第二編 第四章 ⑥

 時刻はすでに十一時を過ぎていて、あと少しで日付が変わろうとしていた。寝る準備を整えて、リビングの電気を消そうとしていた頼来は足下を見て、


「リズ、今まで何を――つーか、お前、なんで起きてんだ?」


 彼が驚くのも無理はなかった。

 リズは体質によって眠りを強いられる。

 つい夕方、眠りに入ったばかりだった。

 間隔なく無理に起きれば、しばらくは意識的に起きることができなくなってしまう。

 ただ、それが分かっていてもなお、起きようと思ったのだ。


「頼来、話がありますの。永久の部屋に行きますわよ」

「……よく分かんねえけど、分かったよ」


 四の五の言わずに了承する頼来を連れて、リズは部屋を出た。

 薄暗い廊下を歩きながら、リズは考えていた。どう、永久に伝えればいいのだろうか。今の今まで、一人でずっと考えていたけれど、答えは出なかった。

 しかし、黙っているわけにもいかない。それは分かっている。分かっているのに、こうして起きてまで直接伝えようと思ったのに、いまだに覚悟が決まっていない。


 どうすれば、永久を悲しませないですむのか。


(そんな方法、あるわけが……)

「頼来、いいところで会ったな」


 考え事に囚われていると、知らぬ間に永久が数メートル先にいた。縁側から洩れる月光を受けて、彼女の銀髪が悠然と輝く。

 彼女は一歩こちらに近づき、


「君、私の髪で遊ぶのはいいが、ちゃんと元に……リズ?」


 足元にいる小さな存在に目を向けた。

 二人の視線が交差する。

 リズはその瞬間、泣きそうになる自分を感じた。鼻の奥がツンとして、思わず顔をしかめて視線を逸らす。

 永久はその様子を見て、不審を抱いたのだろう。リズの目の前でしゃがみ込み、


「何があった……いや、、リズ?」


 最後、語尾を上げて自分の名前を呼ぶ声には、はっきりと気遣う気持ちが表れていた。


 その声を聞いて、リズは決心する。

 悲しませない方法なんて、存在しない。

 むしろ隠す方が、悲しませることになる。

 不審な様子を見せた自分を気遣ってくれた彼女を、余計に悲しませるような真似はできない。


 リズは永久を見上げ、彼女と目を合わせ、


(何故、こんな大事なことを、隠していましたの……)


 息を整えて、全てを語った。




 裏庭に続く縁側に、永久とリズは並んで座る。そこに足音を立てて、頼来が戻ってきた。


「心裡は電話に出なかったよ。伝言は残したから、折り返してくるとは思うけど」


 彼の言葉に、リズたちは反応を返さなかった。頼来はそれ以上何も言わず、リズを挟んで永久とは反対側に腰を下ろす。

 三人の間に沈黙が流れた。

 頭の整理が追いついていないのではなく、ただ、何を話せばいいのか分からなくて。

 その難しい沈黙を破ったのは頼来だった。


「リズの話、俺は納得いかねえな。なんでこんな大事な話を永久に隠すんだよ。真っ先に教えるべきじゃねえか。もし本当だとしたら、こんなの許せるかよ……!」


 眉間に皺を寄せて語気を荒げる頼来。

 リズには彼の怒りがよく分かる。先程、自分も同じことを考えていた。永久は四月二十九日の出来事を何も知らなかった。まるでその日が抜け落ちているかのよう。仮にその日に母親が亡くなったとして、誰かが意図的に隠したのだとしたら、それはあんまりだ。


「もしかして、景政さんも知っていたんじゃありませんの?」


 リズは不意に思いついたことを口にした。だからといって、適当なことを言ったつもりはない。永久の話では景政も何かを隠していた素振りがあったからだ。


「……だとしたら、ますます許せねえな」


 頼来の怒りに油を注いでしまったようだ。

 彼は言ったあと、裏庭に向けていた顔を動かして、永久に視線を送る。

 リズは彼につられて、永久を仰ぎ見た。


 彼女は腕を組んで、ただ黙っていた。いつもの冷たい表情が、リズの目に焼き付けられる。まさかこの期に及んでもなお、彼女は何も感じていないというのだろうか。そう振る舞っているのだろうか。


 リズが心配して見つめる中、永久はおもむろに腕を解くと、


「実のところ私は、母様が亡くなっているのではないかと……覚悟はしていたのだ。もちろんそんなことはないと否定したかったが、行方が知れなくなった時点で、それを知った時点で、私は当然、覚悟を決めていた」


