死線

 白壁の街が赤銅色に染まっていく。

 燃え立つ炎のような赤には見覚えがあった。あの日、祖国アストレアを追われたときにもおなじ色を見た。

 嫌なことを思い出してしまった。ブレイヴは瞼を閉じてふた呼吸を置く。宿場の窓からは、大工仕事を終えた男たちが酒場へと向かっているのが見える。子どもたちはやや早足で、大きな袋を抱えた女たちは買いもの帰りなのだろう。

 巡礼者や旅行者は大通りから外れた裏路地をほとんど通らないが、地元の住民はここをよく使う。あと小一時間もすれば帰り道を急ぐ者たちが、狭い道を譲り合いながら通って行く。それがサリタの日常だ。

 三日ともなればこの街の有様も見えてくる。レナードとノエルが商人にカモにされたこと、剣の手入れに武器屋を訪れたジークが追い返されたこと、他にもたくさんだ。はじめは苦笑していたブレイヴも他人事ではなく、真剣に考えるようになった。ここは自由都市サリタ。自由と権利を謳うサリタがどうしてここまで余所者を嫌うのか。面倒に巻き込まれないためだと、クライドは言った。しかし、もうすでに起こっているのだと、そう思った方が良さそうだ。

 ブレイヴはもう一度窓の外を見た。

 先ほどまでは地元の住民が行き交っていたというのに、いまは人っ子一人としていなかった。たしかにこういう日もあるのかもしれない。だがそれは楽観的な思考のようだ。ジークもクライドも、そろっておなじ目をしていた。

「まだ戻らないのか?」

 オリシスの養女シャルロットはこの街の修道院で預かってもらっている。幼なじみは毎日少女の様子を見に行くし、傍付きであるルテキアも一緒だ。いつもならば日が暮れるその前には帰ってくるものの、今日はすでに夕暮れがはじまっている。

「宿を移す。昨日のうちにそうするべきだった」

 ブレイヴはうなずく。たしかにここには長く留まりすぎたようだ。宿の主人が大人しいのがかえって不気味だと、クライドはそう思っているらしい。

「俺、迎えに行ってきます」

 名乗り出たのはレナードだ。ノエルとともに買い出しから戻ってきたばかりだった。けれど、先に帰っているはずの姫君たちの姿が見えないとなると、皆がおなじ思いを抱く。

「いえ。それならば、私が」

 声はそこで止まってしまった。ジークの目が扉へと向かう。目を合わさずとも声を発しなくとも、全員がわかっていた。耳を澄ます。扉の向こうから届く靴音はふたつ。レオナとルテキアじゃない。二人の歩調とは異なるし、どこか迷いのある足取りだった。まるで何かを探しているときのような。

 ややあって、扉をたたく音がした。まず先に動いたのはジークだった。

「なにか、ご用でしょうか?」

「我々はイレスダートが王都マイアの騎士である」

 扉を開ければいきなりこれだ。藍色の軍服に白き竜が描かれた徽章は、たしかに王都マイアの騎士の証だった。青みがかった黒髪の青年はまだ若く、成人したばかりだろう。しかし、青年騎士には王国騎士という自負がある。

「そこをどけ。部屋を検めさせてもらう」

 青年騎士はジークを無理に押しのける。ジークはその場で派手に尻餅を付いた。

「王都の騎士様が何用でしょうか? 私どもはヴァルハルワ教徒です。騎士様に検分されるようなことはなにも、」

「答える義務はない。早くそこをどけ!」

「まあ、待ちなさい」

 気色ばむ青年騎士を止めたのはもう一人の騎士だ。青年によりも一回りは年上で、挙止きょしも落ち着いている。

「失礼をした。しかし、我々はランドルフ卿の下命かめいにより捜し人をしている。協力願えまいか?」

「協力、と言われましても……」

「ふむ。巡礼者というにはずいぶんと質素ななりをしているな」

 壮年の騎士は失笑する。

「旅には必要だと、そう伺いましたので……」

 ジークはちらとクライドを見る。しかし、話を振られた本人は何の話かわからないといったように、ジークと壮年の騎士のあいだできょろきょろしている。共通のマウロス語で喋っていても、異国人の彼にはイレスダートの訛りが強くてきき取れない。そんな顔でいる。

