4章(過去編) 2014年 10月13日―14日 上海
第12話 殺し屋鴉はセダンを走らせデートに向かう
2014年10月13日(一年前)
上海/外灘の大通り
鴉はガードレールに腰かけ、ヘッドフォンで音楽を聴いている体を装いながら、鈴蘭にしかけた盗聴器から受信した音声データに耳をそばだてていた。
『バンドの目抜き通りに、海老料理がおいしい『アルべリア』ってレストランがあるんだ。ソースに甲殻類とか大豆とか使ってるけど、鈴蘭さん、アレルギーとかない?』
『……ないよ。大丈夫』
鴉は、まるで曲に陶酔しているかのように、心地よさげに指を鳴らした。
* * *
2014年10月13日(一年前)
上海/レストラン「アルベリア」
鴉は上海の旧租界の一等地、外灘の目抜き通りにある高級レストランを訪れていた。シックな黒いドアを抜け、白と黒の市松模様のタイルをしきつめた小さなロビーに足を踏み入れる。
「ご予約のお客様でしょうか? お名前を伺っても?」
カウンターにいた男が言った。鴉は腕を組み、その男をじっくりと観察した。
――左手の薬指に日焼けのあと。ホールスタッフでもないのに結婚指輪を外すのは、離婚したから? いや、器用そうな男だ。離婚歴はないだろう。指輪を外すのは、これから浮気相手に会うためか。頬にひっかき傷がある、浮気相手はそうとう気の荒い女らしい。
鴉は自身のコートとマフラーを店員に預けると、店の入り口を親指で指した。
「あんたの女に伝言を頼まれたのさ。裏口で『奥さんを殺してやる!』って叫んでたよ」
男は真っ青な顔で駆けだした。鴉はポケットに手を突っ込み、目だけ動かして男の姿を見届けてから、無人になったカウンターを通り過ぎた。大理石のステップを踏み越え、店の奥へと進んでいく。
シャンデリアが、吹き抜けのホールを暖かなオレンジ色に照らしていた。ドレッシーなインテリアが煩雑にならない絶妙な間隔で並べられている。真っ白なクロスにくるまれたアンティークのテーブルは、ほんの少し覗かせる脚だけで、その年季と重厚さを十分に主張していた。
鴉はウェイターが盆に乗せて運んでいたグラスを一杯抜き取り、近場のテーブルで談笑していた老人へと放った。老人のタキシードが濡れた。
「おっと、これは失礼。手が滑った」
鴉はいかにも申し訳なさそうな顔つきで、老人のタキシードをハンカチでふく。温厚そうな老人は、気にしていませんと言うかのように笑いかけてくれていた。鴉は、首元に手をかけたとき、老人の 蝶ネクタイを外して
右手奥のテーブルで、椅子の背に三つ揃いの上着とコートをかけている黒人の男がいるのを目にし、鴉は即座に男の背後に回った。
「お召し物が汚れてはいけません。カウンターでお預かりいたしましょう」
鴉は、カウンターにいた店員の声を完全に真似て言った。黒人の客は、相手の顔を確認することもなく、「ああ、そうしてくれ」と手をひらひらさせた。
鴉はコートとジャケットとベストを抱えテーブルを離れた 。フォーマルな紺色のベストを抜き出し、コートとジャケットは手近なテーブルクロスの下に丸めて捨てた。
調味料の瓶を両手いっぱいに抱えて運んでいるウェイターが、鴉の前を通り過ぎようとした。
「キッチンに持ってくんだろ? 任せとけ」鴉が言った。
ウェイターは「新入り?」と訊きながら、調味料の瓶をまとめて渡した。鴉はただ、にっこりと微笑んだ。他の客に呼び止められたウェイターは、そちらに駆けていく。鴉は3つある調理油の中から アルガン・オイルの瓶を選ぶと、それを手のひらにそっと注ぎ、髪を丁寧に整えた。
こうして店内を軽く一周してきた鴉は、ステップを降り、店内入り口にあったカウンターへと戻ってきた。例の浮気男はまだ戻っていないらしく、カウンターは無人だった。
鴉がカウンターについた瞬間、二人の客が黒いドアを開けて入ってきた。一人は青い目にプラチナブロンドの髪をした若い女、もう一人は、うさぎの耳の装飾のついたコートを着た少年だった。
「いらっしゃいませ」鴉が笑いかけると、金髪の女が、苦虫を潰したような顔をした。
白いシャツと黒いスラックスに身を包み、フォーマルな紺のベストを羽織り、蝶ネクタイを首に巻き、髪を油で整えた鴉は、胸に手をあてうやうやしい仕草で一礼した。
「ご予約のお客様でしょうか? お名前を伺っても?」
* * *
「じゃあ、こいつはどうかな? 最近イタリア系移民の勢力に潜入してきた殺し屋なんだけど、すごいよ?
