2章(過去編) 2014年10月12日―13日 上海

第7話 うさぎ強盗がうさぎ強盗になったわけ


 かつて上海に「鈴蘭」と呼ばれた殺し屋がいた。租界時代に貿易商をしていたイギリス人の血を引く白人で、髪はほとんど白に近い金に輝き、澄んだ湖を思わせる青い瞳を輝かせていた。彼女には「梟」と呼ばれる中国人の相棒がいた。


 鈴蘭と梟がどのような関係にあったか、一言ではとても言いつくせない。彼女にとって梟は、幼い彼女を拾ってくれた育ての親であり、自らを殺し屋として一流に鍛え上げた恩師であり、幾度となく背中を預けた頼れる同僚でもあった。


 鈴蘭が15のとき、初めて1人で暗殺をこなした。標的はブリティッシュ・スタイルのホテルに滞在していた海外の高官だった。彼を殺してしばらくの間、鈴蘭の目には、黒い靄のかかった高官の亡霊が映った。亡霊の頬の肉はごっそり削げ落ちていて、黄色く汚れた奥歯がいつも覗いていた。亡霊の眼球は腐って抜け落ち、空洞になった眼窩がんかにはうじと蜈蚣がうごめいていた。亡霊はいつも鈴蘭に笑いかけ、関節を不自然な方向に曲げて手招きした。鈴蘭は幼い子供のように頭を抱え、首を振って拒絶した。

 亡霊が姿を消すまで、鈴蘭は毎晩、梟の胸の中で赤ん坊のように丸まって眠っていた。ときには亡霊の幻覚にうなされ、梟の体を引っ掻いたり噛みついたりしてしまうこともあった。そんなとき梟は、痛みで顔を歪めることさえせず、ただ静かに鈴蘭を抱きしめるのだ。



、鈴蘭」



 梟は、暖かい声で静かに言った。チェロかホルンを一瞬だけかき鳴らしたような、耳に尾を引く不思議な静けさを残すトーンだった。何でもない一言のはずなのに、梟のこの台詞は、幾度となく鈴蘭の支えとなった。罪の意識に苛まれ断末魔の声が耳の奥から離れなくなったとき、いつもこの言葉と声のトーンが脳内で蘇り、ざわめきを消してくれるのだ。


 鈴蘭が17のとき、丁度その2倍の年齢を迎えた梟に、妻にしてくれと頼んだことがあった。鈴蘭は異性に恋い焦がれる心情などまるで理解できていなかったが、生涯を通じて傍にいる相手として、梟以上の適任者はいないと考えたのだ。梟は傷痕の走った大きな手のひらで、包み込むように鈴蘭の頭を撫でたが、首を振った。鈴蘭はふてくされたように頬を膨らませ、それでもしぶしぶうなずいた。


 鈴蘭が19のとき、梟は仕事のさなか殺された。梟が追っていた標的は、上海に逃げてきた日本人の懸賞首――電脳カジノから大金をせしめた、僅か12歳の少年だった。


* * *


2014年10月12日(一年前) 上海


 鈴蘭が駆けつけたとき、梟は既に息絶えていた。胸とこめかみを拳銃で撃ち抜かれたその死体は、壁に背を預ける形で座り込んでいた。うさぎの耳の飾りがついた深緑ふかみどりのコートを着た少年が、ぼんやりとその死体を眺めていた。


 鈴蘭に気づくと、少年は目を見開いた。


「あっ、え、いや……違っ……これは、僕が殺したんじゃなくて」


 少年が、恐怖で震えたらしい声音で言った。鈴蘭が銃を向けると、彼は目に涙を浮かべ、両手を肩の上に掲げた。


 二人が対峙していたのは、上海市外灘区の裏路地にある廃墟だった。かつてはホテルのフロント・ロビーだった場所だが、今ではもう見る影もない。まだら模様の絨毯は濡れた埃で黒ずみ、ワックスの剥げたテーブルは脚が一本折れていて、表面の革張りの破れたソファーからは、ぼろぼろと黄色いクッション材がこぼれ出ていた。


 鈴蘭は冷静な眼で少年を観察した。背丈は年相応だが、手足が長く均整がとれており、まるでモデルに縮小コピーをかけたような体つきをしている。腰元まである丈のあるロングTシャツの上に深緑のコートを纏い、下には黒いロングブーツを履いている――少し背伸びをしたような大人らしい装いが、妙に肌になじんでいた。


