第五章

第一編 第五章 ①


「検査の結果、命に別状はないってさ」


 狭い病室の中に霞さんの声が反響する。

 貴女は壁に背をつけて、しかつめらしく腕を組み、目を閉じてそれを聞いていた。


「外傷も右手の甲の骨折と肋骨にひびが入っているだけで、さほど大きなものじゃないし」


 目を開くと、目の前にはベッド。

 その上には病衣に身を包んだ頼来が横たわっていた。

 規則正しく胸が上下して、彼が眠っていることと彼が生きていることが伝わってくる。


「……まだ起きないけど、軽い脳震盪のうしんとうだから。心配はないよ、蒼猫」


 ベッドの側、丸椅子に座って蒼猫は眠った頼来を黙って見下ろしている。背を向けているので貴女からは表情は見えないが、想像はできた。

 確認するまでもない。

 霞さんの声がやむと、部屋には冷たい沈黙が流れた。微かに時計の針が進む音だけが聞こえ、一度捉えると、段々に音が大きくなっていくような錯覚に陥る。

 貴女は大きく息をついて、壁から身体を離した。


「少し、外の空気を吸ってくる」


 言って歩き出しながら、貴女は霞さんに目配せした。彼女は瞬きで応じて、


「蒼猫は、どうする?」


 霞さんの言葉に、蒼猫は頼来から視線を外さず、黙って首だけを振った。


「あたしも少し風に当たってくるよ。何かあったら、気軽にナースコールで誰か呼べよ? すぐに来てくれるからな」


 蒼猫は声を出すのも億劫なのか――声を出したら、他に何かが溢れ出そうなのか――ただ頷いた。それでも反応を返すだけマシといったところか。

 貴女はそれを見届けると静かに部屋を出た。次いで霞さんが部屋を出て、二人は連れ立って歩き始める。

 入院棟の廊下には貴女たち以外に人がいなかった。

 すでに八時をまわっており、面会時間はとうに終わっているのだ。

 霞さんが鳴らす靴の音が、断続的に鳴り響く。

 頼来たちが気を失った後、私は貴女に頼んで救急を呼んでもらった。

 その時には既に連絡があったらしく――おそらく、叔父さんがしたのだろう――その間にも頼来たちはここ撫原医院に運ばれて、それぞれ検査をしてもらったのだ。

 ニャー先輩は当然、外傷はなく、他の病室で眠っているらしい。

 頼来も同じく、意識を取り戻していなかった。


 何故、こんなことになったのか、未だに私は混乱したままだ。

 それはたぶん、貴女たちも同じなのだろう。

 終始、貴女たちは無言だった。

 黙ったまま廊下を渡って階段を降り、裏口の扉を通って外に出た。緑豊かな裏庭の石畳の道を静かに歩く。夜の帳に包まれて、周囲はうす暗く、建物から漏れる光りが微かに足下を照らしていた。

 しばらく、歩いたところで貴女は、そろそろいいかと考えて、


「それで霞、頼来の容態はどうなのだ?」


 繰り返し尋ねた。

 それは先程、霞さんが説明したのではと私は考えたのだが、


「……やっぱり、永久には分かるよな」


 どういう意味か、霞さんは彼女の質問を肯定するようなことを言った。


「軽い脳震盪だと? そんな理由が成り立つものか。もし、脳震盪だとしても、意識を失うような場合は中度から重度のものだ。彼はすでに一時間は意識を回復していないから、間違いなく重度。脳に何かしらのダメージがある可能性もある」


 貴女はつらつらと話すが、


(ちょっとお待ちなさい! ……そんなに深刻な状態ですの?)


 私は不安に駆られて、すがるように質問してしまった。

 それと同時に、だからこの二人は外に出てから話し始めたのだと理解した。

 蒼猫に聞かせて、不安を煽る必要はないと考えたのか。


「リズも気にしているようだ。実際のところ、どうなのだ? 霞」


 貴女は彼女を見上げて、誤魔化すなよと目で訴える。

 霞さんは見返して、ふうっと音をたてて溜息をついた。


「正直に言うと、詳しいことは分かってないんだ」

「検査の結果は?」

「CT検査はしたけど、特に異常は見られなかった。頭蓋(ずがい)内には小さな出血もないし、微かな異常も見つけられないってさ。だから、どうしてまだ意識を回復していないかは、見当もついてない。……悪いな、役に立たなくて」