うさぎ強盗は「プレゼント」と称して、その殺し屋の死体の画像を鈴蘭に見せていた。汚職の証拠品で政治家を脅迫した弁護士、縄張りを無視して麻薬を勝手に捌いた若者グループのリーダーなど、様々な懸賞首の死体の在り処を、うさぎ強盗は提供してきた。
「……うさぎ強盗、あんた、何でこんな真似すんの?」
「もちろん、鈴蘭さんを射止めるために。鈴蘭さんだって、服やアクセサリー貰うより、こっちのほうが嬉しいでしょ?」
「……そこはまあ、そうなんだけどさ」
言葉を濁す鈴蘭の顔を、うさぎ強盗の少年は嬉しさ満面といった様子で眺めていた。鈴蘭は口を真一文字に結んだまましばらく考え込んでいたが、やがて切り分けた鶏肉を口に運んだ。
――分かんないなあ。こいつ。
――ジャック・ピストルズの賞金獲得額ランキング2位。3か月の短いキャリアを考えれば、事実上、ダントツ一 1位の実力をもつポーカー・プレイヤー。要するに、誰よりも人の心が読める男……のはずなんだけど。
鈴蘭は手の中でナイフをさっと回し、刃についたソースを落とした。切っ先を少年に向ける。
「あんたは、本当にあたしが惚れる可能性があると思ってる」
「もちろん」
「そのためには、梟を殺すのが最善だと」
「そうだよ」
「……あんたって、人の感情に疎い人? 相手にどう思われるか、わかんない人?」
「そんなわけないじゃん。人の心理については専門家といってもいい」
「……うん、実績だけ見ればそこに疑いの余地はないんだけど」
うさぎ強盗の奇妙な態度に、鈴蘭は心中で頭を抱えていた。梟の仇として、うさぎ強盗に憎しみの感情を向けているはずだった。しかし突然向けられる善意や贈り物、こちらを戸惑わせる不思議な態度にはぐらかされ、知らない間に矛先を逸らされているのだ。
鈴蘭はギュッと目をつむり、首を横に振った。
――ペースを崩されかけてる。もっと気を張らないと。
うさぎ強盗の少年が、ふと、眉をピクリと動かした。
「ねえ鈴蘭さん、外をよく見てみなよ」
「外?」
うさぎ強盗の少年はガラス張りの壁を指差すが、鈴蘭は首を傾げることしかできない。夜も更けた時間帯、加えてきらびやかな照明に照らされた店内――。
「見ろって言われても……」
ガラスはまるで黒い塗料を薄く塗った鏡のように、鈴蘭たちの姿を映し出すだけだ。
「鈴蘭さんは耳や眼の鍛え方が足りないなあ。まあいいや、ちょっと立って、一歩壁から離れてみてよ」
「え? ああ、うん」
鈴蘭は言われるままに立ち上がり、一歩進んだ。
「んー、やっぱりもう一歩」
「いいけど、何なの? これ」
首を傾げながら、鈴蘭は言われた通り窓から少し離れた。それを見届けると、うさぎ強盗の少年は両手ですっぽりと耳を覆った。二人はテーブルからほんの少し距離を置いたところで、ただ無言で見つめ合った。
次の瞬間、灰色のセダンが店内に飛び込んできた。
おびただしい数の真っ白なガラスの砕片が、あたり一面にまき散らされた。それはまるで朝陽に映えるダイヤモンドダストのように、キラキラとオレンジ色の光を反射していた。ガラスの破片が全て地に落ちる瞬間まで、うさぎ強盗と鈴蘭はただただお互いだけを見つめていた。やがて、同時にゆっくりと車へと視線を移した。
「あなたのためにイルミネーションを用意したんだ」
「……うん、そういう軽口要らないから」本気でつまらないと思ったのだろう。鈴蘭は仏頂面で言った。
――鴉のやり口だ。あいつ、あたしもろとも
セダンの後輪が枠に引っかかり、それ以上奥に進めないようだった。鈴蘭の立っている場所から目と鼻の先、わずか10センチほどの距離で、虚しくエンジンを唸らせている。
鈴蘭はセダンのボンネットを軽くさすった。蜘蛛の巣状の罅が入ったフロントガラスを覗くと、運転席には誰も坐っていなかった。
――遠隔操作か。まるでSFの世界みたい。
鈴蘭は周囲に視線を巡らせる。ほんの少しでも車と距離をとろうと逃げる客の流れと、興奮した顔で見物しようと近づく客の流れがもろにぶつかり、ホールは騒然とごった返していた。そんな中、ただ一人、じっと静かに佇んでいる男がいた。まるでこちらを値踏みするような視線を投げかけてくるその男は、いやらしい笑みをその口元に浮かべていた。
* * *
「……せっかくわざわざ窓際の席に誘導したってのに」
鴉は軽く頭をかきながら、レストランに突っ込んだ無人の車両を眺めていた。
――運転補助の制御アプリの更新を装って侵入し、ハンドルやアクセルの操作システムを乗っ取るクラックツール――自慢の新作だったんだけど。
鴉は小さくため息をついた。
――即席でさえなければなあ。もっと破壊力のある車種を選んで店ごと潰してやったのに。色々惜しすぎる。
「……あらかじめ気づくとはね、思った以上に勘が鋭いじゃないか、うさぎ強盗」
鴉は、鈍く光る眼をうさぎ強盗の少年に向けた。慌ただしく通り過ぎる客たちの影の隙間から、じっくりと観察した。
「ああん?」
うさぎ強盗の少年は、しきりに何かを気にするように、耳を撫でていた。
「なるほど、なるほど」
鴉は満足そうに口元をゆるませ、顎に手をあてた。
「あれが、うさぎ強盗の弱点か」
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