 鈴蘭は、梟の亡骸を目で指し示した。


「この人を殺したのは君?」

「違う! 違うよ!」少年はひきつった顔で首を振った。

「じゃあ、誰?」

「い、言えない」

「言えない?」


 鈴蘭は少年に銃口を向けながら、じりじりと距離を詰めた。少年もそれに合わせて後ずさるが、すぐに壁際に追い込まれた。


「い、いや……違っ」

「分からない、じゃなくて言えない。それってどういうこと?」

「い、言えない」


 鈴蘭は少年の足元めがけて発砲した。少年は身をすくませ、咄嗟に耳を両手で覆った。その必死な形相に、鈴蘭は蔑んだ視線を向けた。


 ――もう一押し必要かな。


 鈴蘭はさらに一歩距離を詰め少年の喉元に銃を突きつけた。少年は、もう壁に背が貼りついているというのに、少しでも銃口から距離をとろうとするかのように顎を上げた。


「答えなって、梟を殺したのは誰? あんたを狙ってる九龍新会? それともそいつらに雇われた殺し屋? ねえ、答えてよ」

「い、言えない」

「答えてって」

「……無理だよ」


 鈴蘭は、無意識のうちに語気を荒げ「答えろ」と命じた。


「い、言えないよ、だって……」


 その瞬間、鈴蘭の手に、鋭い痛みが走った。

 拳銃が、彼女の指をすり抜け、はるか高くに舞い上がった。

 少年は相変わらず怯えた表情を顔に浮かべ、小刻みに肩を震わせている。だからこそ、鈴蘭は反応が遅れた。 180と気づくまでに、コンマ数秒の時間を要した。


 ――嘘でしょ? 上半身、ほとんどノーモーションだったのに。


 銃は肩の上に挙げた少年の手のひらにストンと落ちてきた。その瞬間、怯えきった少年の顔つきががらりと変わった。鳶色とびいろの目に光が宿り、歯が見えるほど大きく口を開けて笑っている。


「だって『僕が殺した』なんて言ったら、怒るでしょ?」


 少年が鈴蘭に銃口を向けると、鈴蘭は反射的に身を捻らせ、弾道から急所を逸らした。少年はその瞬間を見計らい、鈴蘭の首を掴んで力任せに押し倒した。不安定に姿勢を崩していた鈴蘭は、なす術もなく床に倒れた。


 ――しくじった。 を甘く見た。


 鈴蘭は袖口に仕込んだナイフを取り出し、体勢を持ち直そうとする。

 そして、異変に気づいた。


 ――起き上がれない? 何これ?


 見えない腕に体を押さえつけられたかのように、鈴蘭の体はびくともしなかった。彼女は仰向けに寝転んだまま、四肢のうち唯一自由に動かせる右脚をばたつかせ、少年を睨みつけた。


「駄目じゃないか、鈴蘭さん、不用意に近づいちゃ。それにほら、無駄に厚着してる敵を見たら、手品の仕掛けを警戒しないと」


 少年は手の中でくるくると拳銃を回しながら、鈴蘭の上に馬乗りになった。鈴蘭は一瞬恨みがましい顔で少年を見やり、覚悟を決めて目を伏せた。


 乾いた音が響いた。


「…………」


 鈴蘭はうっすらと目を開けた。スマートフォンのカメラをこちらに向けていた少年と目があった。少年は全く目を逸らさないままにフラッシュを焚いた。同時に「パン」と爆ぜる音が鳴る。


「……ねえ」鈴蘭が躊躇いがちに沈黙を破った。

「あ、待って。そのポカンとした顔も撮るから」


 少年がシャッターのアイコンをタップした。鈴蘭は眉間に皺を寄せ、なんとか首を捻って顔をそむけた。少年は残念そうに「意地悪だなあ」と苦笑したが、なおもフラッシュを焚きつつづけた。


「……どういうことなの?」

「……ああ、これ? 最近新しいカメラアプリ入れたんだけど、何故かシャッター音の選択が全部銃声なんだ……『決定的瞬間を射抜いちゃう!』なんて、よく分かんないコピー掲げたし、確信犯かなあ、これ」

「違う、違う。そうじゃなくて」


 鈴蘭は見えない力に抗おうと、体をもぞもぞさせながら言った。


「何で撮るの?」

「え? そりゃもちろん、写真が欲しいからだよ?」

「……何それ、噂のうさぎ強盗が、あたしの写真をどう利用するっての?」

「それはもちろん、愛でるために」

「ふざけないで」


 少年はスマートフォンをコートのポケットにしまった。


「……ねえ、鈴蘭さん、何でうさぎ強盗が、『ジャック・ピストルズ』に喧嘩売ったのか、考えたことある?  バックに構える九龍新会に懸賞金かけられるのを考えたら、1300万ドルでも割に合わないのにさ……」

「……それでもお金が欲しかったんでしょ?」

「……違うよ」

「他に何があるの?」


 少年はうっすらと目を細め、わずかに首を傾げて微笑んだ。


「……うさぎ強盗はただずっと、あなたに会いたかっただけなんだ。そしてやっと、あなたたちの世界に入れた。僕は……俺はもうただの子供じゃない。あなたに命を狙われるステージに登ったんだ」


 少年は鈴蘭の顎に手を添え、顔を自分に向けさせた。鈴蘭の青い瞳を、少年はまっすぐ見据えた。


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