第20話

 校舎の中に入った時には、既に豪雨になっていた。極めて短時間での天気の激変だ。びしょ濡れになった俺たちはとりあえず化学室へ向かった。シャツが張り付いて気持ち悪い。

 さっきまで晴れていたから、あちこちの廊下の窓が開いている。校舎全部確認するわけにもいかないので、せめて化学室までの廊下の開いている窓だけは閉めて歩く。いつもは見える街並みが豪雨に煙って見えない。校舎内に避難してきた生徒の声と豪雨の雨音で、昼過ぎに静けさを感じた場所とは思えないほど騒然としてきた。

「ちょっと待ってね、今鍵出すから」

 そう言って匂坂部長はバッグから鍵を出して化学室の扉を開けた。


 ようやく気が休まる場所に来た、そんな気がした。豪雨から避難してきたせいもあると思うが、俺自身、この部室に馴染なじみつつあるようだ。

 一息ついて……、気がついて呼吸が止まる。これは……どうしよう……。

「すごい雨ねぇ、みんな傘持ってる?」

「あたしは教室に置き傘あるから」

「私は大丈夫よ。迎えの車が来るし」

 窓の外を伺いながら、3人とも目の前で動き回る。濡れた髪の毛が額に張り付き、雫が床に落ちる。いやそれよりも……。

「ねえ、堀川くん傘持ってるの?」

 雨に濡れた睫毛もそのままに匂坂部長が近づいてくる。

「コーチンはあたしの傘で一緒に帰ればいいのよ」

「そんな心配しなくても、いきなりくる雨は長く続かないわ」

どうしよう……。

「堀川くん、どうしちゃったの? さっきから落ち着かないわねぇ」

「あなたまさか雷が怖いとか? 違うわよね?」

「コーチン顔が赤いよ」

「たいへん、雨に濡れ風邪ひいちゃったのかしら」

「バカね。こんなに短時間で風邪ひくわけないでしょう」


「あの、すみません、みなさん、服が……」

 え? という顔で、全員が自分の濡れたブラウスに目を落とす。

 みんな、ブラウスが身体に張り付き、ボディラインとブラの柄がくっきりと浮かび上がっている。


「いやー! !ダメ!! 見ちゃダメー!!」

 そう叫んでいるのはもちろんリョーコだ。わめきつつ両手で俺の眼を押さえている。だから見えはしないのだが、リョーコのわめき声の向こうから先輩2人の会話が聞こえてくる。

「いやぁ、確かにこれは目の毒だったかなぁ」

「あなたまた胸大きくなったんじゃなくて」

「そうなのよ。このブラもうキツイから、また新しいの買わなきゃダメよね。でもこのサイズになると安くてカワイイのって見つからないのよね。いっそブラしないで学校来ようかと思うくらい」

 いかん、見えないと想像力が通常の3倍働いてしまう。表情筋がほどけそうなのをこらえる。

 リョーコはまだ恥ずかしいだの見ちゃダメだの俺の目の前で喚いてうるさい。我慢できずに俺は言った。

「大丈夫だ気にするな。少なくともリョーコは服が濡れたところでメリハリが強調されるわけでも……」

 俺はそれ以上しゃべる事ができなかった。

「なに? よく聞こえなかったんだけど」

 俺のみぞおちに右膝みぎひざをめり込ませながら、リョーコがささやく。何か言おうにも呼吸ができない。酸素を求めて水面に出てきた金魚のように、俺は口をパクつかせた。

「ちょっと廊下に出ててくんない? でないと別の所蹴り上げるわよ」

 俺は夢中で首を上下に振った。蹴り上げられてはたまらん。そこは機能の半分しかまだ使ってない。


 よろけつつ廊下に出ると、背後で必要以上に大きな音をたてて扉が閉まった。鍵が閉まる音まで大きい。

 俺はそのまま、閉められた扉を背にして、床にずるずるとへたり込んだ。みぞおちの痛みで呼吸もままならない。浅い呼吸が続き脂汗が流れる。

 脚と腰に感じる床の冷たさと、背中に感じる木の感触が、腹部の痛みに伴って懐かしい記憶を引き出した。

 そうだったな、パニックになってはいけない、腹で長く吸って止める、長く吐いて止める。それを繰り返す。

 痛みはまだ残ってるが、呼吸も大分楽になった。もうたいしたことはない。やれやれだ。

 ただ、胸に別の痛みが残ったが。


 楽になったら、背後の扉の向こうから聞こえてくる声が気になってきた。

「カーテンは閉めたんだから大丈夫よぉ」

「あなた、そのつもりで彼を外に出したんじゃなくて」

「え? いや、あたしはいいです。遠慮えんりょします」


 何やってんだ一体?


「気にする事ないじゃないの。私たちだけなんだし」

「そうね。こうする事は自然なことよ」

「でも……」

「いいから平山さんも全部脱いで、さあさあ!」


 中はいったい何やってるんだ!

 鍵穴はシリンダー錠だから中覗けないし、化学準備室は扉閉まって入れない。カーテンも閉めたとか言ってたから外からもダメだろう。せめてもう少し会話の内容を聞かなきゃと、扉に耳を張り付けようと近づけて……


 出し抜けに扉が開いた。外開きだったため、扉はカウンター気味に俺の側頭部と鈍い音を立てて衝突した。思わずそのままうずくまる。


「あら、失礼。でも、あなたそんなところで何してるの?」

 頭上から中之森先輩の声がする。見上げると、白衣からのぞく太ももが、じゃなくて白衣を着た中之森先輩が立っていた。

「もう入っていいわよ」

 そう言い残して歩き出す。その先には同じように白衣姿の匂坂部長とリョーコがいた。そしてその背後のカーテンに、さっきまで着ていたブラウスとスカートが、洗濯バサミ代わりの試験管ばさみで、あたかもパッチワークのように貼り付けられていた。

 なるほど、濡れた制服脱いで白衣に着替えたわけね。でもって制服はカーテンに吊るして乾かそうと。たしかに合理的ではある。

 いや、合理的ではあるんだが、白衣の下は下着だけというのが、とんでもなくイカガワシイ感じ!

 先輩コンビは神経が図太いのか無神経なのかホントに神経が無いのかわからんが、普段とかわらず顔色一つ変えていない。中之森先輩は窓の外を眺め、匂坂部長なんてリラックスして脚なんか組んで太ももむき出しだ。この2人、以前にもこんな格好してたのかな?

 リョーコは顔を赤くして、しきりに白衣の裾を気にしている。こっちの反応が普通だと思うが。

 匂坂部長がそんなリョーコに声をかける。

「平山さんナニ気にしてるの? 肌の露出面積は制服の時より少ないんだよ」

「それはそうなんですけど……」

 すみません、これなんてエロゲ? アタマがクラクラする。

「堀川くんも着替える?」

「いえ! 遠慮いたします!」

「そう、無理にとは言わないけど」

 ホッとした。下も脱げと言われたらどうしようかと思った。白衣の下から男が素足出してたら、ただの変質者だ。

 窓辺で豪雨の様子を見ていた中之森先輩が振り返って言った。

「すっかり冷えてしまったわね。コーヒー淹れましょうか。」

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