 永久の言っていることは、これもまた理解できる。失踪したという話を聞いた時、明確に考えずともそれは予期していた。どうやっても、失踪と死は連想されてしまうから。


「……だが、とにかく、これではっきりしたな。望美が何を隠そうとしていたのか。それに何故、そんなことをしていたのかも、おおよそ見当はつく」

「隠す理由があるっていうのか?」

「恐らくだが、これは全部、私のためなのだと思う」


 永久は落ち着いた声音で、急にそんなことを言い出した。


「何、言ってるんだ。お前のため? どうしてそうなるんだよ」

「それはな……」


 永久は言い淀んで、しばらく黙った。

 そして、小さな口を再び動かし出す。


「頼来、それにリズも。すまないが、明日まで待ってくれないか?」

「明日?」

「そうした方が、理解が早いはずだ。それに心裡や景政についても同じだろう? 明日にならないと連絡がつきそうもないからな。二人には明日まで待って欲しい」


 後者はともかく前者は意味が分からない。

 明日にならないと分かりにくいことがあるというのだろうか。

 そもそも、永久は何を分かっているのか。

 リズがそう混乱するのを尻目に、


「分かった。なら、明日にしよう」


 頼来は素直に頷いてみせる。彼だって――彼のことだから、リズ以上に気にしているはずなのに。分からないはずなのに。永久の言葉を、彼は受け入れた。


「私も、分かりましたわ」


 こうなったら異論を吐くわけにもいかない。明日になって、永久から話を聞いて、心裡や景政を捕まえて話を聞かせてもらう。それまでは、ただ待つしかないのだ。


 話がまとまり、頼来が立ち上がろうと膝を立てたその時、


「そうか、だからあの日……」


 永久が小さく、独り言を呟いた。

 風に吹かれた窓の音のように、静寂に溶け込み消えてしまう。


 リズは聞き返そうとしたが遅かった。

 永久が調子を変えて、言葉を続ける。


「ところでだ、リズ。君の体質について一つ確認しておきたいのだが」

「? なんですの?」

「今日、改めて思ったのだ。やはり君の体質は何処までも目的論に準じている、とな。君の体質は言ってしまえば、他人の心や行動を盗み見るためのものなのだよ。まるで……」


 永久は神妙な声音で言った。


「まるで、君自身がそう望んだから創られた体質のようではないか」


 リズは永久が何を言いたいのか、すぐに理解した。これはニャー先輩の時も話していたことだ。

 欠落症の人間はふとした拍子で、多様な体質を得てしまう。それは自動的であり、勝手に強要されるものであった。

 ただ、例外もある。


「ええ、私もニャー先輩と同じで、私自身が望んだからこの体質を得てしまったみたいですの」

「……そうか。やはりな」


 永久はそう呟いて眼を伏せ、すぐに顔を上げた。


「君の話を聞いてもいいか?」


 永久の純美な大海色の瞳が揺れる。リズは彼女の瞳を見ていると、自分の心が安らぐのを感じた。理由は、分からない。ただ、この数週間、頼来の観測を通してずっと見てきたこの瞳が、好奇心や邪意ではなく、心慮の情を宿していると分かっていた。


 リズはふっと全身の力を抜いて、永久に説き明かした。


「私はずっと昔からあえか荘に住んでいましたの。頼来のお祖父さん――天塚静馬しずまさんが私を拾ってくれて、ここで育ててくれたんですのよ」


 自分の正確な生年月日をリズは知らなかった。物心ついた頃にはあえか荘におり、頼来の祖父である静馬が親代わりになって面倒を見てくれていたのだ。静馬が道ばたに捨てられていた赤ん坊のリズを拾ったのだと、あとから聞いた。


 静馬はリズを匿うようにして、このあえか荘で育てた。この中だけで生活を完結させた。外の世界は小さなリズにとって危険すぎるからだ。リズは学校にも行けず、テレビや書物、または静馬から知識や常識を教わって育てられた。


 このような歪んだ生活を過ごし、今から十年前、前触れもなくリズの体質が現出した。

 眠ってしまう体質と、他者を観測できる体質が同時に。


「この体質を得たあと、お祖父さんの友人である厳殻さん――霞さんのお祖父さんですわね――に診てもらいましたの。その時、話してくれましたわ。欠落症の人間が何かを強く望んだ結果、その望みを叶えるような体質を得てしまうことがまれにあるって」