「ほう? 君が従者だというのはわかったが、主人は誰だね?」

「僕です」

 ジークのうしろから恐るおそる出てきたのはノエルだ。

「あの、なにか至らないところでも、ありましたか? 僕たちは聖イシュタニアの導きにより、旅をしています」

 声も震えているが肩も震えている。ノエルはちゃんと成人したアストレアの騎士だが、平服に身を包んでいればまだ少年に見える。この部屋には案内役の異国人と他に従者が三人、少年の付き人としては不自然ではない数だ。

「なるほど、あなたがご子息か。長旅はさぞ大変でしょう。せっかくの縁だ。なにかしらの援助を致しましょう」

「いえ、せっかくですが」

「遠慮されることはない。ですが、失礼があっては申しわけがない。どちらからいらしたのか、まずは家名をきかせて頂けますかな?」

 ここには役者が何人いることだろう。とはいえ、この壮年の騎士が一枚上手のようだ。完全に見破られていなくとも疑われているのはたしか。それでもあくまで穏便に事を進めるつもりなのかもしれない。青年騎士が目顔で壮年の騎士を急かしている。若い騎士よりもずっと前に騎士になったしたたかな男は、笑みを崩さない。

「……ベルク」

 壮年の騎士がまじろいだ。

「ロベルト・ベルク。それが、この方の名です」

 これで十分だろう。ブレイヴは騎士を見つめる。露骨に眉間に皺を作ったのは青年騎士の方だ。

「ベルクだと? そんな名は知らん!」

「まあ、待て」

 ふたたび、壮年の騎士が若者を止める。応対したジーク、挙動不審な異国の男クライド、彼らのうしろで怯えているノエルと黙りこくっているレナード、それから最後にブレイヴへとその視線が落ち着いた。

「ふむ、ベルクという名にはきき覚えがある。たしか王都の北の……いやはや、これは失礼致しました」

 壮年の騎士が一揖いちゆうする。謝罪かあるいは侮蔑ぶべつか。いまはどうだっていい。

「お騒がせしました。どうぞあなた方に、この旅に聖イシュタニアのご加護がありますように」

 敬虔なヴァルハルワ教徒さながらの挙措きょそで、壮年の騎士は退出しようとした。若輩の青年騎士が何かを言いかけたものの、上官には逆らえずにそのあとを追った。

「待て」

 誰もがきき取れるはっきりとしたマウロス語だった。異国の剣士は壮年の騎士の肩を掴む。男が振り向くより早く、鳩尾みぞおちに一撃が入った。次に動いたのはジークだ。青年騎士が反応する前に首の急所を狙った。ふた呼吸後にはなにもなかったのように、クライドとジークがこちらを見ていた。

「出るぞ」

 ブレイヴは深呼吸をした。ああ、これでもう本当に戻れなくなった。とっくに覚悟していたはずだった。でも、自分は思ったよりもずっと弱い人間だったのかもしれない。

 クライドにつづいてレナードとノエルが行く。こういうときに真っ先に動くのがジークだった。だが、麾下きかはブレイヴが決意するのを待っている。わかっている。声はなくともジークが急かしている。扉を閉めて平常心を装って宿から出た。主人はブレイヴたちを値踏みするような目で見たが何も言わなかった。

 白の街に落日が迫っていた。

 先頭を行くクライドは実に堂々としていて、一切の迷いがなかった。裏路地にはやはり人っ子一人見えずに、となるとすでに大通りは封鎖されているのだろう。行く当てをきこうとして、ブレイヴは止めた。クライドは孤児院には向かっていない。幼なじみたちはまだあそこにいるはずで、迎えに行くべきなのはわかっている。けれども、こうも考えられる。追っ手がもう来ているのなら、彼女たちはそこにいた方がずっと安全だ。

