19 星の王子様

 年上の異性に心ひかれたのは、出会って直ぐだった。


 もしかしたら、出会った瞬間からすでに心を奪われていたのかもしれない。

 けれど恋なんて感情をろくに知らなかった小学六年生の私は、とにかくその年上の異性に近づきたくて、少しでも一緒にいたくて、毎日のように“夜間飛行”に通った。

 

 もちろん“夜間飛行”の雰囲気も大好きだったし、ハルキさんとお話しするのもとても楽しかった。

 それでも、私が一番心ひかれたのは夏緒さんだった思う。だけど大学やその他の用事で忙しい夏緒さんが、毎日のように“夜間飛行”にいるわけでもなく、それに私自身も毎日のように“夜間飛行”にお邪魔しては、ハルキさんのお仕事を邪魔して悪いだろうと思っていた。


 母にも叱られた。月のお小遣いも限られていて、毎回コーヒーやベーグルを注文していたら私はとっくに破産していただろう。

 

 母と何度か“夜間飛行”に通ったところで、ハルキさんが“それじゃあ”と提案してくれた。


「毎週金曜日、少しだけこのお店にお手伝いをしてもらうというのはどうでしょう? お手伝いといっても開店前の掃除などの簡単な作業です。労働の対価に私はハルちゃんにコーヒーとベーグルをご馳走し、楽器を教えましょう。もちろんハルちゃんが嫌になったらいつでもやめて構わない。来たくない時は来なくていい。ほんの些細な社会勉強だと思っていただければいいでしょう」

 

 私はその提案に飛びついた。

 母は“それなら”と了承した。

“やったー”と喜んだ私に、ハルキさんはとびきりのウィンクをしてくれた。

 中学生に上がる少し前のできことだった。


「へぇ、これで正式にこの“夜間飛行”の従業員の一員になったわけか」

「はい。よろしくお願いします」

「それじゃあ、さっそくできたばかりの小さな後輩をこき使わなくちゃいけないな。先輩っていうのは無条件に後輩をこき使う権利のことを言うんだからさ」

「はーい。何でも言ってください」

 

 先輩従業員である夏緒さんは、新人の私にときに優しく、ときに意地悪く仕事を教えてくれた。


「おいおい、これで掃除をしたっていえるのだろうか?」

「ごめんなさい」

「こんなところに埃が残っているし、客席の椅子の並びがずれている。それに選曲がいまいち過ぎるな」

「やり直します」

 

 夏緒さんは私の仕事のミスやあらを探すのが得意だった。

 いつもそれを見つけて楽しそうに指摘した。

 指摘されるたびに、私は申し訳ない気持ちになった。

もしかしたらクビされちゃうんじゃないかってハルキを見つめた。

 けれどハルキさんはいつもにっこりと微笑んでくれた。


「どうやら夏緒くんは、新人教育もまともにできないみたいだね? この店に働いてもう三年にもなるのに、未だに椅子の並びがずれているのが、この“夜間飛行”の日常だということに気がつかないなんて。それに今日の選曲は僕だよ」

 

 夏緒さんは困ったような顔して、にっこりと笑った私を苦々しく見つめた。


「最後のは致命的だったな。これじゃあ僕の方が先にクビになるか減給されちゃうよ。これから今まで以上に厳しく教育しよう」

「はーい」

 

 私は意地悪な義母にこき使われるシンデレラにでもなった気分で働いた。それでもとても楽しかった。だって“夜間飛行”のシンデレラをこき使うのは、王子様の役目だったから。

 

 夏緒さんのことを私の王子様だと思ったのは、夏緒さんが読んでいた物語がきっかけだった。


「何を読んでるんですか?」

 

 夏緒さんはいつも小難しい本を読んでいて、その度に何を読んでいるのかを聞くのが私の日課になっていた。


「これ? まぁこれならハルちゃんにも読めるだろうから、特別に教えてあげよう。“星の王子様”だよ」

「“星の王子様”? 素敵なタイトル」

 

 夏緒さんは読んでいる本のタイトルをなかなか教えてくれないことがしばしばで――本のタイトルだけじゃなく、私が尋ねることに素直に答えてくれることの方が少ない。

 