「君は、何を望んだのだ?」

「私は……お祖父さんの本心を知りたかったんですのよ」


 リズは体質を得る前からずっと思っていた。あえか荘の外に出てみたい、と。静馬にそれを願っても、頑なに聞いてくれなかった。危険だからという言葉少なの理由を聞かされるだけ。


 危険性についてはある程度納得していたリズだが、疑問もあったのだ。リズは、このあえか荘からだけでなく、自分の部屋からさえも出してもらえなかったから。


「だから君は、静馬が何を考えているのかを知りたいと願った。その結果、他人の心や行動を諜知するための体質を得てしまった、というわけか」

「そう考えた方がしっくりきますでしょう? 偶然得てしまった体質がこのような訳の分からない体質だった、というよりもずっと納得いきますわよ」

「もし君の体質が望んだから得たものだとして……君は後悔はしていないのか?」


 不意に永久が踏み込んだ質問をしてきた。

 だが、リズは微笑んで答える。


「お祖父さんの本心は分かりましたから。後悔なんてしてませんわよ」


 この体質によって、静馬の本心を聞けた。

 彼はリズのことを強く心配していたのだ。

 外に出さないのも、外部の人間にリズの存在を知られないためだと心の声を聞いて分かった。


「心配性な人間だったのだな、静馬は。まるで、誰かと同じではないか」

「……って、それ俺のこと言ってるだろ? 勝手に同じにすんな」


 と、頼来が口を挟んだ。


「祖父さんは欠落症の人が連れて行かれるのを見てきた人だから、少し特殊なんだよ」


 欠落症が発生した当初、先進諸国では欠落症を患った人間を救護するという名目で、欠落症の原因究明のために様々な人体実験紛いの調査を行っていた。

 静馬はその頃の世界の様子を間近に見ていたのだ。だから彼の心配は、決して被害妄想ではなかったはずだ。


「そうですわね。頼来は心配性ですけど……私を家に閉じ込めたりはしませんものね」


 リズは振り返る。

 頼来と出会ってからのことを。


 今から六年前、家族を失くした頼来は静馬に引き取られてここに来た。

 その時に、二人は出会った。

 彼はリズの体質を聞いて自分から、俺を見たければ見ればいいと言った。

 直後の観測で彼の考えは分かった。

 リズに外の世界を見せてやりたいと思っていたのだ。


 小さな身体を持ち、長期に渡って眠りを強いられるリズは、もう、おいそれと外の世界を出歩けない。であれば、観測することで外の世界を見れば少しは気が紛れるのではないか。頼来はてらいもなく、そう考えていたのだ。恐らく、心配しつつもリズが外の世界を出歩くのを止めないのは、その想いが彼の中に根強くあるからなのだろう。


(……頼来に感謝しているのは永久だけじゃありませんでしたわね)