「ふむ、脳については医者でもそんなものだろう」

「ただ、容態は非常に安定してるみたいだし、大丈夫だって」

「……」


 二人は黙り込んだ。

 そうは言っても、心配には違いない。

 詳細な原因が分からず、頭を打ったという事実が少なからず死を予見させて、楽観的にはどうやってもなれなかった。

 永久は普段と変わらず無表情を、霞さんは沈んだ表情をみせていたところ、


「おめえら、随分と辛気くせえつらしてんなあ」


 どこかから声をかけられた。


「厳殻か」


 呼ばれると暗がりから白衣姿のご老人が――厳殻さんが姿を現した。

 白髪を短くそり上げて、幾重にも皺を寄せた厳つい顔の彼。

 名は体を表すという言葉を体現するがっしりとした体躯は、老人というイメージからかけ離れている。

 彼が霞さんのお祖父さんであり、ここの院長である。


「祖父ちゃん、どうしてここに……あ」


 霞さんは言いかけて、目ざとく理由を見つけた。


「また煙草吸ったんだな!? しかもまたこんなところで!!」

「ホントにおめえは小言が多いな。そんなにガミガミしてたら、嫁のもらい手なくなるぞ」

「余計なお世話だ! それにこれは小言じゃ」

「どうせ老い先短いんだ。煙草くらい多めに見ろや」


 老い先短いからこそじゃないか――と霞さんは口の中でもごもごと言う。また小言を言いそうになって自重したらしい。

 その隙を突いて厳殻さんは、


「頼来は心配いらねえよ。どうせ、すぐ起きる」

「それは貴方の所見か?」

「ただの勘だ」

「たいしたヤブだな」

「おいおい、俺の勘を信じねえのか? これまで何万人の人間診てきたと思ってんだ」


 厳殻さんは心外という風に、肩を竦めて言った。


「医者は全知じゃねえ。どうやったって理論じゃ限界が来る。そこから先、大切なのは直感なんだよ」

「……やはりヤブではないか」


 貴女は呆れて溜息をついた。

 ただ、何十年と医師を続けてきて何万人と患者を診てきたことは事実で、その彼が断言するのだからほんの少しは気休めになるか、とは思う。


「死にゃあしねえよ、あいつは。ほっとけほっとけ」


 厳殻さんは手を振り、軽く頼来の話は流して、


「んなことより、今回の原因である仁愛の嬢ちゃんのことだろ。体質らしいな、ありゃ」

「話を聞いたのか?」

「ん? おめえらはまだ聞いてねえのか」


 どうやらニャー先輩は目を覚ましたらしい。

 厳殻さんは顎の無精髭を触りながら、


「ま、それが正解だな。ちょいと嬢ちゃんは説明がへたくそで、聞いたって何が何やら分からんかったからな。嬢ちゃんのかかりつけの病院に聞いてようやく理解したくらいだ」

「彼女の体質はどのようなものなのだ?」

「簡潔に言うと、家族を護ろうとする、っつーものだな」

「護る、だと? 抽象的すぎるぞ。具体的に話してくれ」


 厳殻さんは貴女を見据えて語り出した。


「聞いた話をそのまま話すぞ。家族が危機に陥ったり、そこまででなくても、例えば誰かに責められたりすると嬢ちゃんは体質により、一種のトランス状態になって、その危機の原因を排除しようとするらしい」

「排除……それであれか」


 貴女は頼来の姿を思い浮かべ、私はあの時の光景をよみがえらせた。


「詳しくは調べてみないと分からんが、嬢ちゃんの身体は欠落症特有の――人間とは組成が違うんだろうな。通常では考えられない柔軟性と伸縮性を兼ね備えていて、いわゆる怪力なわけだ。体質が現出したときだけ、トランス状態によりそれを操る。原因を排除した後に嬢ちゃんは意識を取り戻し、体質が現れている間のことは何も知らないらしい」


 貴女はそれを聞いて、頼来の話を思い出す。

 それは彼がニャー先輩と再会した日のこと。

 あの時も彼女は、

 

 そして、原因を語る時、彼女は言い淀んでいた。

 それは体質によってそうなったことは分かっていても、言い出せなかったからではないか?