 かならず、迎えに行く。

 ブレイヴは口のなかで幼なじみに約束する。宿場はもとより修道院のある場所よりもどんどん遠ざかっていく。クライドは本当にあとで合流するつもりがあるのか。こうなってくると、不安になる。しかしふいに彼の足が止まった。いや、止まらざるを得なかったのだ。

「待て、そこの者たち」

 誰何すいかする騎士にもやはりマイアの胸章が付いている。先の青年騎士よりは幾分か年上だが、こちらも若い二人だった。

 さっきみたいに全員が演者となるのか、それとも。ブレイヴは浅くなった呼吸を落ち着かせる。騎士の一人と目が合った。知らない騎士だった。

「お前……、アストレアの公子だな?」

 ところが、相手はブレイヴの顔に覚えがあったようだ。ブレイヴへともうすこし近づこうとする前に、クライドの剣が騎士を貫いた。だが、もう一人が残っている。いきなり仲間を殺されて動転するかと思いきや、騎士は冷静だった。

「アストレアの聖騎士だ!」

 声は高々と響き渡った。そして、それがもう一人の騎士の最期となった。ジークだ。ブレイヴは麾下の目を見る。クライドと同様に、ジークにもまったくの迷いがなかった。

 どうして――。つぶやきは唇から外へと出て行かない。たったいま死んだ二人の騎士、彼らはおなじイレスダートの騎士だ。ブレイヴの顔を間違えなかったということは、士官学校でともに学んだ仲間だったのだろうか。少年の時分もそれからいまも。イレスダートの騎士が剣を捧げるのは聖王アナクレオンだ。ブレイヴだってそうだ。それなのに、どうして。

 思考はそこで止まる。叛逆はんぎゃく者がいたぞ! けっして逃すな! まるで敵に向けるような言葉を彼らは吐いている。

 もう走って逃げることは叶わなかった。前方からはおよそ十人が、他の道を選んでも行く手は塞がれていた。先陣を切って戦っているのはクライドだ。その隙間を縫ってノエルが弓を放つ。雪崩れ込んだ敵の相手をクライドだけでは持たずに、レナードが応戦する。ブレイヴの剣もすでに血で濡れていた。

 追ってくる敵を迎え撃つのはジークだ。躊躇ためらうな。ジークは目顔でブレイヴにそう言う。こんなときにまで説教をするつもりらしい。前方ではレナードが喚いていた。クライドが道を切り開いてくれたようだ。ノエルが走り、ブレイヴも仲間たちを追う。ところが――。

「ジーク?」

 振り返ったとき、ブレイヴの麾下はいなかった。激しい戦闘の最中で呼吸が苦しかった。けれども、ブレイヴは急に息ができなくなった。瞬きを繰り返す。手が震える。ブレイヴはもう一度その名を呼んだが、震えて声にならなかった。喊声と罵声の両方がきこえる。誰かが叫んでいる。きっと、クライドだ。

「ジーク!」

「公子は先に行ってください。これでは逃げられない。ここは、私が防ぎます!」

 何を言っているのだろう。思考が追いつかない。ジークの元に敵が迫っている。少年の騎士が二人だ。麾下が負ける相手ではなくとも、追っ手は次から次へと現れる。

「だめだ! ジーク、来いっ!」

 ブレイヴの声は届いているはずなのに、ジークは応じない。

「……っ、これは命令だ、ジーク!」

「では、はじめてあなたに逆らいます」

 少年騎士二人を斬ったあと、やっとジークはこちらを向いた。こんなときなのに、ジークは微笑んでいた。ブレイヴに長い説教をしたあとに、麾下はいつも満足そうに笑う。レナードとノエルが他愛もないお喋りをしているときに、ときどき加わってジークは笑みを見せる。家同士の付き合いがあり、幼なじみでもあるルテキアと話すときには年長者らしい微笑みを、王家の姫君や公爵の養女の前ではもうすこしやさしい笑みを。そうだ、ジークはいま、そんな表情をしている。

「ジーク!」

「いい加減にしろ! その意思を無駄にするつもりか!」

 ブレイヴを叱咤するクライドに向けて、ジークは一揖した。追うことは叶わなかった。やがて、ブレイヴの視界から麾下の姿が消えた。

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