 リズは頼来を一瞥し、ぼそっと小さな声で、


「ありがとうございますわ、頼来」

「……なんだ、突然」

「少し、思い出しただけですわよ」


 思い出したというよりも、多分、思い直したというべきだ。

 ついさっき、この体質を持って後悔していないと言ったが、理由は違ったのだ。


 後悔していないのは、彼がいたから。

 彼が外の世界を見せてくれるから、今もこうして前ばかり見ていられるのだ。


「何を思い出したんだよ?」

「こ、こういうのは聞き流すところですわよ、貴方!」


 リズは急に恥ずかしくなり、誤魔化そうと強めに言った。だが、頼来には伝わらなかったようだ。

 困ったように眉尻を下げた彼を睨み上げていると、後ろから、


「リズが後悔していないのは、君のおかげだと言いたいのだよ」


 永久が言った。


「君は本当に察しが悪いな、頼来」


 優しげな声音で言った。


 小さな微笑みを、たたえながら。


「――笑った」「――笑いましたわ」


 頼来とリズは思わず呟いてしまった。

 だが、それは無理もない。

 出会ってから今の今まで、永久が笑うところを見たことがなかったのだ。


 今、彼女が浮かべる笑顔は、小さな表情の変化でしかなく、ずっと彼女の側にいたからこそ、ずっと見ていたからこそ気づけたような、そんな微笑みだった。


「どうした? 二人とも。私の顔に何か付いているのか?」


 永久はそんな在り来たりな反応を見せると、小さな手で自分の顔を拭い出す。


「違うよ。お前が笑ったから驚いたんだよ」

「私が?」


 らずらずのことだったのか、永久は意外そうに聞き返した。

 一瞬の間をつくってから、小さく首を振ってすぐにいつもの澄ました顔に戻してしまう。


「別にいいじゃねえか。隠すなよ」

「……あまり感情を表に出すのは好きではないのだ」


 永久にしては珍しく、正直に答えた。


「楽しかったりすれば、笑えばいいだろ? 感情を表に出すのは悪いことじゃねえぞ」

「頼来が言うと自己弁護に聞こえるな」


 永久は頼来がたびたび感情的になることを指摘しているのだろう。流石に何も言えないのか、頼来はばつが悪そうに口を閉じた。永久はその様子を見て、尻尾で床を撫でると、


「冗談だ。だが一応は忠告のつもりだ。感情を無くす必要はないが、感情を制御出来るようにはすべきだ。その方が色々と都合がいいのは事実だろう?」

「お前はコントロールできてるってのか?」

「……多分、そんなことはない。私は肝心な時に感情を操れなくなるのだ」


 息をつき、憂いを帯びた瞳を揺らして、「昔……」と永久は語る。


「母様は私が物心つく前から、体質によって短い間隔で入退院を繰り返していた。そして、私が四歳の時に長期に渡って入院することになったのだ」


 幼い永久は父親から、これから長い間、母親は家には帰れないと聞かされた。この頃から彼女は聡明であったようで、ちゃんと意味を理解していた。

 無理矢理に納得したのだ。


「それから四年が経ったある日。それまで一度たりと病院から出られなかった母様が、一日だけ家に帰れるという話になった。その日は、私の八歳の誕生日だった。それに合わせて、退院する日を決めてくれたのだと思う。私は心の底から、喜んだ。誕生日などどうでもよくて、母様が家に帰ってくるという事実が、ただ嬉しかったのだ」


 永久はそこまで流麗に話すと、言葉を詰まらせつつも話を続けた。


「だが、結局、母様は家に帰ってこなかった。数ヶ月は小康状態を保っていられたのに、その日になって体調が悪化してしまったのだ。会いに行くと、母様はベッドの上で、青い顔をして私に言った。『大切な日なのに、帰れなくてごめんね』と。――その時だ」


 積もり積もった負の感情は、永久の身体から溢れ出した。


「私は泣きながら、母様に言ってしまったのだ。『何故、こんな時に限って体調が悪くなるのですか!?』『ずっと、ずっとこの日を待っていたのに!!』とな」


 その言葉を聞いた時、母親はどんな気持ちだったのだろう。

 慨然としただろうか。

 愁嘆としただろうか。

 それとも忸怩じくじたる思いに胸を突かれただろうか。


「母様は優しく微笑んで、憤る私に『ごめんね』と謝るだけだった。あの時の悲しそうな笑顔だけは、どうあっても忘れることが出来ない」


 脳裏に焼き付いた映像を見るように、永久は目を瞑って言った。


「その時の私でも、後悔しても遅いと分かっていた。だから後日、せめて謝ろうと思った矢先に……母様は昏睡してしまったのだ。それから今まで、母様が覚醒することはなかった。ずっと意識を失ったまま、病院のベッドの上で眠ったままだった」


 結局、私は母様に謝れなかったのだな

 

 ――泣きそうな声で、永久は感情の見えない顔を貼り付けたまま呟いた。


 彼女が感情を見せないように振る舞っている理由。それは過去の過ちゆえのもの。感情を晒してしまい、自らの肉親を疵付けてしまったから、彼女はそれを嫌うようになった。


 永久はしばらく間をおいて、気付いたように萎れていた尻尾を動かし、


「すまない。急に変な話をしてしまったな」

「変でもなんでもないだろ。俺は今の話を聞けて、嬉しかったよ」


 永久は本当に母さんが好きだったんだな、と頼来は永久の頭を優しく撫でた。

 彼女は目を細めるだけで、抵抗しなかった。


 頭上で作られる光景を眺めながら、リズは思った。


(少しは永久も素直になったみたいですわね)


 よかった、と心の底から安堵したその時、ふいに襲ってきた。いつもの、睡魔が。


(やっぱり、無理して起きるとこうなりますのね……)


 その思考を最後にリズは意識を手放した。

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