などけっして通さないが容貌はガレリア人とほとんどおなじ、白皙はくせきの肌、おなじく色素の薄い髪の毛、痩躯そうく。巡礼者のなかでも司祭ともなれば特に誰何すいかされずに簡単に城内へと入れる。だが、そんなことはいま詰問してもどうにもならない。重要なのはガレリアを落とさぬかどうかだ。

「民の誘導を最優先とせよ。敵と遭遇した場合、武器を持つ者は戦え。持たぬ者、もしくは戦意を喪失した者は投降し、大人しく従え。それから、ムスタールに要請を」

 騎士らはすぐに動かなかった。一人は子どもが泣くときのような顔をし、もう一人は息を呑んだのがはっきりとわかった。

「どうした? 早く行け!」

 怒鳴りつけてやっと二人は退出した。あの目、あれは主君を前にして騎士がする目ではなかった。ここから一番近いのはムスタールでもいまからではとても間に合わない。それにまもなく夜がはじまる。雨が降りしきる闇のなかで、武器を持たない民がどこに逃げるというのか。

 では、どうするのが正しかったのだろう。

 ホルストは爪を噛んだ。自分の思いどおりにならないときに出る悪いくせのひとつで、公爵である父親はその仕草をひどく嫌い、ときには拳を振るわれた。守り役の老騎士は庇ってくれただろうか。覚えていない。ただあの口喧しかった守り役がいまも自分の傍にいたならと、そう思ってしまっていたことにホルストは嫌気が差した。

 傍にいなければならないのは、ホルストの麾下だ。

 倉皇そうこうとする城内で騎士を捕まえては問う。しかし返ってくる声はどれもおなじ、誰も麾下の所在を知らなかった。

 女たちに紛れてガレリアの少年兵たちが逃げるのが見えた。もはや怒鳴る気にもなれず、ホルストはそのまま見逃した。女子ども、老人たちのなかにまだ戦える男たちも混じっている。そこでホルストははっきりと悟った。己の麾下はとっくに逃げていたのだ。

「おや? まさかこんなに早く出会うとは」

 謳うような声だった。東塔から西へと向かう途中、中庭はガレリアの民と兵でごった返しているため、ホルストは裏道を使っていた。ここはガレリアの住民、もしくは他のイレスダートの騎士でも一部の人間しか知らない場所だ。

「まさかまさか、赤い悪魔のお出ましとは。いやいや、探す手間が省けましたよ」

 こいつがそうか。ホルストは直感した。白皙の聖職者。こいつは以前からこのガレリアに出入りしている。そうして城塞都市を知り尽くしているから、こんなところにいるのだ。

「おや、しかしおかしいですねえ。かの赤い悪魔はサリタにいるときいてましたが」

 イレスダートの内情も知っている。それもそのはず、こいつはイレスダート人だからだ。

「お前は、ワイト家の」

「エセルバートと、そうお呼びください」

 男は優雅な所作でお辞儀をした。ホルストは口内を噛む。頭が痛い。吐き気がする。頭痛薬などまるで効かなかった。あの医者はあとで馘首かくしゅする。

「ああ、そうでしたか。あなたは兄君の方ですね」

 白の法衣、長い白金の髪、薄藍の瞳。男が持っている色に見覚えがある。ワイト家。そうホルストがつぶやいても、白皙の聖職者は否定しなかった。イレスダートでも有数の貴族の一族だがすでに離散した一族であり、ガレリアの住民で知る者はわずかだろう。司祭とわかれば簡単に通すし、気を許す。裏切り者がここにいた。だからガレリアはここで落ちた。

「さあ、取り引きをいたしましょう。ホルスト公子、我が王は聖王国も竜の末裔も滅ぼすおつもりです。道連れなんてごめんでしょう? 賢いランツェスの公子ならば、もうおわかりのはずです」

 交渉、だと? ホルストは口のなかで言う。これが警告でなければなんだというのだろう。従わざるを得ないこの状況で、ホルストが選ぶ道などひとつだけ。

 弟君ならば、赤い悪魔ならばきっと選ばなかったでしょうねえ。白皙の聖職者がそう言った。ホルストはその声を無視した。 

 

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