フォルネの要人とイレスダートの聖騎士①
時を告げる鐘の音がきこえたのは一時間前だった。
九つの鐘のあとに祭儀がはじまる。大聖堂には敬虔なる教徒たちが着席し、大司教の声を静かに待つ。騎士も大貴族も商人も、神の前では身分など関係がない。彼らは等しく人であり、そうして祈りの時間を大事にする。
神聖なる時が終われば教徒たちは聖イシュタニア像の前で膝を折る。贖罪こそが信仰の証だと彼らは信じて疑わずに、憤怒、嫉妬、強欲に色欲といったあらゆる罪を神の前で告白する。長い列が途切れるのは
イレスダートとおなじだ。レオナは口のなかで、そうつぶやいた。
レオナの前に並んでいたのは家族連れで、背の曲がった
うしろにつづいているのがイレスダート人だと、彼らは認めていたはずだ。けれどもこちらの顔をちらと見るだけ、敬虔なヴァルハルワ教徒同士は人種による差別をしないようだ。
では、これがイレスダートと敵対しているルドラス人ならばどうだろうか。
レオナは途中で思考を止める。そんなものを考えても意味はない。ここは、イレスダートではないのだから。
傍付きの呼ぶ声がする。聖イシュタニアの前で跪いていたレオナはやおら立ちあがった。後を待っていたのは金髪の少年で、レオナを見てぎこちない笑みを浮かべていた。
「ごめんなさい。すこし……考えごとをしてしまって」
「いえ……、謝罪すべきは私の方です。急かしてしまい、申しわけありませんでした」
気にすることなんてないのに。そう言ったところで、きっとルテキアは退かないのをレオナはもう知っている。
「行きましょうか。ロッテが待っているわ」
ルテキアは敬虔なヴァルハルワ教徒ではなかったし、レオナだっておなじようなものだ。兄のアナクレオンは教会嫌いだから家族で大聖堂に足を運んだ覚えはなく、祈りを唱えるときもレオナはいつも一人だった。それでいえばここにいない少女が一番それに近しい。オリシス公爵の養女として迎えられる前に、シャルロットは教会で世話になっていたと、そうきいた。少女の母親が教徒だったのだろう。時間が許す限りではあるものの、シャルロットは祈りの時間を大事にする。本当は、ここに来たかったのは彼女だ。
シャルロットは三日前から熱で寝込んでいる。
フォルネに着いてすぐに少女は倒れてしまった。よく持った方かもしれないと。レオナはそう思う。カナーン地方から西のラ・ガーディアにたどり着くまでも少女はたびたび体調を崩していた。魔道士の少年に解熱の薬草をわけてもらって誤魔化しながらここまで来たものの、シャルロットの体力は限界だったのだろう。
宿屋で眠る少女の傍にはデューイが付いてくれている。こういうときはな、出会ったばかりの他人の方がいいんだよ。レオナは傍付きをちらと見る。たしかにそうかもしれない。ルテキアは真面目で責任感の強い人だから、シャルロットを一人にしておかないけれど、でも少女だって一人になりたいときもある。
赤髪の青年を快く思っていないルテキアはむずかしい顔でいたが、けっきょくデューイの声に従った。シャルロットのこともあるけれど、もしかしたらわたしたちを気遣ってくれたのかも。こんな風に自由に出歩くのもずいぶんひさしぶりな気がする。
「フォルネの司祭さま、ちゃんとわたしたちのはなし、きいてくれるかしら……」
「心配要りません。ヴァルハルワ教徒は皆、平等です。たとえ生まれた国がちがっても」
ノックのあとに扉が開いた。レオナは思わず驚いた顔をしてしまった。
「お待たせして申しわけありません」
「あなた……クリス?」
はい、と。彼はそう返事する。まばたきを繰り返すレオナに白皙の聖職者はにっこりした。
隣でルテキアが気色ばんでいるのがわかる。レオナは目顔で傍付きを制して、まずカウチに腰掛けるように伝える。
「フォルネは信仰深い教徒が多いのです。そう、イレスダートのように」
「それであなたは、彼らの声をきいてあげていたのね」