 疲労が理由にしては、その後の様子はまったくと言っていいほど元気だった彼女。

 貴女は確信する。あれは、体質が原因で起こったものなのだ。

 ようやくだ。

 ようやく彼女に関して引っかかっていたものが、その正体が見えてきた。


「嬢ちゃんの体質が現出したのは、八年前だ」


 厳殻さんは身体をゆすって、話を続けた。


「ちょうどその頃、家庭内で色々と問題が起きていたらしい。具体的には、両親の親族が駆け落ちした二人の居場所を突き止めて、押し寄せてきたんだ。理由は単純明快、駆け落ちした二人を糾弾するためだ」

「それが『責められたり』という話なんだな?」


 霞さんが先程の要約から言葉を拾って確認する。


「だろうな。なんでも嬢ちゃんが入っちまった家は異常なまでに欠落症の人間を嫌っていたとか? ままある話だが、くだらねえ旧態依然の家庭問題よ」

「酷い話だよ……どうしてそうやって、欠落症の人をいとうんだ」

「その親族連中に嬢ちゃんの両親は責められ続けたらしいな。それをずっと聞いて、見ていたんだろうな。両親が責められるのを、小さな嬢ちゃんはずっと見ていた」


 私はその場面を想像してみるが、無理だった。想像に難くない話だけれど、実際は想像なんか比較にならないものなのだろう。

 小さいころに、自分を引き取ってくれた恩人でもある両親が、誰かに不当に罵られる。

 ――その時の気持ちなど、想像も出来ない。


「……さぞかし、辛かっただろうな」


 霞さんが声を濡らして言った。

 これはいつものことで、彼女は涙をハンカチで抑えていた。

 彼女は感受性が強すぎるためか、こうして涙ぐむことが多い。

 厳殻さんは仕方ねえ奴だなといった顔で溜息をついて、


「そんな日々を過ごす内に、嬢ちゃんはこの体質を得た。そして、体質は両親を苦しめる奴らを追っ払うようになったって話だ。言っちゃなんだが、結果的には」

「……待て、厳殻」


 気づけば聞きに徹していた貴女が、不意にぽつりと疑問を投げかけた。


「仁愛の体質が仮に君の言う通りだとして……それはおかしくないか?」

「何がだ?」

「今の話では、仁愛の体質は何処までも目的論に準じている。彼女の体質は言ってしまえば、家族を護るためだけに存在するのだよ。まるで……」


 貴女は神妙な声音で言った。


「まるで、のようではないか」


 私は貴女が何に引っかかっていたのか、理解した。

 欠落症の人間はふとした拍子で、体質を得てしまう。

 それは蒼猫のような特殊な体質だったり、一般的によくある血が固まりにくい体質だったり、性質は多種多様に存在した。

 これは自動的に得てしまうものであり、勝手に強要されるものであった。

 それが一般的に知られていることだ。

 そして事実でもある。


 ただ、例外もあるのだ。


「おめえは知らなかったのか。……公表されているもんじゃねえから仕方ねえな」


 貴女なら知っていると思っていたのか、厳殻さんは少しだけ驚いたように言った。


「あるんだよ、それが。欠落症患者が、何かを強く望んだ結果、その望みを叶えるための体質を得てしまうことがな」

「……本当か? そんなことがあれば、もっと周知されているものではないか?」


 貴女が当然の疑問を吐くが、厳殻さんは首を振った。


「それも仕方ねえ。ここ数年でそういった症例が見受けられるようになったんだからな」

「最近になってだと?」

「おめえは欠落症患者が生んだ子供が、必ず欠落症を患うという話は知ってるな?」


 厳殻さんは唐突に問うた。

 欠落症は遺伝子的な病気ではにも関わらず、必ず遺伝する。

 これは一般的に知られていることだった。

 質問するまでもない。

 貴女は彼の唐突な質問の、その真意にすぐに気づいた。


「要するに、、望んだ体質を得ることがあると言いたいのか」

「そういうこった。だから、最近になって出てきた事実なんだよ」


 厳殻さんはなんでもない風に言った。

 実際、なんでもない話。

 知っている人は知っている話だ。

 現に霞さんは知っているらしく、何も言わなかった。

 私も、それに頼来もよく知っている話だった。


 望んだ結果得られる体質――

 そう言い表すと、どんな望みでも叶えられるように聞こえるが、実際は全く違った。

 望んだ体質を得られることがあるだけで、必ずしもそうなるわけではない。

 ほとんどが、一般的に言われている通り、強制的に辛い体質を押しつけられるものだ。

 そうでなければ『血が固まりにくい』などという厄介な体質は誰も持たなくなるだろう。


「……仁愛の体質が……そうか……」


 貴女は拳を唇に当てて、一人呟いた。

 何かを深く考えているようにも、ぼうっとしているようにも感じる。

 ただただ静かに、貴女は俯いた。


(どうしましたの? 永久……?)