 それにはぐらかしたり煙に巻いたりするのがすごく得意な人で、私は本のタイトルを尋ねると決まって、“これはまだ子供には早いよ”なんて言った。時には、“これはとってもエッチな本だけど、ハルちゃんも読んでみたいのかな?”なんて言って、私を赤面させて追い返したりする。そんな夏緒さんが、めずらしくすんなりと教えてくれた物語のタイトルがサン・テグジュペリの“星の王子様”だった。


「サン・テグジュペリは、この〝夜間飛行〟の店名にもなっている物語を書いた人なんだよ。読んでみる?」

「うん。私読んでみたい」

「じゃあ、この本はハルちゃんにあげるよ。ずいぶん前から持ち歩いている本だから少しボロボロで悪いんだけど。良かったら本屋で新しいやつを買ってきてあげようか?」

「ううん。私ボロボロのがいい」

 

 私は、夏緒さんのお古の“星の王子様”を譲ってもらった。

 

 星の王子様は可愛らしい挿絵のついた読みやすい本で、絵本といっても差し支えない物語だった。

 お話は少し難しいところはあるけれど、砂漠に墜落した飛行機の操縦士“僕”と“王子”が別れる最後は、とても素敵で感動するシーン。

 王子は蛇に噛まれることで自分の身体を置いて自分の星にかえることができる。

 別れを悲しむ僕に、王子はこう言う。



 ぼくは、あの星のなかの一つに住むんだ。

 その一つの星のなかで笑うんだ。

 だから、きみが夜、空をながめたら、

 星がみんな笑ってるように見えるだろう。

 すると、きみだけが、笑い上戸の星を見るわけさ。



 私はその台詞を読んだ時、そっと泣いた。

 それから暫くは、私にとって世界で一番怖いものは蛇になり、いつか夏緒さんが蛇に噛まれて私の目の前からいなくなってしまうんじゃないかって考えるようになった。

 

 一読した後、“星の王子様”は私の特別な本になり、サン・テグジュペリは私の特別な作家になった。

 私は毎月のお小遣いで毎月一冊、サン・テグジュペリの本を買って集めた。

 図書館にも通うようになった。

 

 他にも、夏緒さんの思い出はたくさんある。

 夏緒さんは、夏になると決まって“夜間飛行”の帰り道に恩賜公園に連れて行ってくれる。

 園内を二人で散歩して、そしてラムネを買ってくれる。


「じつは、僕はラムネがすごく好きなんだけど、もういい大人だから一人の時だったり、歳の近い奴らの前じゃ恥ずかしくて買えないんだ」

「そうなの?」

「だからハルちゃんにラムネを買ってあげるっていう口実をつくって、僕はラムネを楽しんでいるんだよ」

「そんなの気にしなければいいのに」

「つまらないことを気にするのが大人になるってことなんだよ」

 

 ラムネを飲んでいる時の夏緒さんは、いつもよりも幼く見えた。

 私はラムネを飲んでいる夏緒さんが好きだったし、私も夏に飲むラムネが好きになった。

 夏緒さんは時折恩賜公園をスケッチして、そのスケッチが出来上がるのを私は楽しみに待った。


「退屈だったら先に帰っていていいよ」

「私、絵ができるのを見ていたい」

 

 夏緒さんは黙ったまま頷いて絵を描くのに集中した。絵を描いている時の夏緒さんはまるで別人のように静かで、その表情は石膏でつくられた彫像のように精悍だった。絵の世界に没頭していて、まるで私のいる世界から切り離されてしまったみたいだった。

 

 夏緒さんの絵のタッチは色々だった。

写実的でもあれば抽象的でもあり、前衛的でもあれば保守的でもあった。

夏緒さんが描く絵には、常に何かを模索しているような試行錯誤的が感じられた。


“夜間飛行”の星と月と飛行機の描かれた看板も、夏緒さんの作品だった。

 夏緒さんは、一度だけ私をモデルにして似顔絵を描いてくれたことがあった。

私は書き上がったその絵がほしいとせがみ、夏緒さんはスケッチ・ブックからその絵を切り離して私にプレゼントしてくれた。

 私の世界で一番の宝物になった。

 