笑みは肯定の意味だろう。でも、彼もイレスダート人だ。その彼がどうしてフォルネの大聖堂で重用されているのか。
「……クリス。お茶が冷めちゃう」
「ああ、そうでした。この焼き菓子はフレイア様の好物でしたね」
彼のうしろにはもう一人が、この金髪の少女にも覚えがある。波打つ
反対側のカウチにちょこんと座ったフレイアはもう焼き菓子に手を伸ばしている。こどもみたいに見えるものの、彼女の
「さあ、どうぞ。冷めないうちに」
ルテキアが先に動いて、レオナもそれにつづいた。口に含んだ途端、果実の甘さと爽やかな香りが広がる。おいしい。そうつぶやいたレオナにクリスはずっとにこにこしている。
「こちらの焼き菓子もぜひ召しあがってくださいね。マカロンというのです。めずらしいでしょう?」
「マカロン?」
「はい。卵と砂糖とアーモンドを使ったお菓子です。女性にとても人気の品なのですよ」
まるっとした形、それから生地のあいだにはジャムが挟まっていて彩りも綺麗で可愛らしいお菓子だ。レオナが頂いたマカロンはバニラの味がして美味しかった。若い娘たちに人気なのもわかる気がする。
「あの、よかったらすこしわけて頂けないかしら?」
「はい、もちろんですよ。お連れだったお嬢さんのお土産にされるのでしょう? 今日は一緒ではないみたいですが」
「シャルロットは……」
レオナはかいつまんで事の次第を伝えた。白皙の聖職者は気の毒そうな表情をしている。たしかに少女の不調は旅の疲れもあるだろう。けれどもそれ以上に疲弊しているのは、シャルロットの心だ。
「それはおかわいそうに。大変でしたね」
目の前で養父を殺されたとは言わなかったが、大切な人を失ってしまった意味ではおなじだ。少女だけではない。幼なじみも、他の皆だってきっとまだ傷は癒えていない。
「お力になってくださいますか?」
「私などでよければ」
クリスは空になったフレイアのカップに香茶を注ぐ。彼女はこの話に無関心なのか、ずっとマカロンを頬張っている。
「そういうわけです、フレイア様。すこし傍を離れることをお許しくださいね」
「いいよ。でも、どうせこのひとたち、あとでお城に来るんでしょ?」
それはどういう意味なのだろうか。きょとんとするレオナをちらっと見ただけで、フレイアの視線はまた焼き菓子に戻ってしまった。
「ええ、そのとおりですよ。サリタのお礼は返さなければなりませんからね」
「サリタ……?」
胸がざわざわする。浅くなってしまった呼吸を落ち着かせるように、レオナは心臓の辺りを抑える。クリスのアルトの声音は心地が良い。気をつけていたつもりなのに、人々の告解をきく聖職者の前では嘘は吐けず、本当のことを何もかも話してしまいそうになる。
「そんな顔をなさらないでくださいね。サリタで助けられたのは事実です。急にイレスダートの騎士たちがサリタを専横するものですから、街から出られずに困っていたのです。それをあなた方が」
「お前は、何者だ?」
遮ったのはルテキアだ。ここが大聖堂の敷地内でなければ、傍付きは剣を抜いていた。
「ほんとうだよ。私たち、フォルネに帰りたかったから困ってた」
「ええ、そのとおりです。フレイア様、お母上の命日に間に合わなくなるところでしたね」
「そんなことはきいていない。なにが目的かをきいている」
「まって、ルテキア」
身を乗り出しかけている傍付きの腕を押さえると、レオナはクリスとフレイアを見た。嘘は言っていないし、そうする理由が彼らに見当たらない。
「このひとは、信頼できるわ」
「信頼とか信用とか、そんなのどうだっていい」
ずっと微笑みを崩さないクリスとは対照的に、フレイアは無表情のままだ。彼女はこちらの事情なんて関係ない。それでもこうつづける。レオナたちの素性などぜんぶ知っているかのように。
「兄様が聖騎士に会いたがってる。あなたたちはおまけだけど、でもクリスがいいって言うなら貸してあげてもいい」
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