 私が心配して声をかけると、貴女はおもむろに顔を上げ、厳殻さんに尋ねかけた。


「その体質を得て、親族連中を追い返すようになって、結果的にどうなったのだ?」

「結果的には、それが功を奏して、以降は親族が現れることはなかったらしいぞ」


 彼女は幸いにも目的は果たせたらしい。

 家族を護るために、原因となる敵を判断して、排除するような体質を得てしまった。

 自分を養子として迎えてしまったがために、両親が責められて。

 両親はそれでも自分をかばい、さらに責められることになって。

 それをどうにかしたいと、助けたいと願うのは、たぶん、当然のことか。


 強く家族を助けたいと願った末に、彼女はその体質を得てしまったのか。


「家族を助けたいと願った末に得た体質……か」


 だとしても、変だな――貴女は納得しながらも、そう呟いた。


「厳殻、他に聞いたことはないのか?」

「さあな。病院側は体質についてしか知らねえみたいで、詳しくなかったからな。まだ何か気になることがあるのか? おめえ」

「条件が曖昧だが、とにかく彼女は家族に害為すものを排除しようとして体質を現出させるのだろう? だとしたら、今回は何故そうなったのかが分からない。

「それは少し違うな。嬢ちゃんの体質は、一度敵と見なした人間は、両親が亡くなった後も変わらず拒絶しようとしたらしいからな」


 だからこそ、叔父さんに対しては明らかに敵意を露わにしていたのか。

 そして、叔父さんもそれが分かっていたから――分かっていたからこそ、あの時、彼は動けずにいたのだろう。

 いつニャー先輩の体質が現れて、自分を襲うとも限らない。

 更に言ってしまえば、間に挟まれていた頼来を巻き込みかねない状況だったのだ。

 言葉を慎重に選ぶ彼の性格からして、無闇な行動は取りそうもなかった。


「まだ一つ、腑に落ちないことがある」


 貴女は私と同じように叔父さんについては納得しながらも、そう言った。


「仁愛から、祖母は自分を受け入れてくれたと聞いていた。祖母は彼女にとっての敵ではないのだ。にも関わらず、仁愛は明らかに祖母に対しても体質が現れると考えて行動していた。それは祖母に対しても体質が現れるからではないか?」


 貴女の言う通りだ。

 静恵さんとニャー先輩は連絡を取り合っていないと言っていた。

 当然それは、直接会ってもいないということを意味する。

 理由は『家庭の事情』と――それが原因ではあると言っていた。

 要するにニャー先輩の体質によって、静恵さんは彼女と会うことができなかったのではないだろうか。

 また、ニャー先輩も自分の体質が静恵さんにも危害を加えると分かっていたから、連絡せずに会おうともしていなかったのではないか。


『心配させるだけになっちゃいますので……お祖母ちゃんを、心配させたくないです』


 そうなるとあの時の言葉も少し意味合いが変わってくる。

 確かに彼女が倒れたことを静恵さんに伝えたところで、意味はない。

 会うことも話すこともできないのに、倒れたという事実だけが伝わるのでは、まさに心配させるだけである。


「俺に聞くな。んなに気になるなら、直接話してみろや。独り考えることじゃねえだろ」


 独りごちていた貴女は、厳殻さんの発言に、はっとした。


「待て、厳殻。仁愛はもう起きているのだったな。それは何分前の話だ」

「何分って、おめえらまだ会って……」

「いや、あたしたちは会ってないぞ?」

「……変だな。だいぶ前に、嬢ちゃんは頼来の様子を見にいくって病室を出たぞ?」


 厳殻さんが首を傾げた直後、


「リズ、君はまだ仁愛を直接見ていないな?」


 貴女は私にそんなことを尋ねてきた。


(見てませんわよ? それがどうしましたの?)

「今すぐ、彼女を引き留めて欲しいのだよ」

(ど、どういうことですの?)


 貴女が何を言っているのか、分からない。


「彼女はあえか荘にいる。それに予想が正しければ、出て行くつもりのはずだ」

(出て行く? 何故……)

「理由はあとで話す。とにかく彼女がいなくなったら面倒だ。だから、頼む」


 貴女が何を言っているのか、まだ私には分からなかった。

 ただ、貴女が私に何を求めているのかは分かった。


 私がをあまりしたがらないことも、少なからずも承知しながら、貴女は私に要求しているのだ。


 何故、そこまで真摯に頼むのか。

 それはたぶん――


「やってくれるか?」

(……仕方ありませんわね)


 蒼猫ではないが、私はそう心得て、


 


 ――これはたぶん、彼のためなのだろう。


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