 夏緒さんは色々な話をしてくれた。音楽の話、楽器の話、物語の話、大学の話、大人の話。

けれど夏緒さん自身の話はしてくれなかった。

 

 夏緒さんと私の間には、決して越えられない線みたいなものが引かれていて、夏緒さんはその線に内側に私を入れてくれることはぜったいになかった。

 だから私は時折その線を越えようと努力した。


「夏緒さん、今度バイクの後ろに乗せてどこかに連れて行ってください」

「僕がハルちゃんを後ろに乗せて街を走ったら、誘拐犯だと思われて警察に捕まっちゃうよ」

「じゃあ……自転車の後ろは?」

「ハルちゃんのお母さんに怒られたくないなあ」

「ケチ」

 

 夏緒さんが女の人をバイクの後ろに乗せているのを見た後だったので、その時の私はかなり傷心した。夏緒さんと街で一緒に歩いているところを見たこともあった。何度か“夜間飛行”にも来ていて、鉢合せしたこともある。

 長い髪の毛の綺麗な人で、煙草を吸う女の人だった。

 夏緒さんは普段は煙草を吸わないのに、その女の人の前だけでは、女の人と一緒に煙草を吸った。

 そのことがものすごく羨ましかった。

 別に煙草が好きなわけじゃない。

 あんなもの最悪だよ。

 だけど私は夏緒さんが私の前で煙草を吸ってくれたら、たぶんものすごく幸せな気持ちなったと思う。

 

 私は一度、その女の人が“夜間飛行”に来ている時に、煙草を吸っている夏緒さんの近くに行ったとこがあった。


「こらこら、未成年に煙草の煙は毒だからあっちに行ってなさい」

「毒でもいいです。私ここにいたい」

「やれやれ」

 

 私が頑としてそう言うと、夏緒さんは煙草の火を灰皿で消した。そして女の人の吸っている煙草を奪って火を消した。


「あらあら、夏緒くんはこの可愛くて小さなガールフレンドに夢中なのね」

 

 女の人はニッコリと笑って“じゃあ、私は行くわ”と行って店を後にした。

 私は何だかとても悪いことをしてしまったのような気持になって、それ以来、その女の人と一緒にいる時の夏緒さんには近づかなくなった。

 

 結局のところ、私は夏緒さんの後ろの席には座らせてもらえず、私の前では煙草を吸ってももらえなかった。せいぜい夏緒さんと一緒の傘に入るぐらいがせいいっぱいだった。

 それは、午後から降り出した気まぐれな雨のおかげで叶った、素敵な出来事だった。


「ありゃ、すごい雨が降ってるな。ハルちゃん傘は?」

「今日はもってきてません」

「じゃあ、僕の傘に入りな」

「はーい」

 

 その日私は嬉しさのあまりに、その素敵すぎる出来事を詩に認めた。

 夏緒さんのことは何でも知りたかった。

 ずっと一緒にいたかった。

 いつまでも私を見ていてほしかった。

 けれど夏緒さんはどこまでいって年上の異性だった。

 手の届かない人だった。

 

 夏緒さんが読んでいたSF小説に、主人公が自分の体をコールド・スリープさせる物語があった。

 時間旅行をした主人公がコールド・スリープの機械に入って眠りにつき、まだ少女のヒロインが大人の女性になったら目を覚まして、そして二人は結ばれてハッピーエンドを迎えるという物語だった。

 

 私はその小説の内容を夏緒さんに教えてもらってから暫く、どうやったら夏緒さんを氷漬けにできるかを真剣に考えた。電気屋さんに通っては、大きな冷蔵庫の値段と私の溜めたお年玉とをにらめっこさせた。

 

 ほんとバカみたいな思い出だった。


 夏緒さんのことを考えると、私はいつも月を見上げているような気持ちなって悲しくなる。

 そして私はいつも心の中で“私を月につれて行って”と叫んでいた。

 だけど、もう月に行くための飛行機は墜落して、私は手を伸ばすこともできないくらいに打ちのめされてしまった。


 たぶん今夜空を見上げても、その空は曇っている。



 もう、星一つ見えないんだ。

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